誰もみな、事前の相談があって、この世に生まれてきたわけではない。そうだよね、誰も。
気が付いたら、もうそうなっていて、今さらNOと言うにも、後の祭りだった。そうだよね。
でも、たいていの場合、そのことの始めには、まあ合意はあったろうね、親同士のレベルで。たとえ形やムードの上だったとしても。
むろん、二人で欲してなら、大メデタシだ。
私の出生のヒミツを話そうか。
私の場合、それは暴力沙汰だった。ある男がある女をレイプしたことが、私が存在する始まりであった。
むろん、誰もが口をつぐんでいれば、私がそれを知ることはなかったろう。でもね、嘘ってバレるものさ。みなが知らんふりでいても、当の本人にしてみれば、その覆われたものにいつかは気付かざるをえない。
その女が自分の妊娠をどう考えたかは、問題にしても始まらない。堕ろすことも出来なかったわけではないだろう。だが、これも後の祭りだ。そうしなかったから、今、私がここにいる。
そういうわけで、私は、《あってはならない》ことから出発した。
だから、自分にのしかかる何とも忌まわしい現実より、なんとかそれに立ち向かおうとする、自分の頭の中の考えを優先するしか、自分のありようはなかった。
だってそうだろう、自分の考えをより強く固めて自分を支える以外に、どうすれば生きれたか。
私にとっての生きるとは、そういうことだった。
でもね、その攻勢も、気力がつづく間だけの話で、それが萎えてしまえば、たちまちに事態は反転して暗鬱が襲ってくる。
そんな朝に目覚めた時、せっかくの眠りから現実に引き戻されたことが、恨めしくてならなかった。夢のほうが、現実より、はるかにリアルだった。
そういう「頭の中のリアル」が、私のいう《理論》ということで、だから、それがなかったら、今の私はないと断言できる。
だが、私がそう言うと、けっこう多くの人が、「でもあなたが、ここにこうしていれるのは、お母さんがあなたを生んでくれたお陰でしょ」と言う。
そんなのは、私に言わせれば、自分で自分を支えるもがきを、する必要もなかった人が言える御託。
それがもし、似た体験を持っていてさえそう言っているのなら、その人は、自分の考えと他人の考えとの区別がつかない、意識混濁患者に違いない。
だから、少なくとも意識正常な人にとっては、《理論》とは、それがなくては始まらない、生きるための点火装置。
そういうわけで、誰にとっても、「気付いた時、もう後の祭りだった」ってのは、大なり小なり同じはず。それに、「点火」後の自分が行き着くのは、結局、《あってはならない》世界。
だからね、自分で点火しなくて、その二足歩行の動物、どうやって自分らしくなるのって話。
そういう二足歩行の元動物の一匹が、必要な道具として編み出したのが、来月リリースの「フィラース Philearth」と、そのコンテンツの「理論人間生命学」。
そう、それは確かに「モノ」の形をした道具ではない。というのは、現代の二足歩行の元動物たちは、善かれ悪しかれ、もう、すっかりと頭で歩行しており、それに役立つ道具を必要としている。