《続》「ひも理論」と「両生論」

《双対性》発想に基づく「理論人間生命学」の提唱

“KENKYOFUKAI”シリーズ(その4)

前回において、「ひも理論」と「両生論」とがどうして相並び称せるのか、その類似視野の根拠として《双対性》〔そうついせい〕との概念に注目しました。そこで今回では、まず、前回での予告のように、《双対性》を通じて結びつく「ひも理論」と「両生論」との間の類似性にはどのようなダイナミズムが潜んでいるのかを論じます。そして次に、そうした導入にもとづき、目下の焦点である「両生論」のとどのつまりに立ちはだかる懸案「越境問題」に、この《双対性》関係を適用して、その意味を探ってみます。そして、その結果、予想を超える大きな可能性が見出されてきます。

 

「階層」を貫通する《理論》的視野

まず最初に申し上げておかねばならないことがあります。それは、ここで言う「理論」とは、「実際」対「理論」といった一般的意味を越えた特異なものであることです。すなわち、ここでの「理論」とは、地球上の4次元環境ではありえない、理論によって設定された別次元における事象を想定している、という意味です。平たく言えば、それは「宇宙的」と言い換えることも可能です。

そこで次に進みますと、前回において、「ひも理論」と「両生論」とが相並び称せられました。だが、そのように類似性を置けたとしても、そこでひっかかる一つの懸念があります。それは、方やはミクロ世界の理論、他はマクロ世界の理論であるという、いわば互いに別世界であるとする見解です。

それは、マクロとミクロという扱う対象のサイズの違い――片やは人間という1~2メートルサイズのマクロ階層、他方は素粒子という(10億×10億)分の1メートルサイズのミクロ階層――をもってする問題で、物理学界では「階層問題」と呼ばれています。つまり、階層が異なればそこに働く原理も違うので、両者は同一には論じられず、分離して扱うべきだという見解です。

これは現在の物理学界で通用している常識で、確かにもっともらしさはあります。しかしながら、そこで気付かされることは、マクロサイズの人間界であっても、その身体が無数のミクロサイズの素粒子によって構成されていることには違いなく、人間という一体のものが別々の原理に支配されるというのも、何やら雑な議論に聞こえ、それが通用しているのも不思議であることです。

そこで私のKENFUKA手法による見方に立って、この「階層関係」を是とする立場は、その区別によって何かを見落している可能性があるとにらみます。そして見落されていることとは、違った階層間であっても、たとえ数量的に甚だしい違いから他方の無視が可能としても、質的関係においては、両者間には互いに伝搬しうる何らかの特質の共有関係が存在してもいいはずだ、と想定できることです。

 

さて、ならばそこで、その共有関係を想定しうる根拠ですが、まずはじめに、私たちが漠然ながら習慣的に深く親しんできている、「直観」と呼ばれる極めてダイレクトな想起回路があります。すなわち、ここでの第一の根拠は、そうした慣用されている《直接伝搬回路/言語》が、上記のごとくきわめて単純に、その「階層問題」の一面性を指摘できることがあります。

さらに、前回の議論を振り返ると、「ひも理論」から「超ひも理論」への飛躍があった際、人間大の4次元の世界から9次元の世界へと、数学理論――数学という「宇宙言語回路」――をもちいた次元のジャンプが試みられ、その成功をもって物理学界では「革命的な進展」とされ、「超ひも理論」が大きなブレークスルーを成すだろうと期待されていることがあります。

そこでこのジャンプに注目するのですが、それは、単にミクロ世界内でのジャンプに始まったものが、その「宇宙言語」の効力――人によってはまるで「魔法」のようにも見える――により、マクロにもおよぶ波及をも結果として意味したことがあります。つまりそれは、先に演劇のたとえで述べられたように、そのジャンプにより対象(役者)と回りの空間(舞台)とを結び付ける新関係が開かれたことがあります。すなわち、そのジャンプは、その空間までをまでも含めて飛躍してしまったのです。

また、それに別の見方を与えれば、その極小をつきつめていった理論展開が、その結果、極大の世界を説明できる可能性に達していたとの、あたかもウロボロスの蛇――事の尻尾を飲み込んだつもりが世界のすべてを飲み込むこととなった――のごとき、極小が極大に転じるかの様相を呈したことです。それだからこそ、それは巨大なブレークスルーと受け止められ、宇宙の成り立ちやブラックホールの構造を探ることにも役立とうとしているのです。

