「越界-両生学」へ

越界-両生学・あらまし編(その1)

前号で、「新たな10年紀」が始まる予感がする、と述べました。   

そうした予感の導きにしたがって、ここに、新たな10年紀の扉を開けてみたいと考えています。

そしてその第一歩として、これまでに段階を重ねてきた「両生学」をさらに生まれ変わらせ、新たな次元に船出させてゆこうと構想しています。

題して「越界-両生学」。

そして、この「越界」とは、いよいよ私も、現世からの旅立ちを逆算的に意識せざるをえない年齢に入ってきており、そういう私の想像の照らし出す視界内にその境界が垣間見し始めているからです。

そこで今回を第一回として、そうしたシリーズのあらまし図を広げてゆきたいと思います。

いうなれば、黄泉へと広がる海域へ“越界”する航海ビジョンです。

 

当初、私がそう呼ぶ「両生学」は、日本とオーストラリアという地理的な二つの世界を生きる、そういう「両生」を始点とするものでした。そうした「二足わらじ」な世界が、やがて「東洋と西洋」といった広がりにおよんだり、あるいは、「動と不動」ないしは「動と静」といった視野、さらには、具象性と形而上性との哲学的見地というようにと、一連の流れをなす発展をしてきました。

そうした経緯の結果に、先のガンとの遭遇とそのひとまずの克服といった経験を得、それを契機に、いよいよ、自分の生命を有期なものとして現実に意識する時期を迎えることとなりました。つまり、私がある半径をもつ想像力圏というものを維持しているとすると、その想像力のレーダー・スクリーンに、命の終了というある境界ラインが探知されるようになってきたわけです。

これはこれで、自然なことでありましょう。

そこでなのですが、世間通常ではそう考えられているのだと思うのですが、自分の人生航路が、その境界線をもって終結し、その先はもう無意味で存在不要とするのは、これまでの私の思考の習慣からしても、どうにもしっくりこなく、また、余りに唐突な発想であるように思われるのです。また、これまでの連続的な流れから言っても、その先がいきなり白紙同様に化してしまうというのも、なんとも不自然と感じられるのです。

そういう次第で、この境界線のその向こうも射程に入れて考えるのは、私にとってはいかにも自然で身近なことであるのです。

ただ、今日の社会常識にてらしてみますと、この境界はいかにも厳格に当り前で、その先を考えることは、少なくとも、発想の立つ瀬を改め、“頭を丸めて”のぞむべきことでもあるようです。

そうです、文字通り「この世とあの世」の境目であるわけです。

そうだとすると、そのすべき「発想の改め」とはいかなるものなのか。そのあたりを含めて、どうやら、これまでの「両生学」の発展に加える、新たな次元を用意しなければならない時期に差し掛かっているようです。それがいかなるものかは、これまた「初体験」の事柄であり、これから取り組んでみなければ、何とも言えない事象でもあります。

ともあれ、こうして今回から始まる新シリーズは、そういう領域への私なりのこころみであります。

 

 ところで、先の9月7日号の『両生空間』で、「新学問のすすめ」の案内として、両生学を「人生学」として位置付ける考えを述べました。つまり、人生航路の航海指南書としての「両生学」という位置付けです。

そういう「人生航路」が、その先に、上記のような越界に達しようとする状況となってきています。つまり、これまでの次元の航海指南書は、どうやら役に立ちそうもありません。

また、先に私は、「タナトス・セックス」と題して、人生二周目に入った世代にとっては、次世代の生産に結びつく「エロス・セックス」とは根本的に異なるセックスがありうるのではないか、ということを書きました。

そういう「タナトス」という用語を再び使えば、上記のような、来るべき境界から逆算するような視点こそ、「タナトス発想」であり、そういう世界を、現世と来世の両方を股にかけた「タナトス界」と呼ぶにふさわしいものではないかとも思うのです。

