〈続〉タナトス・セックス : ポストからだ世代の「メタ・セックス」

越界-両生学・あらまし編(その3)

 

昨年三月、「タナトス・セックス」とのタイトルで、「老いへの一歩」と題するシリーズ記事のひとつを書きました。

本稿はその続編ですが、そこで定義したこの「タナトス・セックス」とは、俗にいう「セックス」から「エロス」を抜いたような、一見、“抜け殻”とも解されかねない、以下のようなものでした。

・・・身体的に生殖能力を終わらせたか、あるいはそれに近い男女の、それでもある性的関係を、生や誕生と結びつくものではなく、逆に、最後にはほんものの 「死」 に至る過程を準備するところのものという意味で、 《タナトス・セックス》 と呼びたいと思います。

 むろん、このような定義が、果たして今日の現実の人間生活のリアリティーをどれほどに代弁したものかどうか、私はそれを実証する立場にはありません。というよりむしろ、人生の二周目に入ってはや八年、それもなんとか健康を維持でき、さほどの“老境”をさまよっているわけでもない自分として、そうした個的体験が見いだしている実感をこう呼んで、本「越界-両生学」の一角をなす、いかにもデリケートな——ある意味で未知未踏の——分野への一提起をこころみてみたいとするものです。

 

人生の二周目は、自分の生を、生まれてはじめて、逆算式に受け止め始める時期であり、そしていずれは、その旅立ちをしてゆく時に到達します。

ただ、還暦が「赤ちゃんちゃんこ」の頃、二周目は事実上、無きに等しく、短い余命や老いさきを、家族や周辺コミュニティーに見守られながら過ごした時代でした。

その二周目が20年、30年にもわたる時代ともなれば、それは人生のひとつのまとまった時期であり、決してけっして、“余り”の時期ではありません。それに、この時期では、家庭は、一家を成すどころか「エンプティ・ネスト(注)となり、なんとか寄り添う伴侶との二人であることがせいぜいです。それもいずれは独りとなる、あるいはすでにそうである期間であって、それがそれほどに長く続く、個人や旅立ちへと帰着してゆく時期でもあります。

 

(注) 今日の家庭に見られる、「パラサイト・シングル」と呼ばれる、親離れできず独立できない成人となった子供の問題については、別の角度から、別途、後述する予定です。

 

こうしたまとまった時期を、いわゆる「高齢化現象」のもたらす別産物としてとらえれば——国際的には、日本社会はその先頭にあって、人類が初めて経験しつつある側面を先導中——、新人生時期ないしは新世代の出現です。そうした、歴史を切り拓くような注目すべき時期を体験中の者のひとりとして、私はある予感と想定を見出しています。

ここで仮に、そのまとまった時期を25年間としましょう。

そこでですが、この25年間を全うするということは、この間に、心臓病、脳血管症、糖尿病、多種のガン、そして認知症といった致死的大病を患わずに大過なくすごし、「健康に」最期の旅立ちを迎えることだと言えます。

そうした25年間を送ることは、むろん、容易に成し遂げうることではありません。しかし、想定としては大いにありうることであり、ある意味では、それがしだいに目的化するだろうことでもあります。

だとすると、この25年間は、その軟着陸を成し遂げるという、《健康であるけど衰えゆく自分》を生きてゆくことです。そして、その軟着陸をめざすそうとう長い期間における人間関係とは、その相手はしだいに限られた人数となる時期であり、それだけにいっそう、その親密度が深まる時期と思われます。

本稿は、そうした《健康であるけど衰えゆく》時期における人間関係を、性的関係の角度から見てゆくものです。そしてこの時期にあっては、寄り添いあえる伴侶関係にあっても、また、すでに一人となった「お一人様」の交友・交際関係にあっても、かっての時期のそれとは大いに異なる、別次元の世界があるのではないかと想定されるものです。

