この「越界-両生学」という枠組みを設定して、その「第一本編」とやらを昨年の7月に書きました。それがほぼ一年余りの潜伏期をへて、いよいよ、動きを開始しそうです。そして、この新たな気配は、私の70歳の誕生日の二週間後にやってきて、どうやら、この先10年間の新たな十年紀のメインテーマの一つになりそうです。
「霊理学」という新分野
越界-両生学・第一本編(その2)
《霊性界》というリゾート
越界-両生学・第一本編(その1)
いまやここオーストラリアでは、ブーマー(団塊)世代が大挙してリタイア生活に入り、行楽地はもちろん、盛り場に行っても、くつろいだスタイルの「二周目」ライフの享受者を多々見かけます。またテレビでも、そうしたご夫妻らをターゲットにした、海外旅行の宣伝がうるさいほどです。
私は、そうした現況に同席するブーマーの同類ながら、オージー特有の開けっ広げでケンコー過ぎる物質主義に、むろんお付き合いできる蓄財もなく、自然な分岐が始っています。
ただこの分岐は、非物質的には、これまでたどってきた「両生学」街道を延長する、私なりに蓄積されたものと思っています。加えて、昨年の《ガンとの遭遇》を境に、それは地図のない未踏領域へと入ってきており、ともあれそれを「越界」と名付けています。
そこで手掛け始めているのがこの「越界-両生学」で、これまで7回にわたる「あらまし編」でその導入を述べてきました。そしてそれに続いて、今回より、その本編に入ってゆきます。
そこでその本編ですが、過去の「両生学講座」のもくじのように、そのカバー範囲は広域におよぶはずです。したがって、この「越界-両生学」も、その登山道は結局、多くを数えることになると予想されます。そういう次第で、今回より始まる本編も、番号式でやや味を欠きますが、まずは「第一本編」と名付けました。 詳細記事
「通過点としての《し》」宣言
越界-両生学・あらまし編(その7・最終回)
三ヵ月ほど、この「越界-両生学・あらまし編」をごぶさたしていました。この間、新しい訳読に関心を集中していたのですが、この「あらまし編」は、表記の「宣言」をその結語としてかかげ、今回をもって最終回にしたいと思います。そして次回より、「日々両生」でも触れましたように、次の十年紀へ向けてのマップ作りとして、この「宣言」に託されたその意味、すなわち、その《峠越え》に向けた「越界-両生学・本編」に入ってゆきたいと考えています。
さてそこで、その宣言、「通過点としての《し》」です。
まずその初めにこの「《し》」ですが、それは、「さ」でもなく、かといって「す」でもなく、その間にある「《し》」であります。ただしそれは、現社会の慣用では「死」と表現するのが一般的であり、いかにも今日の世相を象徴的にも反映するこの「ひとこと」につき、そう記号化して表現しなおしたものです。いくぶん遊戯的ではありますが、この技巧を通じてそうした世相の解毒化をはかり、またその根拠希薄なぶれについては、それを最小化してみようとのたくらみであります。 詳細記事
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トーラスは、エネルギーの全宇宙を通した流れの様相である。宇宙は、あらゆる動的システムをなすトーラスをその本質として“生息”させている。トーラスは、どのような規模にも、拡大も縮小も可能である。科学者でもあり哲学者でもあるアーサー・ヤングは、トーラスは自らの再生を可能とする唯一のエネルギー形態あるいは原動力である、と説明する。トーラスは、竜巻や、〔口で作る〕煙草の煙の輪や、水の渦巻といった、身の回りのものと同一の実体から成る。トーラスの動力源は二つのトーラス、すなわち、この世の男と女といったような、「対トーラス」体を成す。それは、片半分が北極に向って回転する時、他半分は南極に向かって回転する。これはまた、「コリオリ効果」にも通じる。その実例は、地球の気象現象であり、太陽のプラズマ流である。さらにトーラスは、地球の磁界の形状にも見られる。ともあれ、それは宇宙のいたるところに存在している。 詳細記事
「ワームホール」体験
越界-両生学・あらまし編(その6)
