脱「理不尽」の機会

「自分って何人」シリーズ第4回

「自分って何人」との問いに答えることをいかにも難しくさせている原点に、そういう自分はその意志とは無関係に、親という他者をもってこの世に登場させられたという論理上の理不尽があります。気が付いた時には、良きにつけ悪しきにつけ、その親にまつわる様々の現実に釘付けされて自分はそこにあるわけです。自分の意志が問われたことは一切なかったのに、その起点に戻ることさえ不可能である。論理上、これ以上の理不尽はないでしょう。したがって、「自分って何人」に答えるほとんどの事由は、この理不尽な原点に由来することとなります。

だがその一方、あらゆる生命の発生は、そうした理不尽な仕組みに根差しています。地球上において、40億年にわたる長い連鎖の結果、無数の生命がそこに生存しています。しかも、そうした生命が、意志とか論理とかに関与し始めたのは、その連鎖の最後の、ほんの1万年にも満たない瞬時のことです。

どうやら、「自分って何人」という問いへの回答は、こうした理論的理不尽と、歴史上のほんの瞬時という新しさの成す、相交わらぬ事情を見据えなければ導けそうにもありません。

ところで、あと2か月で、私は75歳になります。そして、前回に書いたように、生涯で半々だった日豪の生活体験も、自分が選択するこのオーストラリアでの体験が、出生と絡み合った日本のそれを上回って行くことなります。

この1万年どころか、75年間のしかも後半という瞬時にもならない私の体験ながら、この理不尽な設定の枠組みからは、なんとか脱した視点が築けそうです。

この微塵な体験は、その移動がゆえの視角の違いから、その理不尽のかけがえのなさと同時に、その引力圏を脱した独自の視点という、その設問に答える足場を与えてくれそうです。

 

そこでですが、あとひと月に迫った東京オリンピックの開催は、その歴史上でも極めてまれな、賛否の議論の沸騰する特異なものとなりそうです。

そもそもオリンピックとは、その理想主義的宣言を横目に、その膨大な政治的経済的開催メリットがゆえ、その現実主義が全容をおおうようななってきました。そして、今五輪の実相は、関係国や組織のエゴの渦巻く――何をしても「貧乏くじ」を他者に引かせようとする――醜い国際イベントと化してきています。

それを、本シリーズの「自分って何人」との設問に沿って述べれば、まさに、上記の論理的理不尽の意識的、なりふり構わぬ乱用です。

したがって、仮にその開催が、たとえ歪曲の上に終焉に漕ぎ着けえたとしても、その強引な開催執行という各組織エゴの結末の、政治的経済的そして疫病的なしわ寄せは、一体どこに収束されるのでしょう。

それは、今号掲載の「花との交信」が言語化する、「深く、重い闇」であるのでしょう。

あるいは、ここまでに劣化したこのオリンピックのせめてもの意義とは、「自分って何人」との問いに、ついその理不尽に取り込まれてしまうその引力圏を脱した、正解の極めてまれな機会を提供していることなのでしょう。

 

 

 

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