「ぶっちゃけ」ウイルスのコロナ君

彼は、共存を望んでいる

 独自サイトの設置準備(その10)

ウイルスとは《情報体》であって、ことに今問題の新型コロナウイルスとは、それを「病原体」として敵視する見方では捉えきれないものであることは、これまでにも繰り返し述べてきた。それを、ここ数カ月の経緯を見ていてさらに思わされることは、その情報体が、まるで人間社会を映す鏡のごとく、“憎らしい”ほどもの悪さを働いていることだ。

そうした驚くほどの“ぴったり攻勢”を成功させているのは、このウイルスのもつステルス性――2週間の潜伏期間――と、感染を繰り返すたびに微妙な変異をとげて、特定の社会への特異な適合性をもった《社会寄生》――個人への寄生をこえて社会集団への寄生現象――をも成し遂げているがゆえにだ。

こうして、宿主の人の移動によってどこへでも拡大するとの普遍性と、特定社会の特色を獲得するという特殊性との、両面作戦を可能として、その「ぴったり攻勢」を展開している。

かくして、このウイルスは、特定社会の《鏡像》ごとくの進化に成功している。したがって、その社会の実像と鏡像が入り混じった現実の感染状態にあっては、敵味方の判別は至難で、それを無理に攻撃しようとすれば、同士討ちを意味する経済崩壊をも引き起こさざるを得ない。幻像におびえる狂人社会のごとくに。

現在、この「敵味方の判別法」として使える唯一の有力武器はPCR検査だが、それで「陽性」となり、敵に寄生された「乗っ取られた人」を見つけ出しても、その人に収入や医療を含む十分な生活保証を与えない限りでは、とたんに「逃亡、雲隠れ」されてしまう。あとの手は、隔離施設に拘束するとの強権の出動。

こうして新型コロナウイルス感染の波紋状況は、ある特定社会の実態の「ぶっちゃけ」とでも呼んでもよい効果をもたらしている。「コロナ」とは、憎いほどの役者だ。

 

ところで、脳卒中とか心臓病といったいわゆる「生活習慣病」は、個人の健康を害する諸要素――喫煙、運動不足、脂っこい食事、高ストレス――がそうした病気の原因と指摘されている。それになぞらえて言えば、そうした《特定社会の「ぶっちゃけ」効果》とは、人間社会に蔓延している、政治体制、経済システム、暮らし・雇用条件、娯楽、風習などの、集合的、社会的な面での病的要素が、その感染発生の要因となっていることの指摘とも受け止められる。

かくして、新型コロナウイルスの感染とは、見逃されてきた特定社会の病的要素の露呈とみなすことができるならば、そのパンデミックの克服とは、端的に言えば、その社会のそうした多々の病原要素の除去である。つまり、個人単位での免疫とか抗体とかを超えて、広く社会レベルでの集団的免疫とか抗体形成が必要である。つまり、このコロナは、そういう社会視点に立った変革、しいては進化を促しているとも考えられる。

 

そもそも、地球上に生命の種をもたらしたのは、宇宙から到来した一種のウイルスと考えられている。しかも、生物の進化に、そうしたウイルスの働きが不可欠であったとも見られている。そして現在、各国が競って、その宇宙起源の生命胚種捜しを試みている。日本の「はやぶさ1および2」もそうしたプロジェクトにからんでいる。

ところで、ニュージーランドとか台湾とかを、ウイルスの締め出しに成功した例とする見方がある。だが私は、それはひとつの中途結果で、むしろその要所は、対策に国民を総結束できた統治力の賜物と見る。また、中国はIT技術を駆使した国民総監視体制の徹底という豪腕力でそれにあたった。国民のモチベーション形成という意味では、NZ・台湾と中国は、まったく逆方向である。日本の場合、コロナ騒動以前ですでに統治力の劣化が著しく、そうしたモチベーション形成どころか、無残なことに、むしろ国民の足を引っ張っている。米国はと言えば、コロナによって開けられたパンドラの箱から、市民戦争までもが飛び出してきて、別の大病を患うまでになっている。