また先の記述を繰り返せば、「人生の入口期」やその壮年期に必要であったセックスが「エロス・セックス」であるとすれば、「人生の出口期」に必要であるのが「タナトス・セックス」であって、さらには、「タナトス・セックス」とは、生物学的な死につらなってゆくものでありながら、精神的ないしはスピリチュアル(霊性的)には、次元を異にした誕生をも意味するものではないかとするものです。

いうなれば、「越界」とは、さほどに“セクシー”なことであり、また、「セックス」という人間性のひとつの中核をなす概念や行為自体をも、そのようにもふくらませて再吟味してみることも、興味をそそられるところなのです。決して決して、抹香くさい埋葬のイメージなどには代表されない、極めて明るい世界であるようなのです。

ここで私は、この「精神的ないしはスピリチュアル(霊性的)」な分野を私のイメージする《宗教》と定義し、《》付きで書き表します。そして、一般に言われる宗教とは区別し、後者がとかく盲目的信念とか迷信を含む“暗黒”な精神活動と解されることについては、それを明確に排除して考えたいと思います。なお、こうした《宗教》については、回を改めて後述いたします。

 

私は、かくして迎えようとしている新「10年紀」においては、この「タナトス界」を、それをなす重要な構成要素のひとつであると考えています。

それはまず、こと現代においての「現役」の責務を果たすことに伴う、物質的成果中心的傾向が排除し、その圏外に残されてきた分野に深くかかわります。いわば、前者のなすポジ画の反対世界であるネガ画とも呼べる世界です。また、お金に置換え可能な商品世界が扱ってこなかった「非マネー」的な世界でもあります。

さらには、人生二周目期をリタイアメント期と言い換え可能とすると、リタイアメント期とは、年金などによる社会保障によって、労働から解放された生活を享受できる時期であり、そうした人々の成す生き方の共同体ということです。労働とは、現世界では、自分を収入のために商品と化すことに外なりませんが、そういう労働から解放されるということは、この資本主義支配の高度化した世界の中にあって、ようやくにして達した、その自己の商品化のしがらみから脱出できる可能性を意味しているということです。逆に言えば、むろんその毎日は、年金という金銭支給によって支えられているわけですが、だからと言ってその過ごし方が、お金で買えるものばかりに制限されるべきだというわけでは決してありません。お金で入手可能な物的条件を満たした上で、晴れて自由に、しがらみのない世界を、存分に追及できるはずのものです。

つまり、「タナトス界」とは、それが今日の現役時代が取り上げきれなかった、あるいは、商品界が対象にしえなかった世界を、その「ネガ画像」がゆえに、より含みうる世界であるのです。

 

「タナトス界」を「老後」にからめて想定するのは、もはやひと昔もふた昔も前の話です。今日ではむしろ、「タナトス界」の担い手は、大集団をなすいわゆる団塊世代であり、その存在によって、量的にも質的にも、画期をなす一大勢力となるはずの世界です。つまり、片や不十分な年金の補てんや健康維持の観点から、他方は人手不足の補充や年金予算拡大の抑制のねらいから等々と、個人や社会それぞれの理由は伴いながらも、リタイア期に入っても働き続ける選択が広く定着してきています。それは、必ずしも、現役を終えた「非戦力」の代名詞ではありません。

つまり、「タナトス界」とは、いまや新たな「現役」との面すらを持ち始めた世代の、その別面であるわけです。そして、労働の新たな可能性の実行にもいろどられた、新次元の生きようによってさえ飾られているのです。

それをまして、消費傾向のもっとも高い一大集団ともてはやすのは、まさに商品経済の目で計った儲け本位の尺度による持ち上げであり、ようやくにして得ようとしている自由の最終搾取の思惑に外なりません。

そうした即物的騒擾はさておき、その彼方から確実に接近しつつあるその境界の存在は、人生二周目を体験している私たちをして、いやがおうにも、この「越界」の視野と、その「越界-両生学」の必要へといざなっているかに映ります。

 

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