村上春樹にとっての分水嶺

両生学講座 =第三世紀= 第5回

前回、「《スキゾフレニックなステレオ視野》について、それでもやはり『動を3,不動を7』に配分するこちら側から見ているのが私です。つまり、ここには、この此岸と彼岸を分けるギャップがあるはずなのですが、一体それは何ものなのでしょうか」と、今回への方向付けを予告しました。

そこで今回、この設問への回答を試みるわけですが、実は私には、こうして村上春樹の世界を体験していながら、逃げ水現象のようにつかみきれない、常に気になっていることがあります。

それは、彼の作品に幾度も登場する、音楽やその演奏家の具体的名称を挙げての描写です。しかもそれがけっこう頻繁であるだけでなく、単なる比喩や説明的な表現とするだけでは終わらない、何ごとかを漂わせていることです。

ことに、そうした音楽の描写がジャズにおよぶと、それはいっそう念入りで、ひょっとすると、小説風のジャズ批評ではないかとも思わされるほどです。むろん、彼が大学を出た後、専業小説家になるまでの間、ジャズ喫茶のオーナーであったことも念頭においてのことです。

ちなみに、そうした彼の音楽への造詣の深さがおもんばかられる出来事がありました。それは、昨年の夏、松本での音楽祭(サイトウ・キネン・フェスティバル松本)で、指揮者の小澤征爾とジャズ・ピアニストの大西順子との共演――引退を宣言していた彼女を無理やり引き出すようにして――を可能にしたのは、どうやら彼であったらしいことです。つまり、ジャズばかりでなく、クラシックの分野までにおいて、音楽家たちの間での彼の存在の大きさがしのばれる出来事であったことです。

そうした多くの箇所に接しながら、私はまるで異国語に出会ったように、その表現の意味を十分にはくみ取れない不満な思いを残してきています。人間には不可視である光線が他の動物や昆虫には可視であるように、そうした世界は、私には不可知の世界であるかも知れないのです。

そういう意味では、村上春樹を体験するのは、読む能力のみでは不十分で、あわせて、聞くセンスも備えていなければ、まったく無意味ではないとしても、核心には到達できないのではないか、そう懸念されるわけです。

また、これと似たものとして、これは村上春樹体験というより、広く生活上の体験ですが、同類な「異国語」があります。

それは、踊ること、ダンスすることです。つまり、私は、「踊る」ことをしない人間で、そういう表現をもって、人と人とのコミュニケーションがとれない類の人種であることです。

私がこの「欠落」を初めて意識したのは、十代の末頃、二歳違いの妹が、その日常に「ダンス」をすることを発見した時でした。当時(1960年代なかば)、ツイストが外来し流行し始めていたのですが、彼女たちが友達同士で集まったりした時、ツイストを踊ったと聞かされたり、時に目にしたからでした。

むろんこうした「欠落」は、多分に、人や周囲の環境によって偏差のあるものです。しかしそうしたばらつきはありながらも、時代の趨勢として、平均的には広く世代的特徴であったことも確かです。そこで、三歳若い村上春樹の作品を読むに当たり、こうした「欠落」の存在とは、その彼の言わんとしていることをくみ取ろうとする際、何か決定的な欠陥となる可能性があると、上に述べた懸念を払しょくできないのです。

 

そこで、私に関する個人史上の特性を顧みておくと、私の周囲――十代末の当時は名古屋市内に居住――の同年齢世代においては、歌謡曲や流行歌などについては、ラジオやテレビを通じて様々な話題や没頭を生んでいました。でも、それらはあまり私の興味を引くものとはならず、後に、フォークが流行った際、いくらかの関心が頭をもたげた程度でした。

他方、当時、日常生活でダンスをする習慣はまだ始まっていませんでした(少なくともそう感じていました)。学校の授業やレクレーションで、フォークダンスというのどかな集団踊り体験はしましたが、それはあくまでも学校行事の一環に過ぎませんでした。むろんそうした時、気なっている女生徒の手を取って踊るチャンスが回ってきた時など、ドキドキさせられる体験はありました。しかし、踊ることそのものが自分の日常の欠かせぬ習慣となるほどではありませんでした。また、両親がダンスを楽しむという家庭環境にもありませんでした。

一方、私が子供時代を過ごした数大都市の住宅街区では、町内でのお祭りや踊りくらいは行われていましたが、どこか取って付けたような感の否めない、底の浅い地元行事のひとつでした。それも、十代後半になる頃には、その影の薄い伝統色すらもすっかり姿を消していました。つまり、日本の伝統文化にある踊りとか祭りとかという間口も、私の周辺の限りでは、開けていませんでした。

