ポスト・コロナ期をどう生きる

《理論》というリアリティー創出のツール

独自サイトの設置準備(その8)

この三カ月余り、コロナに振り回されてきましたが、ようやく、その何たるかがつかめたところで、本来の立ち位置に戻ります。そしてこのコロナについては、その発生は「自然現象」――エコロジカルには両属現象――だが、その感染拡大は「人為操作現象」とするのが私の結論です。そこで考えられる人為操作とは、そのウイルス――情報病原体――の発生に乗じた「世界のヘゲモニー奪取」です。「乗っ取り」と言った方が解りやすいかも知れません。2001年の9.11「偽旗テロ事件」は、その発端とも言うべきものでしたが、それからほぼ20年をへて、今度は、ウイルス感染を発火装置に利用した「情報戦争」――つまり感染の恐怖をあおることで世界の人々の「頭を乗っ取る」――戦争です。むろんその下手人は「資本の論理」で、それが敵とする相手は私たち地球の平民です。

こんなトンデモナイことをよくも考え実行する輩がいるものだと、誰もと同じように私も思います。しかし、よくよく目を凝らせば、そう見る以外に見ようのない事実が世界中で展開されており、それに目をつぶるのは困難です。つまり、「資本の論理」という地球の全社会に浸み込んだ《それを進歩と疑わぬ志向》は、一部のエリート人種による、地球の大多数の人々からの搾取を当然とする《利己的信条》です。

かくして、いずれやってくる「ポスト・コロナ期」に、私の老境期が重なってゆきます。そして世は、テレワークだの社会的距離などと、無味乾燥を越えて妖気すら漂う、人間生活の「デジタル側面」を牛耳った支配体制、つまり《IT全面監視デストピア》へと向かっています。これが「ニューノーマル(新常態)」という衣の中身です。

そうした恐れについてのいくつかの断面は前回までに考察してきました。だがコロナ禍はまだ進行中で、そうした多々の杞憂は、メディアの能天気な喧伝があればあるほど、逆に深まる一方です。そして、そうやって形成されてゆくだろう《ロボ化人間》社会にあって、まだまだ生き残っている私たち老境世代は、せめて《古き良き人間》であり続けたいものだと、心底、願わされます。

 

封殺された海外実体験

こうして国境閉鎖の続く世界状況にあって、この先数年は事実上まずは不可能と化している海外旅行――ことにLCC利用旅行――ですが、それによって今の若い人たちがどれだけ落胆しているか、気の毒どころか、深く憂慮されます。

いつの世においても、若者の好奇心と冒険心が、自分の居住地を中心として、成長に応じた同心円状に拡大する行動域をつくり、それが国境をも越えたものとなるのは自然な発展であって、誰にも止められるものではありません。

しかも今日においては、事実上、国境はもはや無いのも同然で、ことに情報技術の発達により、外国の知識や情報は容易に国境を越えます。加えて「百聞は一見に如かず」で、地理も歴史も文化もそして外国語も、実際によその世界を体験すること以上に有効な学習法そして成長の機会はありません。

ことに日本は島国で、国境と地理的境界が一致し、陸続きの隣国を持たない、世界でも数少ない国のひとつです。そうした島国の閉塞性を克服するためにも、海外体験にまさる妙法はありません。ことに若い世代にとっては Must Do です。

思い起こせば、私が二十代の1970年代始め、海外旅行なぞはまだまだ高嶺の花で、超狭き門の海外の奨学制度にパスするといったエリートを除き、並な若者は、当時「無銭旅行」とよばれた地を這うような、それこそ正真正銘の冒険旅行に出かけたものでした。それは、今日の「バッパ旅行」の元祖でしたが、ワーホリ制度もなければLCCもなく、多くはまず、貨物船の乗客切符を手に入れてともあれ日本を脱出し、後は、アジアなりアメリカなりの大陸沿岸に降り立ち、それこそヒッチハイクで旅をつないだものでした。そうですから、現地の病気に罹ることも、“追いはぎ”同然の目に会うことも含めた危険は承知の上で、行き倒れになることすらもありうると、そうとうの覚悟を胸に秘めて出発してゆきました。

当時、私は流行り始めたそうした無銭旅行に、一抹の懐疑があり、その後十年ほど、国内に踏ん張り続けました。それがやがて、木の実が熟すように機会が訪れ、三十歳代後半になってようやく腰を上げました。それがオーストラリアへの「中年留学」でした。以来三十余年、「鉄砲玉」の海外生活が続いていて、誇張して言えば、地球が自分の国となっています。(こうした経緯については「相互邂逅」参照)