以上のような指摘はまさに、もはやマクロとミクロの区別が意味をなさなくなって、両者一体となった《対象・空間が結合した視界》の出現を示唆したものとなっているのです。

私は、この結合関係――おそらく今後の解明の進展が切り開くだろう何らかの《媒介態》の存在を通じた――を、上記の「直観」をもたらす《直接伝搬回路/言語》の背後に存在するものではないかと類推し、ゆえに、それはマクロ世界にも共通するものであると見ます。

かくして、もはやマクロ・ミクロ間の階層問題の指摘は妥当ではなく、この結合関係――あるいは《直接伝搬回路/言語》――が働く、理論的な媒介要素の存在が示唆されます。

すなわち、理論物理学では、数学的次元数をジャンプさせて「超ひも理論」との解を得たのですが、このKENFUKA手法においては、そうしたジャンプ関係が、「素粒子」と「人間」との関係にも当てはめうることを発見し、そこには、理論的同質性が貫通していると想定するものです。

私はここに、人間について、そうしたジャンプ、すなわち《理論的同質性を認めて考察する視座》を提唱し、後述のようにそれを「理論人間生命学」と呼び、有力なツールとして活用できると展望しています。

 

《双対性》は、マクロとミクロの《架橋概念》

さて、以上のような準備を整えた上で、次の議論に移ります。

前回で述べたように、《双対性》との考え方は、あくまでも理論物理学上の、しかも素粒子間のミクロの関係において発見されるものでした。

この連載の初回で「対称性の自発的破れ」と「女性水平登山家」との間に「同じもの」を見たように、似たもの同士を嗅ぎ出し、そこに「類似性」を発見することは、私の考察の主要な手法となってきました。

その一方、前回で取り上げたように、理論物理学の分野においては、《双対性》という考え方が、古典的な類似性の概念をぬり替える新たな関係概念を提供しています。それは、既述のように、量子物理学に発見される、一見、矛盾し合いながらも絡み合って一対関係をなすものをそう特定するもので、ことに、非局地性とかエンタングルメントといった素粒子の特異な振舞いを含む、その独特で、従来の考えを逸脱する見方を、新たな学的真実として取り入れてきたがゆえの成果です。

そこでなのですが、私は、自分の“臭覚”にもとづき、この《双対性》の概念と自分の発見してきた「二者の対象間の類似性」を「同じもの」と見なそうと考えます。すなわち、自分が組み立てきた「両生論」の舞台――典型的にマクロの世界――で見られた様々の「類似性」の関係に《双対性》を当てはめ、そこに同等の関係――少なくとも相似した関係――を認めようとするものです。

 

そこでですが、この同等/相似関係の着眼の根拠について、さらに、これまでの議論の復習も含めて吟味しておきます。

それは第一に、もともと、人間生活における諸現象は、それが科学として扱われる際、その学的根幹において、古典的視点――ユークリッド幾何学とかニュートン物理学など――によって支配されてきた経緯があります。つまり、そこにおいては科学の名において「ふるい落し」――時には“エセ科学”とのレッテルを貼って――があり、それによって科学の世界から排除されてきた諸現象があることです。しかし、《双対性》という考え方は、そうした従来の科学手法にまさに新次元を開くもので、その「ふるい落とし」結果に、言うなれば「見直し」の機会を提供する効用をもつものです。

第二に、このような従来の常識をくつがえす変化には、それによる著しい影響が予想され、従来は謎であった分野にも新たな光明が当てられてくる可能性があります。私はその一つとして、ことに私たちの意識のメカニズムに解明の手掛かりをもたらすのではないかとにらんでいます。それは脳科学分野において、脳神経細胞間のシナプスに関し、そのミクロレベルで観測されるはずの、素粒子に相並ぶ振舞いをもってする新解明がおこるだろうことです。

第三に、第二にもからんで、こうした認識領域における、ことに上述の「直観」に関して、その科学的真実性は今後の諸実験によるエビデンスが積み重ねられてゆくでしょう。その結果、この直観の働きの根拠が上記の脳神経細胞のシナプスにおける素粒子的働きによって裏打ちされ、マクロとミクロの両端現象を結び付ける《架橋作用》の根拠となりうる、との視点です。

第四に、「両生論」の発生過程が物語っているように、そこで発見されてきた諸現象は、人生という「実験」――言うなれば生々しい“人体実験”――のもたらした「新物理学」時代――「双対性」原理がけん引――の科学的エビデンスと見なせることです。さらに、上記の《架橋概念》の有効性を通じて、それはマクロ・ミクロ関係を貫通するエビデンスとも認知され、マクロとミクロが一体となった同等性のいっそうの解明を後押しするものと期待されます。