そこで予感されることは、《健康であるけど衰えゆく自分》にとってのそうした交わりとは、タイトルの副題に掲げたように、「ポストからだ世代の『メタ・セックス』」(この「メタ」とは「後」、「超」、「越」といった意)とでも表現できるものではないかということです。いうなれば、衰える身体性を補って余りある、充分な人生経験にもとづく豊かな《精神性・スピリチュアル性》の登場です。

こうした、物によっても、ましてマネーによっても置換え不能なこの「精神性・スピリチュアル性」を、私はここで、簡明に《心的知恵》と呼んでおきます。

むろん、「それではセックスとは呼べないではないか」、あるいは、「それをセックスと呼ぶのは言葉の誤用ではないか」との忠告をいただくかもしれません。

しかし、本稿がテーマとするのは、「エロス・セックス」の時代のあとに到来する「タナトス・セックス」の時代という、時代を画するらしい発展態についてです。そうした観点では、旧来の「セックス」の概念をいったんリセットしていただく必要があります。

そういう次第で、本稿でいう「セックス」とは、ほとんど「コミュニケーション」にも近い、身体と精神の両域にまたがる、しかも次第に後者が主となってゆくであろう、いかにも人生の「出口期」を飾るにふさわしい人間行為のことであります。

 

 「もののあわれ」や「わび」とも通底

この子見出しのごときテーマにしては、以下に扱う話題は“下ねた”絡みとなります。というのは、こと「セックス」といったテーマの限りにおいては、そうしたプライベートな領域への言及ぬきには、その核心へのアプローチはままならないと考えるからです。

そこでですが、冒頭にあげた昨年三月の初稿の後、子見出しのようなテーマへの予感をさらに深めさせてくれたものは、今年になって私が体験してきた、前立腺ガンとの遭遇とそのひとまずの克服(その詳細は「私の健康エコロジー実践法 =実遭遇編= 」参照)でした。

むろん私は、その克服をその当初から、この見出しのような“風流人”趣味に立って追求したわけではありません。しかし、医師からすすめられた前立腺の全摘手術をかろうじて回避しながら、なおかつこの克服に漕ぎつけることができ、そして、そこまでして自分が守ろうとしたものに、こうした日本の伝統文化にも通底する、ある特異な感受性や精神性があったのではないかと思われるがゆえです。

というのは、その発端に、医師より全摘手術に伴うリスクとして、性器が勃起不能となる確率が50パーセントと説明された際、彼が付け加えた、「個人の生き方にもよりますが、貴方の年齢では、このリスクはさほど深刻なものではないでしょう」とのコメントがありました。そしてこれに対して、私の拭いがたい憤慨が生じたことです。

私としては、確かに、自身の性器機能が衰えつつあるとの認識はありました。しかし、それに関し、医師の暗示のように、いずれは“無用”に終わるものではあっても、その微妙で切ない移り変わりについては、切り捨ても延命もしないで、《あるがまま、まるまるに》受け入れ、共にありたいとする気持ちがありました。いうなればそのコメントは、あたかも自分自身をそうコメントされたかのような反発に点火してくれたようなものでした。でなければそもそも、人生「二周目」などといった発想などしているはずもない、というものです。

言うなれば、性器という人間関係の原点とともに目標点をも象徴するインターフェイス(媒介体)が、「エロス・セックス」時代の生殖の役割——思い起こせば、それに伴うパッションがいかにも尊大・誇張・商品主義化された灼熱がありました——を終わらせつつあるというドラマです。それも、ある時をもって即座に無に帰すわけではなく、ひとつのグラディエーションを描きつつ弱まり変化してゆくものへの限りない愛着と哀惜にひそむ、それでも何ものかが息づいている気配です。

むろんその医師のコメントは、ガンという命の問題との引き換えとなるものとして、そうした“どのみちの結末”を失う程度のリスクであり、それも半々ぐらいであるならば、妥当な選択すなわち取引きだろうとの実務的示唆ではありました。