私は医療分野の専門家ではないが、個体に用いるワクチンの開発というのは、個体上の病理をベースとした害敵の消滅という旧来の薬剤開発の発想だと思う。そこでだが、そういう対個人観点ではなく、たとえば、「社会的ワクチン」とでも言える観点で、しかもその「悪さ」の力ずくの除去を目的とするのではなく、むしろ《あえて取り込む》との発想はどうなのだろうか。

また、こちらはいくらか私の専門域でもあるのだが、最近の記録づくめの降雨による洪水の頻発に関して、従来の洪水対策も、いわば「力ずく」という意味では同類である。つまり、高く頑丈な河川堤防の建設という対策は、いまや物理的にも財政的にも追いつかず、それでは国民を守れなくなっている。そこで出されてきている新発想は、むしろ、限度を超えた降雨には、洪水をあちこちで分散しておこさせて低位なものにとどめ、被害ストレスが集中した壊滅的な洪水にさせないというものである。国民も、交通事故のように、ある程度の洪水は起こるとの認識に立って、それに備えた町づくり、国づくりをするというものである。

つまり、ウイルス感染でも同様な発想の転換が必要なのではないか。

ここオーストラリアでもそうなのだが、ウイルス対策として徹底が呼び掛けられているルールを守らぬ人が跡を絶たず、ウイルス自体より、事実上、そいういう人たちが“感染源”とされて責められるケースが増えている。そこでは、まるで犯罪事件めいた対処に主眼が置かれている。このままでは、中国式の強権警察国家が理想ともされかねない。

短期決戦で片付く事態ならハードな封鎖作戦も選択肢だろうが、一国的な成功を収めた場合でも、世界での問題が片付かない限り、国を閉ざし続けるか、少々ドアを開けた結果におこるまたもの短期決戦を繰り返すかの、堂々巡りが関の山だろう。それに、長期戦となれば、不届き者の頻発の一方、頼みの綱の大勢とて、その自粛の徹底にいつまでも耐えられるものではない。と言うことは、いずれは感染のぶり返しは起こってしまうのであり、最終的には、感染を社会に取り込んでゆく、社会的免疫と効果的対応医療態勢をミックスした、宥和戦略に移らざるをえない。

かくして、力ずくの対策はもはや物理的にも財政的にも忍耐的にも、取りうる方法ではない。一方、自然の力はますます強大化しており、洪水にしろウイルス感染にしろ、人間が滅亡をのがれ生き延びえるためには、いずれはそれと共存する以外に最終的な対策の打ちようはない。そこでだが、ここが考え処で、地球の太古以来の歴史は、そうした共存の中に、むしろ「進化」の種が潜んでいると伝えていることである。

そこで思うのだが、ウイルス――自然が送り込んできた「にっくき役者」――の戦略として、自分の毒性の強さのあまりに宿主を殺してしまうものは、それにより自分の生存の場をも無くし、自滅的である。ならば、この「社会寄生」においても、宿主の社会を崩壊させてしまうウイルスは、やはり同じく自滅的であろう。

したがって、人間の側とすればこの点でも、ウイルスとの共存の道を正解とする合理性が成り立つ。言い換えれば、ウイルスの撲滅を達成した社会は、「進化」という共存の恩恵が得られない、危なっかしい社会ということとなる。それが、《自然の摂理》のシナリオではないのだろうか。

【追記】まだ断片的情報なのだが、新型コロナウイルスの検出に用いるPCR検査を、個人からサンプルを採取して調べるのではなく、特定地域の下水道の汚水を採取して行う方法が注目されている。この方法によると、すでに2019年12月中旬段階で、イタリアの二都市で同ウイルスが発見されたという。つまりこの調査法は、個人の意志や症状の有無を介せずに、私の言うウイルスの「社会寄生」を直接に調査できる方法である。それに、PCR検査の本来の用途にかなったもので、見当外れな犯人捜しに軌道を外されぬ、むしろ正道と考えられる。

 

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