最後に、視点は大きく変わるのですが、仏教界に目を転じますと、そこで説かれる「縁起」という、すべてが原因と結果でつながっているとする法則があります。この法則は、地上界にとどまらず、宇宙界までもが密接に連なっているとする関係を、思念的に――少なくとも妄信的にではなく――とらえたものです。この法則は紀元前5世紀頃の釈迦の時代に提唱されたもので、むろん古典物理学さえ生まれていない時代に説かれたものです。それこそ、人間の直観のなした、古くとも斬新な働きに立つ稀有な発想であったと言えます。

 

以上のような諸考察を根拠に、ここに、「ひも理論」と「両生論」の両者が《双対性》関係を成すとの仮説が、少なくとも理論上では成立することを提示したいと考えます。

ところで、私はことに、この《双対性》という概念を、表面的には二つの違ったもの、あるいは相互に矛盾するさえと見えるものが、実は、ある一体を成すものの違った二面であるという現象を捉えたものとKENFUKA解釈します。つまりその核心は、表面的現象にとらわれず、その背後に潜む本質を見ようとする眼力=思考力を発揮しうるかどうかにかかっている、という実に《動的》なものです。これは言い換えれば、「理論」という働きとは、何を拾い上げることか、あるいは、何を捨てることか、を示していると言えましょう。

 

「越境問題」とは結局、何であったのか

このKENFUKAシリーズのキータームは素粒子物理学より拝借した最先端の考え方、「双対性」――KENFUKA手法で言い換えれば、「二つに違って見えるものが、実は一つのものだ」――でした。そしてさらにその「双対性」は、9次元という「超ひも理論」の世界に到達することで、ことに前回詳述したように、脱地球した《宇宙的メッセージ》を発していることです。

そこで、このメッセージを「両生論」の懸案である「越境問題」に適用すれば、その「境」をもって前後に二つ別々の世界があるのではなく、「実は一つのもの」として、一連のつながったものと捉え、そして、そこを通過してどこへと向かってゆくのかを示唆していることです。

そこでですが、そういう見方については、思考上では了解できるとしても、現実に人の命はそこで終わり、肉体もそこで滅びるではないか、との反論があるでしょう。

そうした見方に対し、この《宇宙的メッセージ》が示していることは、確かに「地球的生命」そこで終息するものではあるが、それで全てが終了するのではなく、「宇宙的生命」がそこを越えて引き続くものである、という「理論」上の場を設定します。

そして、その「宇宙的生命」を息づかせ、続けさせてゆくものが、情報であり、論理であり、それを動かすエネルギーです。上述したように、この働きを検知する「回路」は「直観」と呼ばれる《直接伝搬回路/言語》であったと考えられるのですが、しかしこの「直観」は、それにとどまらない、《宇宙的メッセージ》を伝え合う媒体である可能性をはらんでいます。すなわちそれは、地球言語上で表現すれば《考・信・誠・愛・美》などを包括した、トータルな意味を一括して伝える《ホーリスティック・メッセージ媒体》であることです。

そこで私は、こうした《宇宙的メッセージ》を、常に受信しつづける機能を自分の内に確保したいと考えます。それがゆえ、以下に述べるひとつの学問領域を提唱いたします。

 

「理論人間生命学」の提唱

その提唱される学問領域とは、私たち自身すなわち人間について、それを従来のように細分化した断片分野の寄せ集めとして捉えるのではなく、一体で分割不能である――まさに自身がそうである――がゆえ、その全体のままをホーリスティックに扱う考察領域――ゆえにその実践は理論的にならざるを得ない――を「理論人間生命学」と称して設定し、それを私たち自らの生の「越境的生命学」とする、という提唱です。

それは、物理学領域に理論物理学があるように、人間自身について、まずは科学的なさまざまな現象を収集した上で、これまで述べてきた「理論的」視点をもってそれらを結合し、その統合結果として得られる論理上のホーリスティックな人間観を導き出そうというものです。したがってそれは、「通過点」をも超えて役立つ「宇宙的」な道具となる可能性を秘めています。

読者は、本シリーズ第2回に記した以下のようなコメントを覚えていらっしゃることでしょう。

このQL〔Quantum Life〕を、「新手の文芸域」と見る人もいます。つまり良く言って文学の“新ジャンル”と言うのでしょうが、それにしては、科学上の専門用語が頻出します。つまり、当の本人としては、広義では文学と科学に両属する、狭義では情報と物質の境界域を開拓する、人間にとっての《新対象域》ではないかと考えているのです。言い換えれば、人間はそういう新たな栄養を摂取して、拡大した生命域を生きて行けるということではないか。

