「自然の摂理」としてのウイルス

ワクチンより、エコロジー体系での共存を

独自サイトの設置準備(その7)

本シリーズでは、コロナ・パンデミックについて、いくつかの設定を敷いてそれを考えてきた。しかし、それでもまだ残されている“極め付け”の設定がある。それは、コロナ感染が正真正銘な《自然現象》――これまでの設定に含めた人為要素を排した純粋な自然現象――として起こっているという設定である。そしてそのために、これまでとは異なったアプローチの枠組みをもってのぞむ。つまり、自然の仕組み――ことにエコロジー体系――は、人類が登場するはるか以前から存在しており、その摂理にそって進化もしてきているはずである。その自然の延々たる変遷上でいえば、そうした人間の作為なぞ、最後の些細な瞬間に生じている微々たる要素にすぎない。だがコロナをその壮大な変遷から見た自然現象とする場合、それに応じた新展望をもたらす可能性がある。今おこっているコロナ騒動のように、世界が揺るがされる度ごとに登場するまたしてもの新標語「ニューノーマル(新常態)」に踊らされないためにも、この設定の効果が期待されよう。

 

「生きもの」同士の関係

この設定は、観察者の視座をめぐる仕掛けにおいて、以前とは異なっている。すなわち、考察にあたっての《構造上の違い》を設け、それがゆえ、観察者にも決定的に違う視界を与える。それだからこそ、まさに「極め付け」なのだ。

これまでの設定では、観察者は観察される場面には属さずそのこちら側にいて、自身は観察の影響からまぬがれていた。しかし、この「極め付けの設定」においては、観察者自身もその観察の視界内に入り、観察次第では、自分もその影響を受けてしまうこととなる。

この《自然現象》との設定はそういう意味をもつもので、今のパンデミックについても、自然現象のうちの一分野つまり生物現象として捉える。したがって、生物つまり生きものの中には、ウイルスをはじめ、細菌も、動物も、そしてむろん、私たち人間も含まれる。

そこで、この「生きもの」同士としてのウイルスと人間という関係だが、それを、人間中心で捉えた概念が「感染」――迷惑で危険な病原体の攻撃――であり、他方、それらの生態的な相互関係として捉えた概念が「免疫」――生命をまもる生体反応――である。ゆえに、「感染」概念では、敵・味方を分ける「戦争」問題となり、「免疫」概念では、同じ世界に属す「隣人関係」となる。

すなわち、「極めつけ」とは、単に順序として最後になったからではなく、これまでの設定とは「質を異にする」ということである。これまででは、言わば、一軒の家にあるいくつかの窓を通して見える違った光景をそれぞれに取り上げていたのだが、そうした方式に対するアンチテーゼなのである。そして、そういう家自体を、その中の観察者も含めて自然現象として取り上げ、むろん観察者の意識もひっくるめて、考察することとなる。

 

二つのエコロジー

こうした考察法については、実は私はその取っ付きには、かつて自分の健康問題を考える中で、取り組み始めていた。そしてそれがひとつのまとまった見解となったのが、12年前に書いた「私の健康観」で、自分の健康を、身体内部および周囲環境の両方からなる二つのエコロジー体系に基づくとしたものだった。言い換えれば、「ミクロのエコロジー」と「マクロのエコロジー」の総合としての「健康」を考えるものだった。

そしてそれを通して、自意識を、自己内部の「ミクロ」のものと、自己を取り囲む外界という「マクロ」のものという、意識の成り立つ二重の構造に気付かされることとなった。そうした経路をへて、その気付きが違った形の表現となったものが、最近になって書いた《映画館現象》という捉え方で、しかも、その見解を著した記事のタイトルは、「地球にパラサイトする未成人たち」というものであった。要は、人間は地球に寄生している“あやしげな”存在というものである。つまり、当初の二つのエコロジー系――ミクロとマクロの各々――を言い換えたものが、片や「映画館の観客」たる自意識であり、他方が「地球環境」に支えられてあるという別の構造に乗っかった意識であった、というわけである。

このようにして、「内から外へ」向かう視角と、逆に「外から内へ」向かう視角という二つの視座を、ひとまず特定することができる。

そうすると、今回のコロナ・パンデミックをめぐる「極めつけの設定」としての《自然現象》というものは、こうした二つの視角のうちの後者、つまり、「外から内」方向のマクロの視角に対応しているものであることが了解されてくる。

また同時に、これまでの設定が「内から外」方向のミクロの視角に対応していたことも分かってくる。

そうだとなると、むろん、このマクロ・ミクロの両方をカバーせずには、ひとりだろうと多数だろうと、人間にかかわるまともな議論にはなりえまい。ましてや、もし、こうした両方向のエコロジー観をもって見れない場合、片やでは、エゴどっぷりの独りよがりを極め、他方では、自らを足下より支える仕組みや自らの存在に盲目となり、時に集団自殺的行動すらまでにも走り出しかねない。

