「人生学」が必要という考え方

『新学問のすすめ』のご案内

医学に臨床という分野があります。それは、医学という応用生物学の体系を、実際の病気や傷を負った患者に適用する実用分野のことです。言ってみれば病院《現場》での実務の分野です。

同様な臨床分野を科学全般について見るならば、それは「臨床」とは呼ばれず、「技術」と呼ばれます。医学の裏付けのない臨床がないように、科学の裏付けのない技術はありません。そして、そうした一体となった関係をもって、科学技術などとひとくくりに称されたりもします。そういう技術が私たちの生活《現場》向けに実用化されたものが、今日の市場をにぎわす様々な商品群です。

芸術についても、上の二領域ほど明瞭に区別されるものではないにせよ、音楽、美学、文学と呼ばれるものが教育カリキュラムに採用されているように、その学問的・理論的分野は存在し、その「臨床」分野といえば、コンサートとか美術館とか書店とかがあります。そして、印刷とかオーディオ技術を駆使してさまざまな商品に生まれ変わって、私たちの毎日の生活《現場》を彩ってくれています。

それぞれ以上のように見なせるのであるならば、私たちの人生というそれらすべてを含んだ《現場》にも、それを「臨床」と見る視点はありえるはずであり、さらに、それが「臨床」と見なせるのなら、そういう実用をもたらす元となる、たとえば《人生学》と呼んでもよいような学問体系があってもしかりなはずです。

しかし、この《人生学》という名称がいかにも耳馴れず、どこか垢抜けしない響きが伴うように、いまのところ、そういう学問体系は広く認められるものとはなっていません。

それにそもそも、この世には、「人生いろいろ、人こもごも」といった、広く馴染みやすい常識的な考え方があって、人の生き方を「科学」したり、それ自体を学問体系に仕立てようとする立場は定着してきませんでした。

そうでありながら、確かに「人生いろいろ」ではあるのですが、それなら、人生にのぞむにあたって、私たちはただ行き当たりばったりで、成り行き任せの累積でよいのかと言えば、やはりNOであり、自分の生き方を考える物の見方の体系を、そのどこかで期待し、それを探ってきたりもしています。

毎日の生活の一刻々々において、確かに、進む方向は360度のどの方向も可能です。しかし、現実に進める方向はそのうちの一方向のみです。

 

そこで、こうした《人生学》の提案への反論として、それなら、そういう「学」があるとしても、それは、私たちが自在に選べる生き方に、こうであるべきだという枠をはめるものなのか、という問いかけがありそうです。さらに極端には、そういう「全体主義的」な考え方は時代錯誤した過去のものであるとの声も聞こえてきそうです。

もちろん、私たちはそれこそ「さまざま」であり、個性があり、その個々異なったものは、それぞれに追求される自由として保障されるべきです。

ただ、そうした個的自由を保障した上でも、やはり、上記のような人生をめぐる、ただ成り行き任せ済ませられない、古今の歴史や東西の世界の諸体験の蓄積からあぶり出されてきた深淵な思考の体系は存在しているはずです。

そこで、そういう「体系」をひと目にしようと欲するならば、それはたとえば、図書館を訪れてみて、その全容を一望すれば、それこそが人類が積み重ねてきた知識の体系の有りようです。

もちろん、図書館を一望するといっても、小規模なそれならともかく、大規模なものとなれば、その一望自体が物理的に困難です。そこでそれを技巧的に確認しようとすれば、図書館学ともいうべき、世界のあらゆる書物を整理するために開発された書籍整理のための体系があり、その代表が「デシマル・コード」と呼ばれる分類法で、これは、この世に存在するあらゆる書籍を対象にした、十進法を階層的に重ねた分類体系です。図書館の各本の背につけられたラベルの番号がそれです。ちなみに、グーグルはそうした図書館を丸々、デジタル化しようとしています。

しかし、そういう体系が、確かに図書館上で存在してはいるのですが、だからと言って、毎日の私たちの生活の現場にあって、そうした膨大な蓄積の蔵書を網羅するのはもちろん、偏りなく「拾い読み」するだけでも、気の遠くなる作業です。

 

そういう膨大な知識の世界を、図書館式にではなく、それを私たちにとっての《意味》の関連のネットワークとして実用的に体系付けた、ユニークで有用な体系がこの日本に存在しています。

私はそれを、自分の人生を考える、つまりその《意味》の途方もなく広大なジャングルを行く際の、情報上の《地図》として度々活用しています。

それは、松岡正剛がネット上でフリーで公開している『千夜千冊』です。それがどんな図書館であれ、一個人がその全蔵書を網羅して読み切るのはまず不可能な仕事ですが、この体系は、そうした無数の知識を、《意味》のつながりの関連として再構成――彼はそれを「編集」と呼んでいる――しているものです。もちろん、この体系は、彼個人がその生涯で出会った書物の著わす《意味》を咀嚼し、自分流に「編集」し直したものです。そういう意味では、選択された書物――今のところ1500冊程度――を対象とし、彼という視点にもとずくものです。

それを、わずか1500冊というなかれ。それは、単なる“書評”を越えた、人類の知的進化の紐解きです。そして各書の著わす《意味》とは、各分野あるいは各時代において孤立して存在しているものではなく、相互影響し合っており、その相互のネットワークを探れば、それこそ、図書館の全蔵書を対象にしたにも等しい体系――少なくともその相似図――になっているものです。

それに、私たちが自分の人生の舵取りに必要とするのは、その「臨床上」の実用性です。厳格で精密な図書館的網羅性ではありません。そういう臨床性・実用性という面で、私は、松岡正剛の『千夜千冊』は、その必要を満たすに足るものと考えています(私の知る限り、世界でこの種の仕事をなしている例は他に見当たりません)。

 

さてそこで、そうした実用知識の《地図》を駆使して、意味ある《意味》のネットワークが告げる今日的――人類進化上の曲がり角という意味での――焦点は、その呼称はどうであれ、「人生学」とも呼んでもよい「学」に相当する“道具立て”が、個人の自由を保障しつつ、そしてそうであるからこそ、必要とされていることです。

そうした必要とは、物質の元が粒子でもありかつ波動でもあるという、あい矛盾する両性格を内包しつつも現に存在しえている、そういう過去の常識では考えられなかった、現代の物理学上の最先端の発見――量子力学という革命的進歩――と、互いに呼応し合うように提示されてきているものです。

これも、それを単に物理学上の次元と言うなかれ。私たち自身のいずれも、そういう物質の基盤の上に花咲く存在であるのです。

この呼応しあう発見という方式を、私たちの人生の「臨床」現場に当てはめて言えば、ミクロな個人とそして素粒子の在り方の様子と、マクロな社会とそして諸物質の在り方の様子は、もはや決定論的――君はAだから、Bにはなりえないと決定する見方――に表示しえるものではなく、個と全体とが互いに浸透し合い、相互補完し合う、《主客同体》の存在として認識されるものであることです。

そういう「人生学」の一試みとして構想されたものが、別記の『新学問のすすめ』に言う「新学問」です。

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