日本人と日本国籍

「自分って何人」シリーズ第1回

日本人って何なのだろうと、漠然とながら考えさせられ始めたのは、もう40年近くも昔、オーストラリアでの留学生生活に入った時でした。それは外国暮らしという、言うなれば重篤患者同然の生活が始ったがための副作用でした。そして、自分がそこにいるのは、日本を代表してとは言わずとも、少なくともその国名くらいは背負っているとすべき、そんないかにもしゃっちょこばった使命感にとらわれている自分を発見したからでした。そこでもちろん、そういう“いわれのない”ことを意識している自身に違和感すら感じたためでした。

だがそれも、その暮らしにだんだん慣れるに従い、そんな思い入れとも縁が切れるように、ひとまずそう自問自答することもしだいに薄れて行きました。

それが外国暮らしが長期化し、当初の留学目的以上の学位を修得し、加えて、永住権の獲得という“大余禄”にまで達した時、その「日本人って何」とか「自分のどこまでが日本人で、どこからが日本人でないのだろう」という問いがふたたび、強く意識にのぼってきたのでした。

このシリーズは、そうした自分の体験をもとに、通常、真剣に考えることのまれな、あるいは、さして考えもせずあたかも当然の話とされる、そうした国籍問題を皮切りに、自分にまつわる選択問題について語ってゆきます。

 

私がこの問題に現実的に遭遇したのは、そうして、永住という法的に明瞭な区切りと生存圏の確かな拡大をえたことと関連しています。その時、周囲のほとんどの人から、「オーストラリア国籍になるんだろう」と、それを当然視するような見解に出会いました。

こうして、それまで選択の範囲とは考えていなかった国籍といわれるものが選択圏内に入ってくると、あらためて、国籍、あるいはそもそも、自分にとっての国とは何なのだろうとの思いが、もう薄れるどころか日増しに強まって起こってくるようになりました。

それは、もし日本に居続けた場合、国籍は物心つく前から所定の事項のひとつです。それが、かくして外国でのそうした地点にまでやってくると、国籍をどうするかは、たとえば自分の名前を持たないと日常の生活もままならないように、あらためて掲げなければならない事項となっていたわけでした。

そこで、そうした日々の末に到達した考えは、自分には、選べるものと選べないものがあるという認識でした。

確かに、その境目は明瞭ではないのですが、それはある種のスペクトラムをなす問題です。すなわち、両端にははっきりと、それこそ+と-のごとく、対称的な違いとして明瞭に存在していながら、その中間のどこかにそれが反転する境界がある。そういう、自分のどこまでが日本人で、どこから日本人ではないのだろうとの、その境目を探す作業が頭にこびりついてきたのでした。

 

そのスペクトラムの片端では、自分は間違いなく日本人です。つまり、日本の国土内で生まれ、幾度かの引っ越しはあったとしても、その国の中のどこかで育ち、むろん法的にもその国の国民であったのは確かです。両親も、そういう意味での日本人であるのは間違いなく、近親者にも、外国人の血を引くものはいません。

ちなみに、オーストラリアには、「あなたって誰?」とうビジネスやTV番組があって、自分の祖先――ことにどの国から来た祖先なのか――を探ってくれる取り組みがある。オーストラリアならではだなと思わされているのだが、日本では、戸籍という制度があってその“身元確認”は制度化されていて、それは役所にいって手続きする問題である。ところが、オーストラリアでは、そもそも戸籍はないし、しかも移民というごちゃまぜの発展を経てきていて、「自分は何」って需要を掘り起こして、ビジネス機会にもなっている。

この極めて明瞭かつ強固なそのスペクトラムの片方に対し、その他端には、確かなコントラストをなして逆の地点があります。そしてそれは、他方の明瞭さとは違って、なんとも曖昧かつおぼろげで、時には「夢」といった願望も付随して、一種の固定や束縛への反対極として存在しています。

それを「自由」と呼んでよいのか、それとも単なる「絵空事」なのか、ともあれ、決してデッドエンドではない、開け放たれたものとして、その他端があります。

 

人によっては、それはスペクトラムという一筋の線ではなく、とてもじゃないが扱いきれない、雑多に混ざり合った現実の運、不運なのかもしれません。

ところが、私には子供のころより、そうした線状のものがあり、そしてその上に、間違いなくやってくる境界線があって、そのあたりに達すると必ずと言ってよいほど、それを越えるかこえないかが問われる、少なくともえらく緊張させられる、そんな体験をしてきました。

もっとも古い記憶をたどれば、まだ幼児のころ、家を出て一人で歩き回れる範囲があって、あまり遠くにまで行きすぎると、もう家には戻れなくなるのではないかという怖さがある、そんな自分の家を中心にした同心円状の世界がありました。

そうした恐怖心と、その境目の向こうには何があるのだろうといった好奇心との間で、そういう線引きがあったことが思いだされます。もちろん、時の経過とともに、つねにその範囲は拡大はしていました。ただ、拡大はしていても、それは次から次へと現れてきて、永遠に決着の付かないかの問題でした。

言うなれば、そういう同心円の拡大が、ついに、国境を越える段階にまで至ったのが、三十台半ばを過ぎてのオーストラリアへの遅まきの留学でした。

 

以上のような「出自」と「自由」との間の《境界線問題》は、それを問えばオーストラリアでは、ほとんど即に「アイデンティティー問題」として扱われ、移民という社会的離脱と加入に伴う心的コンプレックスとして片づけられることが多いようです。

しかし、私の場合のこの境界線問題は、移民という地理的、制度的移動を前提とする問題だけではなく、幼児のころから引き続いてきている、文字通り生存と「地続き」の問題です。そしてそれは、国境という線引きに関わる以前からある、もっと根源的な、人間さらには生命の存在に基本的に関わるスペクトラムとしての問題です。

そういう意味では、この新設のシリーズは、この『両生歩き』という「同心円拡大」のプロセスを記録してきた取り組みの《総まとめ》ともなる可能性をもつテーマとも言えます。

そしてそうした個人にまつわる問題に終わらず、人にとって、何がその人の土台で、何がその上に立つ建物なのか、そうした条件と発展をめぐる問題であるとも言えます。

 

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