ガンからの「回復」に思うこと

「ガンは自分で治せる」、これがいま、私の抱いている実感です。

今年3月18日、生検の結果から前立腺ガンを告知された時、いよいよ来る時がきたかと、その遭遇に重い覚悟を突き付けられていました。

それを思い出すと、私は今、実に爽快で幸福な気持ちです。そして、このあたかも不可能を可能にしたとも言えるようなことが、決して奇跡でも偶然でもなく、ただ、誰にでもなしえる平凡な真実であると、心底より実感しています。

むろん、その「完治」が診断されたわけではなく、それよりも、ガンとはそもそも、完治という完璧な落着のあり得ない類の病気でもあることです。その意味では、ガンの部位を切り取って完治とするのは幻です。

ともあれ、こうした回復の達成がどのような紆余曲折をへて実現できたのか、その足取りについては、別掲の「 」で述べてきました。そこでこの稿では、そうした体験から得たもう少し踏み込んだ見地を、その感慨もふくめて、述べてみたいと思います。

 

まず初めに、医療界でもそう見られ始めているようですが、ガンも《生活習慣病》だと思います。

この《生活習慣病》という捉え方は一般に、高血圧症とか心臓病とかという、ひところまで「成人病」と称された一連の病気の分野ではすでに定着している見方です。しかし、ガンについてもそう呼ぶことは、ガン自体の種類も多く複雑で一概にとらえにくい面もあって、それを《生活習慣病》と総称することには異論がありそうです。

しかし、私がこの稿で、ガンをあえて《生活習慣病》と呼ぼうとするのは、自分の前立腺ガン回復の体験から、少なくともこのガンの発生原因に関して、常識的な見方を大きく転換することが極めて重要な一歩だったからです。

それをひとことで言えば、ガンとは、切り取ったり殺したりすべき、そういう悪性病原体が存在している――この見方を先に医学的な「一元論」と呼びました――からではなく、永年の自分の生活習慣によって作られてきた自分の体内環境が、本来なら正常であった細胞を異常な増殖をするように仕向けてしまった結果の病変、と考えられるからです。

比喩的に言えば、それは、自分の家族の内に、手を焼かされる異常な息子がいたからではなく、かって健やかだった息子にそういう異常性を芽生えさせてきた、家庭内外の環境があったからです。

こういう比喩に立って言えば、私はいま、そういう息子と信頼関係を回復して平和な家庭環境を取り戻し、家族をむしばむ危険因子に協力して対処することができるようになった、そんな感慨でいます。専門医の当初のすすめに従って「全摘」し、息子を“切り捨て”にしなくて、本当によかったと胸をなでおろしています。

 

そこでですが、ガンが《生活習慣病》であるということは、三つの切り口においてそうだと考えます。

その第一は、食習慣という切り口です。

私の前立腺ガン回復への治療法としての主役は、食生活の変革でした。そして私が、医師のすすめに従わず、独自にこの方法をとり上げたのは、「健康エコロジー実践法=実遭遇編=」にも書いたように、最初、このガンを知らされたとき、私は大いに、「どうして?」という不可解さに包まれたからでした。それは、自分のそれまでの生活を振り返ってみて、ガンになっても不思議ではないと思い当たる節が、どう考えても思いつかないからでした。そして調べてみると、この前立腺ガンとは、西洋人に多く日本人には少なかったガンだったのですが、近年急速に増加中であると知って、もし原因に見当をつけるとするなら、私がオーストラリアに長年にわたり住み着き、当然の結果として、自分の食生活の西洋化が進んでいいたからと見るなら、自分でも大いに納得できることでした。つまり、肉と乳製品の摂り過ぎという“自業自得”です。

そう気が付いて、そこで取組み始めたのが毎日の食事の菜食化です。これには、私の身近でこれまでに、玄米菜食法でガンを克服した人を二人知っていましたので、その体験を信じ、ならってみることにしました。それに、日本には精進料理という数世紀の歴史をもつ菜食主義の伝統もあり、それに関連した本を取寄せ、その勉強に取り掛かりました。この新たなこころみはまた、私が六十の手習いとして始めた寿司シェフ修行に続く新たなチャレンジとして、私にとっては、料理の探求と楽しみをさらに拡大させてくれる、まさに、興味と実益=治療を両立させうる新分野でもありました。

次に、第二の切り口とは、《運動習慣》です。

これには、二つの側面があります。そのひとつは、毎日摂取するカロリーのバランスという面で、現代人では、とかく摂り過ぎとなりがちなカロリーを、体内に蓄積させないように消費し切る、毎日の運動の必要です。

