「通過点としての《し》」宣言

越界-両生学・あらまし編(その7・最終回)

三ヵ月ほど、この「越界-両生学・あらまし編」をごぶさたしていました。この間、新しい訳読に関心を集中していたのですが、この「あらまし編」は、表記の「宣言」をその結語としてかかげ、今回をもって最終回にしたいと思います。そして次回より、「日々両生」でも触れましたように、次の十年紀へ向けてのマップ作りとして、この「宣言」に託されたその意味、すなわち、その《峠越え》に向けた「越界-両生学・本編」に入ってゆきたいと考えています。

さてそこで、その宣言、「通過点としての《し》」です。

まずその初めにこの「《し》」ですが、それは、「さ」でもなく、かといって「す」でもなく、その間にある「《し》」であります。ただしそれは、現社会の慣用では「死」と表現するのが一般的であり、いかにも今日の世相を象徴的にも反映するこの「ひとこと」につき、そう記号化して表現しなおしたものです。いくぶん遊戯的ではありますが、この技巧を通じてそうした世相の解毒化をはかり、またその根拠希薄なぶれについては、それを最小化してみようとのたくらみであります。

そこでその《し》ですが、昨年の前立腺ガン体験を経て、私もついに自分の生涯では初である、可能性としての自分の「死」との遭遇を体験しました。それは世相どおり、一連のえたいの知れぬ恐怖にさらされる体験でありました。しかし、幸いにそのひととおりを克服をすることができ、なんとか今日に至っています。そして、その克服をつうじて達した心境が、それまでの「死」が、今ではかなり違ったものとして受止められ、私の中にあることです。

そこでこうして生まれ代わった心中の「死」を特定するために、上記のような「遊戯」を編み出しているわけです。そうした上での、この「通過点としての《し》」という認識です。

むろん、この認識は、いまのところ実証のしえないものであり、そういう意味では、ひとつの仮説、あるいはそれ以下の、単なる解釈にすぎないものではあります。そういう往生際の悪さを披露するものではありますが、逆に、これが私の往生法でもあります。

こうした認識は文字通り、《し》とは旅道中の一点であって、それが旅そのものの終結点でも旅人の消滅点でもないとの考えです。そういう《連続観》をもつことです。

もちろん、この考えをもって、《し》が常識的に意味するところの「生命」の消滅を否定するものではありません。つまり《し》とは、「生命」の消滅はあるが、それでもなにか残るものがあるという発想です。

むろん、《し》という「境界」は誰にとっても厳格なものです。そして、必然かつ不可逆的で、いちど通過してしまえば帰還は不可能です(いわゆる瀕死体験者による「帰還談」はあるようですが)。そういう厳密な「一方通行」を通り切ったその先は、あえて言うまでもなく、「来世」と呼ぶしかない彼岸の世界です。

そういう《し》という「越界」を、私としては、少なくとも現在においてはそうとらえることに耐えられ、その越界後を、むろん未知ながら、これまでもそうであったような「初体験」の、異次元界への延長として考えています。したがって、《し》をもって、私のなにがしか一部は終わるようではありますが、それですべてが断ち切られるのではなく、《連続》してゆくものもあるという展望です。

こうした考えは、そこに至るまでの経緯を、これまでにも幾度か表してきました。たとえば、両生学講座・第三世紀の最終回の「「未知多次元空間」と「移動生命体」」や、「「越界-両生学」へ」とのタイトルで開始した新次元の「両生学」の登場です。そうした助走期をへてのこの宣言であるわけです。

 

こうして、「《し》は通過点」と見定めると、とある独立峰の頂に立ったかのように、新たで異なった展望が目に入ってきます。

まず初めに、その《し》を境とした視界においては、消滅するものと連続するものがそれぞれに想定されてきます。そして、その両者の区別を明瞭にする必要を感じさせられます。そこで、その消滅する側の部分を「地球的生命」と名付けて特定してみます。

言い換えれば、その「通過点」までの時期を「地球期」と称し、その《し》をもってその地球期からの「卒業」とし、その後の地球“OB”期、あるいは、「宇宙社会人」期があると想定するものです。

ちなみに、この「宇宙社会人」期といった表現は、その舞台である宇宙空間を考えれば、なんとも「この世」臭ふんぷんたる表現ではあります。それをあえて用いるのは、現在、並行して進行中の訳読にも見られるように、ETが地球に到来しているのはどうやら公然の事実らしく、その意味するところは、人類は決して宇宙の孤児ではなく、宇宙とはけっこう人口“豊富”な世界であるようだということです。となれば、それなりのご近所付合いも避けられず、他者に配慮して自分勝手な振舞いはつつしみ、必要とあらば、他者を見習うこともありえるということです。つまり、それなりの外交政策や「愛”地”心」が望まれる世界であるということです。