しかし、もしこの医師の視点に従えば、その意味するところは、事態を、「命をとるのか感傷をとるのか」といった、「二者択一」問題と設定したことになります。しかし私には、上記のように強いわだかまりがあり、しかも、そうした二者を、むしろ、何かの同源なものが違った表れを持って見えている現象ではないかと直観するところがありました。

そうして、医師の助言に抗うことを通して、私は結果的に、誇らしくもなつかしくもある、「両方を選ぶ二者択一」という私流の危機突破法を踏襲して、この克服をなんとか達成することができたのでした。

この種のこだわりを、「その年齢になって未練がましく」と揶揄する風潮は、逆に言えば、そういう内心の繊細や動揺や欲求をさとられまいと装う、ことに男社会の、「雄々しさ」を共謀しあった見せ掛けに過ぎません。また、それは共謀であるがゆえに、本人たちの内心とは裏腹にそれが独り歩きしてしまう、よくある横暴かつ不毛な社会現象でもあります。そしてかくして最後には、その内的真実は無きも同然とされ、永遠に葬られてしまうのです。

また、それが重篤な病のゆえの必要な犠牲であるとするなら、この病は、果たして本当にそれほどの犠牲を求めている類の病であるのかと、その病の本性をいま一度、吟味してみる必要を生じさせます。たとえそれが、通用している現代医学の権威に沿わないものになったとしても。

こうして、その医師のすすめやこの「共謀」への不同調な思いと前立腺ガンの深刻度の探求の意向は、共鳴しあった和音をかなでるようにして、私にとって未知であったある到達点に導いてくれました。そしてその結果、「二者択一」ではなく、《両方を選ぶ二者択一》をすることができ、私はあやうく、自分の身体の一部を失うばかりか心的感度も失う、“二重損害の淵”からの脱出がしえたわけでした。

そうした到達を別の角度から見た時、「もののあわれ」や「わび」といった日本の文化的伝統が思い起こされるのであり、しかもそれを自分の体験と同列なものと感受しているわけです。

そしてそういう共通性の発見を通じて、私は、そうした感受性を感受する姿勢がもたらす、この世界の奥義を見抜く、ある視力を持ちえたかの思いをもっています。それはまさに、私の部分を切り取らずに守り切って本当によかったと、あたかも敵が味方に転じたかのような前立腺ガンに感謝する気持ちさえもたらす、自分に所与のものへの開眼です。

かくして、衰えゆくものとは、その見かけ上の意味や姿とは裏腹に、そこに託された、時代の表層からは見通せない何かを示唆さえしています。しかも、以下に述べるように、そうした認識は、やがて経験するであろう越界への旅立ちを穏やかに準備する、滑らかで連続したアプローチをなすものでもあります。その時は何も、その見かけや通念のように、不幸にも突然にもやってくるものではありません。

あるいは、こうした衰えゆくものとは、今日の私の知る限りの常識において、一種の「感傷」や「趣味」とされることはあっても、そこに積極的、あるいは、創造的役割があるものとは、なかなか受け止められないものでもあります。

以上のような諸点から、この「ポストからだ世代の『メタ・セックス』」とは、「スローセックス」でも「アンチエイジング」でもない——むろん、そういう未練もいとおしいですが——、《「もののあわれ」や「わび」セックス》と、ぎこちなくにもなぞらえられる、柔和で、さとく、解き放たれた感性による交わりと言うことができましょう。ことにそれは、今日の物質至上的な通念が対象外としてきた、精神性やスピリチュアリティーに富む、上に指摘した《心的知恵》を託し込んだ行為でありましょう。

だからこそそれは、エロス・セックスでは味わえなかった、それとは異次元の「セックス」≒「コミュニケーション」である、《タナトス・セックス》の醍醐味ではないかと考えるのです。

 