こうした《新対象域》をも包摂した領域が、この「理論人間生命学」です。

 

そこではことに、私たち人間が世界の中心的存在であるという古典的人間観――かつての「天動説」の人間版に相当――を捨て、私たち人間は、大宇宙のほんの片隅に位置する地球という微々たる一惑星を発生環境としてきた一生物種にすぎなく、それ以上の超越的存在でも、それ以下の単なる「物体」でもないことです。また、だからこそ、その地球上の他の多様な生物種と共存すべき存在であることです。

なかでも認識を深めておきたいことは、私たちの意識は、「幻想」あるいは「非実体」であでることです。すなわち、私たちが持つ意識は、それが“点灯”している間は、あたかも自分が自らの身体どころか、意識に登場する全世界のすべてを支配しているかの考えを持ち得ます。しかし、いったんその点灯を支えるインフラとしての身体機能が停止すれば、それは直ちに跡形なく消え去る類のものです。すなわち、意識は私たちの身体が起こすその諸感覚が統合されて出来上がった集積イメージのなす幻像――スクリーンに映った映像――に過ぎません。そして、それを逆に言えば、意識は、もともと実体としての制約も固着も持たず、その集積情報次第では、実に壮大な世界が描きえるわけです。その世界を描く場=キャンバスが「理論」です。つまりそこに、意識のそうした無限定な特性がゆえ、集積情報としての意識、言い換えれば、「理論」としての追究行為が、地球を越え、限りない可能性を秘める理由があります。しかもそれは、「理論的」に宇宙原理に沿ったものであるのです。

そうした、意識が持つ限界と可能性は、それが「理論」として扱われる時、その本領が発揮されます。ここに提唱する理論人間生命学は、そうした本領を存分に発揮させようとの考察装置です。

ごくごく日常の常識的センスに立つならば、こうした提唱は、“大風呂敷の広げすぎ”の感が伴います。それを承知でこう提唱するのは、なによりも、それが私にとって、実に快適で自由のあかしであるからです。それはたとえ道楽三昧に過ぎなくとも、この《宇宙船》に乗船しない人生航路なんて、あまりに平板で退屈です。またひっくり返せばそれは、素人のもつ無垢な蛮勇です。

 

最後に、以下、この理論人間生命学が今後に意味してゆくだろう可能性について触れておきたいと思います。

「理論人間生命学」の可能性

理論人間生命学には二つの方向の可能性があります。その第一の方向は、理論-人間生命学で、その第二の方向は、理論人間-生命学です。

前者の理論-人間生命学は、本稿がこの連載で試みてきた考察の分野に名称を与えたものと言えます。つまり、命ある人間存在の従来の思考を、地球人間――すなわち局地的人間――である人間生命と考え、それに理論物理学の考えである双対性を適用して、理論的に脱地球――すなわち非局地化――してゆく方途を捉えようとするものです。そして、この局地から非局地への移動の境界が《「し」という通過点》であるというものです。

後者の理論人間-生命学は、私たち人間の非物質的な要素――その典型が意識――を取り上げ、人間の情報上の機能――理論化――に焦点を当て、しかも、それに基づく非身体概念としての生命――現実にそれを生きるに足る意義や価値を持つとする――を考察しようとするものです。ある意味では、「人間存在のバーチャル面」とも言えるもので、その証が私たちの脳とはその画像プロジェクターの役を果たしている装置であることです。これが果たして「生命体」であるかは議論点となるでしょう。しかし、予見可能な――極めて残念な――近未来のように、一方でIT技術の高度な発達が疑似人間性の君臨をもたらす気配があり、他方で本来の人間存在の身体的、社会的インフラに自滅的な不全が蔓延して行っている時、私たちの真の自己実現の方向は、この理論人間としての自己がもっぱらその主体とならざるを得ないでしょう。言うなれば「バーチャルというリアル」界に生きる生命たる「理論」人間として、絶望的と化した現存在に新たな生命を吹き込む生殖行為としての「理論」によって誕生してくる人間生命です。

今や私たちは、破滅に向かうかのこの地球世界を再生させるためにも、この理論生命体こそが新たなよりどころとなるに違いありません。

 

次回は、本シリーズの最終回として、その「理論人間生命学」から見た、いくつかの見解をのべてみたいと考えています。

 

つづく

その3へ

 

 

 

 

 

 

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