現在、私はどうやら、「ワームホール」に陥ってしまっているようです。しかも、最初は、架空上の体験にすぎないと高をくくっていましたが、どうもそれは、もっとリアルなもののようです。「ワームホール」とは、なんのなんの、なかなか見かけによらぬもののようです。前回のたとえ話で言えば、近道に気付いたドッグレースの一匹のドッグの心境です。そしてこれをもう少し実情に即して言えば、三次元の世界からもっと高次元の世界へと、「越界」をこころみる未体験の通路を、勇気をふりしぼって通りぬける、その不気味さと緊迫感です。 詳細記事
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総合統一場理論
Grand Unified Field Theory
〔ブラッド・オルセン著『東西融合〈涅槃〉思想の将来性』の
上記タイトルの章(原書 p.311-20)の前半部翻訳〕
前進は、疑問に答えることから生じる。
その答えに疑問を与えることから、発見が生まれる。
バーナード・ハイッシュ
〔ドイツ生まれの米国の宇宙物理学者〕
数学は神の言語だと言われてきた。しかし、今日まで、誰もその神の言語を使ってこなかったようだ。本章の前半は、2010年、ノースカロライナ州、シャロットで開催されたTED〔世界的講演会を主催している米のグループ〕で、ランディー・ポーウェルが行った「渦巻原理の数学〔Vortex Based Math〕」と呼ぶ講演に基づいている。 詳細記事
異次元への「移動」の手掛かり
越界-両生学・あらまし編(その5)
この「越界-両生学」において、私が《宗教》という言葉を用いて扱いたい事柄は、「宗教」との言葉で連想されるような抹香漂う分野というより、むしろ、「科学」という明示的な分野におけるこころみのつもりです。ただ、科学者でもない私のなす立場であり、その科学性について、心もとなさが伴うのは自認の上です。しかし、ある意味で、そうした素人性、いうなれば平板性には、それなりの意義もあるかと自負し、この独りよがりな議論を進めてゆきたいと思います。 詳細記事
〈補記〉「タナトス・セックス 」から見えるもの
越界-両生学・あらまし編(その4)
〈続〉タナトス・セックス : ポストからだ世代の「メタ・セックス」
越界-両生学・あらまし編(その3)
昨年三月、「タナトス・セックス」とのタイトルで、「老いへの一歩」と題するシリーズ記事のひとつを書きました。
本稿はその続編ですが、そこで定義したこの「タナトス・セックス」とは、俗にいう「セックス」から「エロス」を抜いたような、一見、“抜け殻”とも解されかねない、以下のようなものでした。
・・・身体的に生殖能力を終わらせたか、あるいはそれに近い男女の、それでもある性的関係を、生や誕生と結びつくものではなく、逆に、最後にはほんものの 「死」 に至る過程を準備するところのものという意味で、 《タナトス・セックス》 と呼びたいと思います。
むろん、このような定義が、果たして今日の現実の人間生活のリアリティーをどれほどに代弁したものかどうか、私はそれを実証する立場にはありません。というよりむしろ、人生の二周目に入ってはや八年、それもなんとか健康を維持でき、さほどの“老境”をさまよっているわけでもない自分として、そうした個的体験が見いだしている実感をこう呼んで、本「越界-両生学」の一角をなす、いかにもデリケートな——ある意味で未知未踏の——分野への一提起をこころみてみたいとするものです。 詳細記事
キャピタリズム・チェンジに備えて
越界-両生学・あらまし編(その2)
ここのところ私は、世界が本気で、これまでとは次元を異にする、とんでもない「何か」に変わってきているなとの感を強めています。
何やら怪物めいたもののようにも見えるその「何か」が何か、もやもやとは想念できるものの、明確にはつかみきれないでいました。
それが先日、通勤途上の電車の中で、『週刊金曜日』——日本より取り寄せて購読しています——の8月22日1004号掲載の記事、廣瀬純著「自由と想像のためのレッスン:アベノミクスと叛乱(1)」を読んで、そのもやもやの雲が一気に晴れる思いをえました。 詳細記事