《霊性界》というリゾート

越界-両生学・第一本編(その1)

いまやここオーストラリアでは、ブーマー(団塊)世代が大挙してリタイア生活に入り、行楽地はもちろん、盛り場に行っても、くつろいだスタイルの「二周目」ライフの享受者を多々見かけます。またテレビでも、そうしたご夫妻らをターゲットにした、海外旅行の宣伝がうるさいほどです。

私は、そうした現況に同席するブーマーの同類ながら、オージー特有の開けっ広げでケンコー過ぎる物質主義に、むろんお付き合いできる蓄財もなく、自然な分岐が始っています。

ただこの分岐は、非物質的には、これまでたどってきた「両生学」街道を延長する、私なりに蓄積されたものと思っています。加えて、昨年の《ガンとの遭遇》を境に、それは地図のない未踏領域へと入ってきており、ともあれそれを「越界」と名付けています。

そこで手掛け始めているのがこの「越界-両生学」で、これまで7回にわたる「あらまし編」でその導入を述べてきました。そしてそれに続いて、今回より、その本編に入ってゆきます。

そこでその本編ですが、過去の「両生学講座」のもくじのように、そのカバー範囲は広域におよぶはずです。したがって、この「越界-両生学」も、その登山道は結局、多くを数えることになると予想されます。そういう次第で、今回より始まる本編も、番号式でやや味を欠きますが、まずは「第一本編」と名付けました。

 

さてそこで、他のオージー・リタイアリーにならって、私も「二周目ツアー」に出かけたいと計画しています。ただ、そうした物質主義の権化たるそれには馴染めず、私なりの独自二周目ツアーを実行したいと考えています。そして、その目的地を、物的か非物的かの違いはあれ、一種の「リゾート」を求める地と見るとすれば、それは、どんな旅行ガイドブックにも載っていない、未踏かつまことに神秘な、「《霊性界》というリゾート」ということとなります。

そしてすでに、そういう《霊性界》訪問の予感については、「あらまし編」で述べてきた通りです。ただ、《霊性界》とは、私流にもとづく、他者とは違った個別な旅先であるというより、《し》という必至の通過点をへて誰もが行き着く、誰もに共通の万人の旅先です。しかも、その旅先は、さまざまな誤解や曲解や無知に牽引されて、あらぬイメージに塗り込められているのが現状です。そして、そうした将来の“あの世”の塗り込めは、“この世”である現役の一周目生活にも反映し、そうした物質とお金一色の、文字通り、「魂を欠いたもの」となっています。

「あらまし編」最終回の「通過点としての《し》」に書いたように、そうした物とマネー至上の現世主義が、その《し》を不動の最終地点とし、それで何もかにもが消滅してしまうという、きわめて明快な《清算思想》を定着させている感があります。

むろん、無産階級にはそれはそれで潔くてよいのですが、有産階級はそこで「清算」どころか、様々な手段や政治力を駆使して資産の継続と累積を実行し、現世上での連続を計っているわけです。そうした視点でみれば、その《し》という通過点は、現社会構造の「天と地」の分け目を、そのようにも再形成するもの、あるいはそう再利用されるものとなっているわけです。世界が1%と99%に分断されてきたのも、そういう諸工作の連続的実行の歴史的結末です。

しかし、視点を換えれば、その通過点とその先の「リゾート」を、その99パーセントが共有できるはずの非物質的かつより普遍的な目的地とする、より現実的な視点と必要が浮かび上がってきます。あるいは歴史的かつ今日的に、そうした現実的な視点と必要があるからこそ、いわゆる宗教が、その99パーセントのエネルギーの多くを吸収して、時の権力に、時に歯向かい、そして大半は癒着して、存続してきたわけです。

ちなみに、訳読を続けている別掲の「東西融合〈涅槃〉思想」シリーズは、そうした現実的な視点と必要の浮上の根拠を、世界の様々な領域にわたって詳細に探ってくれています。それが故、その99パーセントには、そうしたリゾートへの旅のマップ作りの、有力な手掛かりを提供してくれています。

 

先に、こうしたマップ作りのヒントにしようと、私は日本のあるテレビ番組に関心をもちました。そして、その長く探してきたドキュメント番組の録画を、先に、ようやく見ることができました。それは、NHKスペシャルで昨年9月14日に放映された「臨死体験 立花隆思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるのか」です。その海賊版を友人が探して送ってくれました。

ただ、番組を見た私の正直な印象は、残念ながら期待外れでした。相当取材費をかけたと思われる番組ながら、なぜか内容は、悪くいえば通り一遍な著名どころによる科学研究紹介の線を越えていませんでした。

私自身もガンを患うなど、立花氏に近い体験をへるなかで、やはり、「死」への関心は日増しに高まっていました。だからゆえのこの番組への関心と期待だったのですが、なんと言えばよいのでしょう。逃げることさえ不可能な、自分の死という何ものにも代行のきかぬ“超”貴重な体験への接近であるはずなのに、その機会のなにがしかを、どこか他人任せにしているかのような、その番組の制作姿勢でありました。

他方、上記「東西融合〈涅槃〉思想」の二著書は、その著者のブラッド・オルセンが、自分は独力で、いかなる機関や組織からも、支援や介入を受けていないと明言する、私の知る限り、こうした人類の古くて新しい未踏世界に踏み出してゆくためのが手がかりとして、信頼に耐えうるものがあります。そして、その彼より、その邦訳と私のサイトへの《フリー掲載》に許可がえられ、公式にこの仕事ができることに、私は、大きな使命を感じているところです。

 

私はあと一ヶ月で満69歳となりますが、この年齢に至っては、ここに取り上げる議論の証明が存命中になされるか否かは、時間切れで未結論のままとなるでしょうし、それに、そうした解明問題自体には大きな関心はありません。むしろ、そうした議論によって刺激される、私自身の残余の人生に与えてくれる、エネルギー注入効果の方がはるかに重要です。だからこそ、そういう「リゾート」であるわけです。

現世を楽しみ尽くして果てるのも一人生ですが、その通過点の先に、次元を異とするリゾートを見たいとするのも、また別の確かな人生かと思います。

 

 

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