 「国破れて山河あり」な到達点

今年9月、日本へ一時帰国した際、妹夫婦宅に一夜寄寓した時のことでした。

話題がはずんで、私のガン克服談になり、私が「前立腺ガンを全摘しないで本当によかった」と話した時でした。

話を聞き終わった妹が、ふともらした言葉がありました。

「私、もう、子宮切っちゃった。」

それを聞いた一瞬、私の思考が凍りました。

果たして、妹は現代医学の気の毒な犠牲者であるのか、それとも、私が邪説を説いて彼女の平安を乱すトリックスターなのか。

その時、私はそれがいずれであるのか、評定ができませんでした。ましてや、自分の子宮を切ってしまった後の体調や心境について、私は妹に、さらなる探索を行う意志はありませんでした。

またこの寄寓の際、もうかなり認知症のすすんだ妹の義母が私に、少しもそんな症状は感じられない、いかにも温和で親しげな様子で、こんなことを告げてくれました。

「おもいやりが深いとってもいい嫁で、私は幸せですよ。」

そうした他者には詮索もきかない妹夫婦のデリケートな世界は、彼女、彼らなりの思いやり合う優しさで共につくり上げられてきているものでしょう。まして、そうした克服談が、たとえ女性特有の臓器について、男の私の無知によっていたしても、それは一種の差し出がましさに等しいものであったでしょう。

私は今回のガンの体験中、女性たちが、必ずしも私の医師の示した助言に同調するという風ではないのですが、問題の解決を主眼とした現実的選択に徹する態度に幾度となく接してきました。いうなれば、私のような理屈っぽいこだわりに対し、ある種あっけらかんとした、沽券なこだわりもない、実際主義な姿勢です。たとえば、「切ってだめになっても大丈夫よ」と、何ともけろりと言ってのけてくれうる、そうした態度やその決断です。

こうした対比や接点を、「エロス・セックス」の時には難しかった、「タナトス・セックス」ならではの利点と言ってしまうのは、少々うがち過ぎな話の持って行き方でしょう。

しかし、若い頃以来の、依怙地な我の張りようが、回避可能であったかも知れない課題をわざわざ深刻な対立へとせき立ててきたのも確かです。また、刻々と失われつつあるものへの、それを認めぬ粋がりでもそれをはなから捨て去る諦念でもない、「あるがまま、まるまるに」受止めうる姿勢は、どうも男には、ことにそうした衰えを知らぬ若い時期には、困難なわざであったかのようにも思えます。

確かに、「ポストからだ世代の『メタ・セックス』」には、どこか中性的なひびきがあります。いわば、男と女が、長年の雄雌対極的な相互関心を知り抜いて、ようやくにして歩み寄ってこれたような、「国破れて山河あり」な感慨があります。

そしてさらにうがった話を持ち出せば、ジェンダーの対等とか性差別なき社会といった視野においても、こうした進展のなす意外に身近な手掛かりは、その《心的知恵》の成せるがゆえにの事柄なのかもしれません。

 

物質世界の彼方に

このようにして、「ポストからだ世代の『メタ・セックス』」に《心的知恵》をもって臨んでゆくことは、男女のつながりに新たなホライズンをもたらすばかりでなく、他方、間違いなくやってくるその旅立ちが自分の物的身体としての終わりの時である事とあいまって、そこには、それまでに長々と親しみかつそれに捕えられてきた物質の世界に一線を引く契機があり、それとは異次元の世界へ、ようやくにして、扉を開けてゆく時に至っているとの気配があります。

身体感覚にまるごと魅された「エロス・セックス」が暑い夏が過ぎ去るようにたそがれゆき、人生のステージが、主人公も舞台装置も異にする「タナトス・セックス」に変転する時、しかもその上演期間が20年以上の「ひとまとまり」におよぼうとする時、むろんそこに喪失感を伴うことは否定できないものの、それに代わって充実しつつある、新たな次元の行為やその体験へと期待がよせられる気配があるのです。ということは、そのとかく暗いイメージに捕らわれやすい人生時期における、何という救いであることでしょう。そしてそればかりか、それはどうやら、新たな創造への船出でもあるようなのです。