すなわち、私の「《し》は通過点」とする覚悟は、どうやら私の個人的な趣向には終わらず、そうした時代的、宇宙的意味にも触れているらしいということです。

さらに、この「卒業」あるいは「OB」とのたとえ話を続けますと、卒業イコール脱地球、すなわち、宇宙社会人という大人となった存在が、さらに「宇宙社会」経験をつんで成熟し、完成なった人格が想念されます。そうした想像上のまさに《偉大な人格》は、それこそが、人間が歴史を通じて脈々とつくり上げてきた《神》なり《天》なりという、考えうるかぎりの全き完璧の存在、あるいはそれに通じる観念像のことではないか、と思い当たるわけです。

ちなみに、ガイアという、宇宙全体をひとつの壮大な生命体として見る考えがあります。そしてこの生命体は、知的にも倫理的にも至上の高度さをもっており、まさにそれは、未熟で愚かな地球人から見れば、神にも相当する完成した存在であるとするものです。

そうした存在は、現代以前まででは、科学的知見の不足によって、純粋に人間の観念――あるいは“迷信”――の対象であったわけです。それが、特にこの一世紀ほどの科学的知見の進展により、真空で冷え切った死の世界と考えられてきた宇宙が、もっと“血の通った”、生命の起源である“母体”であるとさえ見られてきている変化があります。そうして、そうした「偉大な存在」も、ただの人間の頭の中の産物でなく、それなりの“物的”根拠をもった科学あるいは「新・科学」が対象とすべきものとされつつある流れがあります。

これは私の独断ですが、そういう流れから見ると、宗教についてもそういう科学的根拠がある、つまり科学の一領域だとの立場もありうるわけです。いうなれば、物理学と倫理学や宗教理念が同じ土俵で議論される日も、そう遠いことではないのではないか、とする予感です。

そして、この物理学と倫理学等をつなぐ輪が、別掲の訳読で展開されている、素粒子レベルから宇宙全体をもおおう、トーラスとよばれるエネルギー流の構造です。

上に述べた、私の覚悟が時代的、宇宙的意味にも触れているらしい、というのも、こうしたところが接点となっているがゆえです。

 

ところで、ここで話は、いきなり私の私的心境談に移ります。いわば、上記のような思考の世界の対極にある、超地球的な、しかもとみに極所的な、私的で生身なゆらぎの世界です。

こうした話を採り上げようとすることさらな発端は、昨年のガン体験がきっかけなのですが、以来私は、以前にまして、きわめて顕著かつ着実にすすみゆく、自分の老醜化に気付かされてきています。そして、そう意識すればするほどに、逆に、身のまわりに見られる、若い世代の一人ひとりのもつ美を、しみじみと見つめている自分を感じさせられています。それは、老人特有のいかにも羨望にみちた審美眼です。自分もかつてはその一員であったはずと追憶をたどってはみても、もはやいかんともし難い、過去への空しい愛惜感であります。そして時には、川端康成の小説『眠れる美女』風の淫靡な嗜好観にもひたりたくなる、自己慰安への傾向でもあります。

しかしその一方、そうした表層の世界とは別に、澄みわたった晩秋の大気のように、自分の精神がしだいに透明度をましているかの深層での変遷も、あわせて感じさせられています。それは実に妙味な外内のコントラストに違いないのですが、内に広がり増してゆくそうした純度が確かに存在しています。そしてそういう意味では、それは、若い命のそうした外的美があわせもつ即物的な直情さとは、神妙な一対をなしている図柄のように観察されます。

こうした「純度感」は、たしかに、死を《し》と解毒化しえてきた体験やその反映に由来するものです。

私は、このような独白的体験談と上記の新・科学的進歩観とを、玉石混“合”するかのように並置し、こうした両者に、ある通底する共通項があると考えています。つまり、科学と倫理学をつなぐ輪が見え始めていることと、私がそうした「透明度」に達していることとが、あながち無関係ではない、おそらくそういう同時代性の反映なのであろうとする感慨です。

そしてやがて私にもやってくるであろう、《し》という地球的生命の消滅の時までが、いよいよ、「越界-両生学・本編」を展開すべき機会であるのだなとの見定めです。

 

 

 

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