《自分は愛地人》or《自分はフィラーシアン》

「自分って何人」シリーズ第5回(最終回)

今回の本稿にのぞまれる読者は、その前に、松岡正剛が『千夜千冊』の1770夜(2021年4月30日)で取り上げているミシェル・セール著の「小枝とフォーマット」に目を通してからにしていただくと話が早いはずです。

これは、相変わらずの私の牽強付会ですが、そこで言われている「フォーマット」とは、どうやら私が言う「出生や国籍に伴う釘付け」という着想が、別のメタファー力を使って言えば、その「フォーマット」であったと置き換えうる、そうした同等性が指摘できるからです。

つまり、ある一定の体系をなす思想なり、論理なり、社会なり、システムは、その体系をまとめる基盤となる原理や原則を持っており、それは、最近のコンピュータ用語を借りて、「フォーマット」と言い表しうるもの、ということです。

コンピュータ用語上の「フォーマット」は、日本語にすると、「書式」とか「形式」と訳される(別の用法として「初期化」という意味もあります)、定型化された様式です。

たとえば、もはや書類作りの世界標準になったかのMSのWordには日本語版もあって、もはやそこに設定されている日本語様式が、“正しい”日本語――少なくともビジネス上――とさえもされる、実務の上の使われ方が普及しています。何やら、英語の軍門に下ったかの実用日本語なのですが、日本語を通じて自己形成してきた者――そういう人物を《日本語人》と呼びましょう――ならそれに違和感を持たないではいられないはずです。

私の場合、連続した《移動》という別の手法すなわち「両生歩き」をもって達したのが、日本という「フォーマット」であったわけです。

 

ところで、私は、この「日本語人」の、つまり、日本語を基盤とする“文明”圏に生息する人間の強みとして、日本語人には、松岡正剛の『千夜千冊』という「前人未踏のブックナビゲーションサイト」(サイトHPより)、言い換えれば、世界中に存在する主要フォーマットの案内書――知の旅のガイドブック――を利用することが可能であることです(これは日本語人であることの、なんと顕著な恩恵でしょう)。

さらに、その案内書を日本語で著す松岡は、日本語自体をフォーマットと見ることについて、上記「小枝とフォーマット」の中でこう述べています。

日本人のぼくはここで、ところで、日本ではと思う。本居宣長(992夜)が遭遇したのは逆のことだった。漢文のみで書かれた『日本書紀』はむろんのこと、『古事記』にも日本語によるフォーマットがなかったのである(あるいは「からごごろ」=「漢意」によって半ば隠れていた)。けれどもそのコンテンツはまるまる日本のフルコト(古事)にまつわるものだったから、宣長は40年をかけて『古事記伝』を書き、そこにひそんでいたであろう仮想フォーマットを浮き彫りにしてみせた。
 この話を知ったら、きっとセールはよろこんだろうと思う。セールはギリシア・アルファベットに代わるフォーマットが、哲学や科学のなかでどのように想定され、実現されていたったのか、そこを綴りたくて、こんなにも次々とエッセイを書いてきたのだったから。

松岡は、このようにして、日本語もフォーマットと見定めた上で、そうした世界のいずれのフォーマットも、それが自らがフォーマットであるがゆえに扱い落としてきた分野を採り上げます。

その採り上げ方は、今年5月上旬に臨んだ二度目の肺がん摘出手術を前に、それなりの覚悟をにじませたものとなっており、退院後、『千夜千冊』の1771夜(2021年5月29日)のアンリ・セルーヤ著「神秘主義」にこう披瀝しています。

さて、入院中に神秘主義の歴史と現在のことを久々に考えた。入院したら、そうしようと思っていたのだ。なぜ神秘主義のことなど考えてみようと思ったかというと、ずっとほったらかしにしていたからだ。

こうして、その手術から――あえてこう書きますが――“生還”した松岡は、その最初の『千夜千冊』に、このアンリ・セルーヤ著「神秘主義」をナビゲートしているわけです。つまり、「ずっとほったらかしにしていた」のは、彼ばかりでなく、人類の知もそれを「ほったらかしに」していたからだと。

そのようにして採り上げられたこの《神秘主義》というテーマは、他の機会では採り上げられることのまれどころか、二重、三重に忌避もされて、「越境」を目前に意識するがゆえの究極のテーマと言えるものであったわけです。私には、その思いを大いに共有できる類似体験があります。

 

このようにして、本シリーズのテーマである「自分って何人」という問いとは、このフォーマットの発見にも連なる設問であったことが浮かび上がってきます。

つまり、「国離れ」意識とは、このフォーマット離れの意識であり、その「根なし」状態からの問いが「自分って何人」なのです。

かくして、「自分って何人」という問いと、《神秘主義》というテーマは、何やら“異母兄弟”の関係にあったことが判ってきます。

そしてこの判明をもって、本シリーズはようやく結論部に達したと考えます。

そして同時に、その兄弟である《神秘主義》の領域について、それは、「越界」とか「非局所性」という角度より、この数年にわたり取り組んできたテーマでもあります。

ゆえに、その「根なし」感を一方に、他方に、科学が対象とすべき最先端のテーマであることを据えて、その両眼にらみの到達に確信をもって帰還してゆこうと思います。

 

そこで、本シリーズの問い「自分って何人」の結論とは、これだけは離脱できない――でありながらいつかは「他界」を避けられない――生命上のフォーマットである地球と、人工のフォーマットからの離脱を収れんさせれば、《自分は愛地人》との表現が導かれます。あるいは、「越界」を想定して地球離脱を仮想すれば、《自分はフィラーシアン》となりましょうか。

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