先にネット出版した『新学問のすすめ』にも触れましたが、最先端の宇宙科学によれば、我々人類が知る物質とは、宇宙総体をなす構成物のうちのわずか4パーセントを占めるにすぎず、残りの96パーセントは、私たちには見当もつかぬ、まったく未知のものであるといいます。つまりは、私たちが既知なことはおろか、想像できることすら、全宇宙にしてみればほんのちっぽけな部分でしかなく、いわば想像を絶するもののほうが主流であるとでも言える世界です。

その最終章に私は、そうした気配を以下のように展望してみました。 

誰しも、自分の死をもって、その身体は土に帰ると認識しても、その精神はどうなるのかとの疑問はあるはずです。そうした疑問に際して、そのように旅立つ自分を、「未知多次元空間」への「移動生命体」と見たて、そこで、私たちの精神はおそらく、今日の人類の言語では捉えきれない、ハイゼンベルグの言う「理念(イデー)」と化した《メタ人間化》を経て、一種の宇宙の“エネルギー態”に帰一してゆくのではないかと「理念(イデー)」しています。

そしてさらに想像をたくましくすると、この「エネルギー態」とは、本「新学問」の第1章の冒頭で触れた、宇宙の96パーセントを占めるという、人類が知り得ていない未知の構成体のひとつ、「暗黒エネルギー」と呼ばれるものの部分となってゆくのではないかとも考えられます。

 「死後の世界」なぞとほのめかせば、それはカルトの世界かと敬遠されがちです。しかし、私がこうして実感する世界とは、カルトとは真反対の科学上の世界です。ただそれが、今日の先端科学でさえ説明できない、次元をまったく異にする世界を取り扱う世界であることです。

私は、最近、ことにガンの克服体験を経て、「宗教」というものを、それまでとは全く違った感覚で見始めている自分を感じています。

私にとって、それまでの宗教とは、盲信とか迷信とかが同義語である、外部から枠はめを押し付けられる窮屈で暗い世界でありました。

しかし、上に述べてきたように、物質としての身体の終わる時を現実として意識するようになると、それ以後の自分の存在について、それを考えるなとすること自体が無理無体な時期へと入ってきています。そしてそうした意識は、ことさらな説教や教義より得たものでは決してない、誰しもに当たり前な、人生上の日々の体験によるものなのです。

つまり、現社会に実存する「宗教」と呼ばれるこもごもはともかくとして、こうした体験が描き出す世界について、それを何と呼ぶかと問えば、それも“宗教”と呼ぶしかない世界です。ただ、同じく「宗教」と称されるこうした二者を混同はできず、先に規定したように、後者については、《》を付して区別して、私のいう意味での宗教を《宗教》と明示したいと思います。

すなわち、《宗教》とか《宗教心》とかというものは、自分の人生の実体験——《心的知恵》やそれの生む「タナトス・セックス」な人間関係——がなす産物であって、そうした体験を経ない、他者の信義への“信仰=乗り移り”の産物ではありません。つまりは、そういう何ものかが自身の内部に存在していることの実感であり、自分の人生体験にそれを見出し、次第しだいにその存在とともに在り始めてきているものです。

さらに言えば、そういう存在が自分の全体となった、あるいは、ならされる時が、旅立ちの時なのではないでしょうか。

そのような意味において、私は、「タナトス・セックス」とは、エロス的な生殖という身体的生殖とは次元を異にする、超身体的な生殖を生む《メタ・セックス》行為ではないかと考えます。

そして、そうして誕生する異次元な《身体を持たぬ新生命》を、自分の旅立ち後の生命体ととらえれば、やがて迎えるその時とは、何と躍動的で未来的で、かつ、喜ばしげな時なのではないでしょうか。

 

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