こうして、行くゆくは定着してゆく外来文化という関連において、それをダンス世代と分類するとすれば、私と妹との間ではすでに二歳の差で、その世代を分けるものがあったわけです。

そしてはるか後年、新たな人との出会いなどで、ダンスに誘われることが幾度かありました。しかし、それに応えきれない私との間では、そうしたコミュニケーションの習慣は育たず、それを欠くまま今日に至っています。自分のどこかに、悪いなとか、できるものならしてみたいとの願望はあるのですが、体が動かない――踊る自分になにか照れを感じてしまう――のはどうしようもありません。ダンスに関して、もはや私には、そういう明確な封印ができてしまっていたようでした。

つまり私は、輸入文化としてのダンスからも、日本の伝統文化としての踊りからも共に隔てられていた、特異な間隙世代の一員とでも言えるのでしょうか。

 そうしてともあれ、踊らない私自身は、その後、特に外国住まいをするようになると、西洋人社会はまさにダンス社会であり、かつアフェクション(身体接触)の世界でもあります。そこで、それらをしない自分自身を、強く異邦人と意識させられることにもなりました。

 

さて、以上はダンスに関してですが、音楽については、冒頭の「逃げ水」のたとえのごとく、個人史的特性を顧みようにも、いっそう手掛かりを欠いています。むろん、ダンス以上に日常的な接触があったことは確かでしょう。しかし、その度合いと言えば、おそらく、適度に耳や気分が消費するほどのもので、趣味や薀蓄としての厚みとなるような水準には達していませんでした。

強いて音楽にまつわるエピソードといえば、学生時代、東京西部の山間にハイキングにでかけたた際、持参していたFMラジオで聞いたベートーベンのピアノソナタの「田園」に感動したことを思い出します。その後、その演奏者の盲目のピアニストが来日した際、私としては異例にもそのコンサートのチケットを買って独り出かけたりしました。おそらく、音楽について、もっとも敏感であったのはその頃だったのでしょうが、それでもこの程度のものでした。

むしろ私は、絵画のほうに、幾分まさった関心があったようです。以前にも書きましたが、ことにゴッホへの注目は、二十歳代の私が文筆家以外の芸術家にみせた最大の関心でした。

そこで思うのですが、そもそも音楽とは、表現手段として、その抽象度の特に高い分野で、しかも音感の個人差はとても著しくかつ周囲の影響も大で、ダンスを含むその関連分野への関心を含めても、私にとっては相当、寄り付きがたい世界でありました。それだけに、それによって刺激されうる内容も乏しい限りなのです。

 

ところで、こうした私の個的特性をうんぬんする以前に、そもそも音楽やダンスとは、その根底に、人間社会の、ことに男女関係に伴う、深い情感交流の世界を前提にしないでは、大いに「仏作って魂いれず」な話でもあります。つまり、個人として音楽やダンスに疎いということは、その個人的体験に、そうした交流が皆無ではなかったとしても、その情感の深さへの立ち入りをその程度に済ませてきたという生硬さの表れの可能性があります。言うなれば、社会関係の最小単位ともいうべきその「マイクロ・コスモス」への私的審美の世界への接近を、極めて限定的にしか体験していなかったと言うことでありましょう。

そういう面では、ことに私の場合、18歳で入った大学が工科系の単科大学――しかも土木工学科という男中心の世界――で、それまでずっと男女共学校で過ごしてきたその学生生活の頂上が、その意味では、いかにも荒涼かつ不毛な高地でありました。そうした次第で、東京のど真ん中という沃地に生息しながら、甘美な冒険にくり出そうにもその対象にこと欠き、極めて“気真面目”な学生生活を送らざるをえない巡り合せとなりました。

 かくして、音楽にうとく、ダンスもせず、異性交際関係でも決して豊穣ではなかったのが私の青春末期でありました。そして同世代像としても、そうした硬派な(こんな言葉は今でも生きているのでしょうか)学生生活を送った、おそらく日本でもその最期を飾ったとも言える、歴史標本的な世代でありました。

しかも、「硬派」といってもそれは、きわめて青々と純度の高い、戦後民主々義型の「硬派」であったようです。たとえば戦前のバンカラ気風――戦後でもしばらくは地方などでは生き残っていた――に随伴するいわゆる赤線(1957年に禁止となった)通いといった変形異性体験もありえぬ、敗戦直後の青空のような、表裏のない世代でした。

 

さて、そういう私が三歳差の村上春樹体験――彼の作品の《浮遊》なストーリー展開の基調をなすのが異性関係上の奔放さとその煩悶です――を試み、そこに、ある距離感や異質感を見出しているとすれば、それこそが、「移動」によって遭遇した、私にとって検知と測定可能な領域の異世代体験であり、そういう未踏の世界との接触シーンであったということとなります。