それを想うと、コロナパンデミックによって突然に出現した現在の事態は、若者たちの旅の機会という意味では、50年も時代が逆行したのも同然です。

だからといって、若者たちの好奇心や冒険心がこれで萎えるとは思いません。やがて国境封鎖も解かれてゆくでしょうし、それ以前でもそれこそ「リモート技術」を通じた異次元の体験は可能です。夢を捨てずに、現状を切り開く“テレ”と“リアル”を組み合わせた工夫をして、世界と将来を広げる可能性を追及してほしいと切に願うばかりです。

そこでもし、コロナ感染が人為的に操作されているとするならば、こうした国境閉鎖の状況は、若者世代の耳目をふさぎ、世界の何たるかを実体験すらできない環境に押しやっていることを意味します。加えて、そろそろその成果が見え始めているように、このコロナ騒ぎで、ますます太り始めているのが、IT巨大企業です。すなわち、スマホがもはや自分の手足どころか耳目にすら化した若者世代は、古典的鎖であるマネーに加え、IT技術というさらなる鎖で、二重につながれることを意味します。

 

あおられる恐怖心

さて、その一方、老境期を迎えつつある私自身ですが、別にコロナに限らず、ちょっとした健康上のつまづきが致命的になりやすい“弱者”扱いされる年齢期に入ってきています。しかしその一方、いわゆる健康維持方法という面では、これまでの体験と、その成果がゆえの現在の健康があります。したがって、高をくくる積もりはありませんが、コロナとは言っても、それをインフルエンザつまり風邪の一種と受け止め、それと共存しながら、自分の免疫力を強めてきた実績の上に立つ今日の私の健康状態です。

ですから私自身としては、PCR検査上の陽性/陰性の違いは、あまり意味がないどころか、扱い方ではむしろ危険性をもつと考えています。それは遺伝子の特定配列の有無判定でしかない――しいかも精度の問題もある――技法が、その域を越えてあたかも個人の社会的有害/無害の判定法かのごとくに扱われ、健康問題の名を借りた人権制限の道具にもなりかねないからです。そうした問題に加え、さらに、コロナ感染には、潜伏期間や多数の陽性無症状者の存在といった医学上の診断問題もあるわけです。したがって、PCR検査結果を、論理的可能性基づく要注意者の選別目的に使うのは、理屈は通っていても、人権上の問題も含め、必要を越えた制約を社会に課すことにもなりかねません。新型コロナウイルスの比較的弱い毒性――本年4月のコロナを含む全死亡者数の増加が全国で400人(0.4%)程度――への対応に、経済を窒息させるコストを負ってまで、その感染可能性をシラミ潰しに消し去る必要はなく、人権や経済活動を最大限に生かしたまま、現に発生した症状対応を迅速かつ徹底することで十分処置し切れると考えます。

そもそも、コロナに限らず病気罹患の問題は、基本的に、個人の自己管理に任される健康問題です。そうでありながらこのコロナの場合、誰も責任をとらないような「自粛」とされることはあっても、ひところは盛んに強調された「自己責任」との声が、なぜか、政府からも一言も発せられないのが実に奇妙です。そして事態はそうした日本独特の「空気」醸成に任される一方で、さすがに何かをしている印象作りは避けられず、医学的根拠の薄い唐突な指令を発して不必要な恐怖をあおる結果をまねき、結局、政府自ら社会封鎖を打ち出さざるをえない自縛状態に至っています。これでは、たとえプラシーボ(偽薬)だろうが、何らかのワクチンが出現しない限り、出口なき永遠の密閉社会への陥りです。

世界でも先頭を走る超高齢者社会となっている日本が、幸いにも、このコロナパンデミックを千人程の死者――その大半は老人――で持ちこたえているのですから、国民の「責任負担能力」はそうとう高いと判断していいはずです。それを、国民を無知あつかいし、あらぬ恐怖心で操作するような対応は、被らなくてもよい損失を、国民心理上も経済上も、不必要に拡大しています。そうした迷走したコロナ体験の後に、ポスト・コロナ期がやって来ようとしています。

 

ポスト・コロナ期に備えて

そういう次第で、遅かれ早かれ、これからやってくる時代は、なまじっかなものではすまないと、用心を固めざるを得ない情勢となっています。

そこで、「ニューノーマル(新常態)」と称された「でっちあげられた偽現実」を生きて行く私たちの心構えとして、むしろこの「ニューノーマル(新常態)」こそが非現実で、現実の世界は、私たち自身が自分で紡いでゆかねばならない――これこそが《新リアリティー》となるはずの――ものです。

私は、この自分で紡ぐ行為には《理論》は不可欠と見、そのようにして創造してゆくリアリティーを《人間生命学》と呼ぶ《理論人間生命学》が、いよいよ動き出さねばならなくなってきたと考えます。

そして、そうした創造活動を行うステージを《フィラース Philearth》と名付けて、来月、ネット上でリリースする予定です。

 

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