加えて、運動にはもうひとつの面があります。それは、運動による精神上の効果です。ここでは詳しくは触れませんが(「うつ病“仮説”」「自転車通い」等参照)、運動によって脳内に生じる微量物質が、私たちの精神の活性化をもたらすことは、もはや各方面で立証されています。そういう運動習慣のもつ向精神効果です。

したがって、毎日の生活に運動習慣を取り入れることは、カロリー・バランスつまり肥満防止に効果的であるばかりでなく、毎日の生活を意欲的にするという面でも大いに有用であることです。つまり、そういうダブル効果として、運動習慣を積極的に取り入れるべきだと言うことです。

そして、この運動習慣と適正な食習慣とがあいまって、私たちの身体の物質的環境を健全にさせることができるわけです。

そして、第三の生活習慣とは、これは余りなじみのある言い方ではないのですが、日々の《精神習慣》です。私は特にこれが、上記のガンの捉え方の違いをもたらし、そして今回の回復に導いた最も決定的な牽引力だったと考えています。つまりそれをひとことで言うと、「自分の問題を他人任せにする」習慣を改めることです。

この「他人任せ」という傾向は、今日の高度かつ緻密に分業化が進んだ文明にあって、人々はそれぞれの専門をこなし、そうした多くの専門が巧みに組合わされ呼応しあって今日の社会が組み上がっている、そうした現代の高度分業社会の持つ、不可避で皮肉な副産物と見なせます。つまり、そうした専門家任せの習慣が、本来なら自分自身の問題であるはずのものを、あたかも他人が考え解決してくれるのは当然との前提に立たせてしまうことです。そして、それが自己解決ができるかも知れない事とははなから思いもよらず、わざわざ遠大な回り道を歩んで、問題を解決するどころか拡大しこじれさせさえしているという、時代の盲点ともいうべき逆説をもたらしていることです。

たしかに、ガンに関しては、それは致死的な病気であり、素人判断では危険な誤りを犯しかねない類の問題です。そして今日、その発生率はもはや他のいかなる致死的病気をも上回り、現代社会の医療上の最大の重荷となっています。そうであるだけに、医師の側もその責任を大いに受止め、だからゆえに、そうした依存関係のトラップにますますとはまり込んでいる状態かと推察されます。

そこでなのですが、こうした相互の他人任せの関係は、致死的という質の面でも、そしてそれが数としても大きな割合を占めるという量の面でも、両面にわたって肥大化した結果として、今日では、ガン医療という巨大“産業”が生み出されてきています。つまり、その繁栄自体は歓迎されることではないにせよ、無くてはならない――あるいは商売の種として――社会の基幹セクターと化しています。さらに、その巨大なシステムとその権威は、不幸な病魔に取りつかれた一患者にとって、とてもではないが、私的な異論を差しはさませうる対象ではなくなっています。

それに、いったんガンを告知されれば、当の本人にしてみれば、何はともあれ、それは死という不気味な恐怖との遭遇体験の始まりです。そこで、こうした医師と患者の関係に意地の悪い見方をはさめば、医師は、「私の言う事を聞かなければ死に至りますよ」と示唆せんばかりに、患者の恐怖心を人質にとったかのような、患者に対する権威の君臨が事実上の現実となって往行しているも同然な状態に至っているわけです。

私は自分の身近で、少なくとも二人の良き知人を、そうした権威のもとで、死なないでも済んだかもしれない、あるいは、もう少しは長く伸ばせたかもしれないその命を、むざむざと死に至らされた事例を目撃してきました。むろん、こうして死んだ二人の知人は、それが「自分の問題」であると認識し切れていなかった分、医師の助言に従順で、そういう意味では、それが個人として越えられない一線でもありました。

だが今回は、私自身へのガン告知です。私は、こうした二人の知人には、それが命にかかわる問題であり、ことに私には未体験の問題であるだけに、自分の見解に固執し、それを無思慮に押し付けるようなことはできませんでした。しかし今度は、それがいよいよ私自身の問題として生じてきたのです。そして、自らのガンの原因をよくよく考えてみれば、それは諸々の生活習慣からやってきている可能性が大いに高いわけです。そういう、いわば自分の身から出た錆を他人任せにすることで、果たして本当の解決が得られるものなのか、との疑問にさらされたわけでした。そしてむしろ逆に、他人任せにせず、自分で解決することを優先することこそが本来の道ではないかと考え始めたわけでした。

私はかくして、ガンという自分の生活習慣を原因とする病気が他人任せにされている限り、その対処は、ひたすらまぼろしの「一元論」を追求するのみの、ねらいの外れた盲目打ちではないかと考えるように至りました。それはあたかも、一匹の虫を殺すのに大砲を用いるかのごときの過大療法とはなりえても、核心をついたピンポイントな療法にはなりえず、その結果、「転移」と呼ばれる堂々巡りを繰返しているのではないかといぶかされる次第です。