と言うことは、こうした世代間のギャップを、私と彼との間の「此岸と彼岸を分ける」に値する、決定的要因であったと見るべきことなのでしょうか。

ここで、この設問を、上の呼称を用いて、《マイクロ・コスモス体験の差異》と呼ぶことにします。

すなわち、これまでの村上春樹の世界への「移動」によって、そういう私(や私の世代)に《マイクロ・コスモス体験の希薄》が存在したことがほぼ判明したわけですが、逆に、村上春樹にとっては、その《マイクロ・コスモス体験の濃厚》が、比較の対象であったというより、一種の社会環境のように、もはや所与の条件として受け止められていたことです。

つまり、村上春樹にとって《マイクロ・コスモス体験》とは、その有無や選択の問題ではなく、それをあたかも大気のように、自分たちの生活の前提条件としていることです。

そういう体験をその基底部に含んで、彼の表す《浮遊》と《実直》といったスキゾフレニックな不統合の世界は、あたかも大気のように、一面では、彼に「涸れ井戸の底」をおおう気圧としてのしかかり、他面では、一現代作家として、作品を通じた現社会への一種の挑発あるいは警告設定であり、かつ終局的には、そういう大気圧から自己救済する脱出口でありました。

ちなみに、《実直》側を受け持つエッセイで、『やがて哀しき外国語』に語られた実際の彼と妻との関係のエピソードは、思いのほか日本的かつ外国暮し経験からのてらいもありません。また、『国境の南、太陽の西』に描かれた男女関係は、限りなく《実直》に近い“低”《浮遊》な世界のあり様です。その意味では、それらは、私たちの世代からも、おおいに理解可能な近接性が感じられます。 

かくして、彼が描き出すスキゾフレニックな世界は、彼自身が病理的にスキゾフレニックでその内面を暴露するといった類のものではないことは確かでしょう。むしろ、彼の人となりはそれこそきわめて「実直」かつ「普通」で、そういう意味では、100㎞を完走し切るほどに、しっかりと指揮、統合されています。

つまり、現実のまさにスキゾフレニックな世界に圧巻される生身の個人は、限りなく自己の不統合性を誘発されざるをえません。そういう夢かうつつか、まぎらわしい現実感をなんとか統合せんとする三者構成の装置として、彼は、小説というフィクションの世界、エッセイという説明の世界、そして、ランニングというトレーニングの世界からなる一連の構造を編み出し、フルに活用し続けているのだと思います。

 

以上のように、私は村上春樹の世界への移動体験をしてきています。そしてそこには、固定と移動のバランスを7対3としていたものを、3対7と逆転させることで、一種の精神病理学的な手法をこころみてきました。ことに、《マイクロ・コスモス体験の差異》という最小社会関係単位における世代ギャップをその手法の柱にすえて、その移動を実行してきたわけです。

そして、こうした精神と情感上の境界を越える移動の試みが見出したものは、私と彼との間の「此岸と彼岸を分ける」ギャップが、この《マイクロ・コスモス体験の差異》に根差していたらしいという意味で、どうやらそれが、彼や私の両世代を分かつ時代的な分水嶺を形成する主要因となっていた可能性があることです。そして、そうであるからこそ、彼はその作品の中で、あえてスキゾフレニックな世界を描くことでその「浮遊」を強調しつつも、その結末は、意外な落ち着きの安堵の中へ着地してゆきます。つまり彼は、そうした創作技法を通して、むしろ彼自身をこの分水嶺を越えて、私の世代のいるこちら側へと移動しようとしているかに見受けられます。

もしそうであるなら、その分水嶺、すなわち、私と彼との間の「此岸と彼岸を分ける」ギャップとは、両世代にとって、何か外部強制的で不快な存在としてとらえた方がより正確とも言える、両者を分ける断層であるかの本性があるかのごとくです。

 

以上のように、 私と彼を分けている分水嶺としての《マイクロ・コスモス体験》を検知、測定し、さらにここでいっそう想像をたくましくすると、それが《マイクロ・コスモス》に関するものであったというだけに、そこに、時代のマイクロ化、つまり時流の世界観の個別化の潮流を嗅ぎ取らないわけにはゆきません。つまり、わずか三歳差というギャップからすら検知、測定できた、私たちをめぐる社会性の後退と、個別性の浮上ということです。

ゆえにここに、コスモス体験をめぐる《マイクロ》か《マクロ》かという設問を立てれば、この線引きが導く、時代格差であり世代ギャップを越えるその先の次元があぶり出されてくるのではないかと思われます。

次回では、こうして三回にわたって論じてきた村上春樹体験を締めくくる最終回として、この《マイクロとマクロをめぐる線引き》の意味を考えてみる予定です。

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