むろん、それでも、ガンに関連する産業の繁栄を生み出している経済的効用はあります。しかし、ガンがもし「自分で治せる」もの――少なくともそういう事例が少なくなく存在する――とするなら、こうした肥大化した権威に立つ産業は、無用の長物ではないにせよ、ねらいと効果を異にした、本来の医療とは別物となっている可能性が大いに考えられうるわけです。

 

ところで、これはガン治療という面ではやや番外な議論なのですが、私は今回、自分自身の方法として、菜食方式を実行してきていますが、それ以前の自分の体調と比較して、自分の頭の“老化”具合が、若返りとまでは言えずとも、いくらかのスローダウンが見られているとの、予想外の副産物を得ている実感をもっています。それには、菜食への取組みと合わせ、大いにたしなんできたコーヒーや飲酒をやめている効果もあるかとも思います。つまり、それらを含めて、そうした一連の「生活習慣」を改めることが、ガンのみならず、《認知症の予防》にも有効なのではないかと考え始めています。というのは、そうした実行が結局、血液の多脂化を除去し、循環器官や脳の血管を若返らせ、酸素と栄養分に富んだ血流を身体のどの部位にも不足なく供給するという、いわば体内環境の“山紫水明化”を実現させているからです。

加えて、私が今回、菜食方式を実行する際に、できうる限り無農薬有機栽培野菜や豆・穀物を使ったように、体内の「山紫水明化」は、体外の自然環境の「山紫水明化」をも伴わなければ、事実上、実現不可能です。というのも、もはやこの地球は、たとえ極地や深海に至ろうとも、化学物質の汚染から無縁な所はありません。従って、菜食をするに際しても、そうした汚染を避ける細心の用心は必須です。ましてや肉食をするとは、汚染された草を食べた動物を食するという、二重に濃縮された汚染物質、さらには人工飼料や投与されたホルモンや薬剤なども合わせて、体内に取り込む危険を意味します。まさに、内外両環境の「山紫水明化」ぬきに、ガンや認知症の根本からの予防はできないことを物語っています。これを逆に言えば、今日の地球がそうした「山紫水明」を失い始めているがゆえに、汚染した環境により長くさらされた高齢者から、ガンや認知症が多発しているのが現状であると考えられます。

そしてもしそれが真実であるなら、年間40兆円にも達するという日本の医療費、ことにその半分が65歳以上の高齢者のそれであるという実情を考えれば、こうした《生活習慣病》の予防が、医療界の巨大な楼閣に頼り切るのではなく、各自の自覚という極めて簡素ながら有効な方法で前進できるということは、社会への重い負担を軽減する切り札となるばかりではなく、社会にはびこる旧弊な慣行をなくしてゆく効果もあるものと思われます。

かくして、それぞれの家族内の高齢者が、要介護者から自立者へと変わりうるとなれば、それは他の家族メンバーにとって、経済面ばかりか心身共に過酷な重荷から解放されるという、計り知れない恩恵をもたらします。さらには、そうして自立した高齢者が社会に出てそれなりの役割を果たしてゆけば、もはや社会の“お荷物”どころか、“生産”要素にさえ転じうる効果を生むわけです。まさに、「災い転じて福となす」効用です。

 

最後に、これは今回、私が自分のガンを克服する途上で得たものとして、むろんそれは思わぬ派生物ではあったのですが、ガンの回復自体に勝るとも劣らない、実に微妙で意味深長な獲得があります。

すなわち、この奇跡と見まがいそうな回復とは、身体という自分の分身にひそむ潜在力を信じた結果、その分身が私に提供してくれたギフトであり、それを贈られた私は、自分の身体への限りなきいとおしさと、深い感謝の念を生んでいることです。それはあたかも、ひとたび険悪となった家族関係が、目からうろこが取れて和解し、ふたたびむつまじく幸せな家族関係を復活させえたような、そうした大きな安らぎと深い感慨を伴う体験です。

英語に「weller than well」という表現がありますが、これは、「健康よりもっと健康」という意味です。私の場合、ガンのお陰で、まさに「以前の健康以上のさらに深い健康を獲得した」という感慨があります。

ガンは決して、切除したり殺したりすべき《敵》ではないと思います。それは自分の化身であり身内です。そういう意味では《味方》になりえるはずの存在です。

ただし、ガンは生活習慣の産物です。ということは、自分の生活習慣への不断の注視なくしては元の木阿弥へ舞い戻りかねない、自分の《鏡像》にほかなりません。

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