 

人間という地球のウイルス

そこで振り返って見るこれまでの設定なのだが、そのひとつは、このコロナ感染についての「大したことはない」との見方であった。このいかにも大様な態度には、その根拠に《免疫》という人体の働き――なかなか複雑な“キャッチボール”機能――への、体験的かつ直観的な信頼感があったからだった。つまり私は、この免疫という働きについて、上述の「ミクロ」と「マクロ」の二つのエコロジー界を結び付ける情報回路として理解する。すなわち、人間の体はそういう両属的足場をそのように備えているのである。言うなれば、《自然現象》との設定におけるキー概念としてのその役目を見る。

ただし、その免疫について、よくよく考えてみれば、いわば直観的な信じ込みはあるものの、どうしてそう実感できるのか、それが自分の知識として何とも空白域であることを認めざるをえなかった。そこで改めて、この空白領域についての探索を始めることとなった。

そこでなのだが、現在のコロナ禍による種々の制約のひとつに、国際郵便の停止状態があって、日本からの本や雑誌の取り寄せが完璧にストップしていることがある。これが何とも不便で、目当ての本を読みたくてもそれができない。そこでやむを得ず、ネット上で入手できる情報でそれを補っている。つまり、それが私にとっての「テレワーク」となっている。

そこで思うのだが、「免疫」自体が、生命にまつわる「テレワーク」つまり遺伝子という生命情報上の働きに関わったものではないか、とのヒントをもらっている。とすると、私のこの「テレワーク」は、マクロ上の「免疫」現象なのだろうか。

かくして、目下の現実的に可能な方法――国際的かつ両エコロジーをまたぐ「テレワーク」――にもとづいてその空白域を埋めてきたのだが、そこで発見できたことが、冒頭に要約したような、発想構造の切り替えである。つまり、私もふくむ、世界の大勢の知識体系の原則とされてきた発想――マクロとミクロの両面のエコロジーとの見方を欠いている――は、線的で決定論な論理、すなわち、原因と結果が一線上に並んでいて、その一方が決まれば他方も決まるといった思考法であった。言うまでもなく、これが科学的考察の定石ともされてきたものである。それに、これまでの本シリーズの諸設定も、そういう視点でのものと言ってよいだろう。

それが、免疫を考える場合、そうした従来の論理の枠組みでは、そもそも免疫反応そのもの自体が捉え難い。

これは、私の「KENFUKA」発想に沿うものでもあるのだが、「免疫反応」と、私たち人間の「生命活動」とは、相同的な関係とみなせる。つまり、ウイルスと人体の免疫反応関係は、人間と環境の生命活動関係と、規模は違うが類似関係にありそうだ。ある意味では、両者の「切磋琢磨」関係とでも言える。

この発想を、ウイルスの感染問題に当てはめると、私たちの体は、ウイルスを最初から「殺すべき敵」とは捉えず、まずはその共存の道をさぐって、時には自らもそのための変化や進化さえもして「切磋琢磨」し合う。

ウイルスは言わば、ミクロ化した「アプリの入ったメモリーチップ」で、それが感染を通じて宿主に入り、そのアプリをダウンロードして悪さを開始する。こういうウイルスと宿主つまり人類の間の情報のやり取りは、何百万年もの人類の進化の中で、常に繰り返されてきたはずである。

これまでにも見てきたように、ウイルスに新種が発生するのは、定説では、ランダムな突然変異による。つまり、どんなウイルスが発生してくるのかは予想も、規模も特定できない。したがって、時には、宿主を死に至らしめる強毒性のウイルスも出現しうる。だがそういうウイルスは、頼みの綱である宿主をも殺してしまう“自滅型”であって、自然に淘汰されてしまう。逆に、もっとも存続しうるウイルスとは、自分の遺伝子情報を宿主に植え付けながら、自分もその中で寄生し続けてゆける“互恵型”ウイルスである。おそらく、この後者のウイルスとの相互――切磋琢磨――関係なくして、現在の人類はありえないだろう(ちなみに、中国というウイルスと相互に切磋琢磨しているのが台湾と見れる)。

そこで今の新型コロナウイルスが、どちらのタイプなのかは気掛かりなところである。しかし、それが――本設定のように――人造ウイルスではない自然現象とする限り、その相互関係は人類にとって何らかの意味ある情報として取り入れられていくはずである。ともあれ、現に過去の人類の進化の途上で私たちに住み着いたウイルスは多数あり、現在も私たちの体内で共存関係を維持し、あるいはすでに人類の遺伝子の一部となって、持ちつもたれつの関係を保っている。たとえば、人間の子宮の胎盤形成は、進化の途中でのウイルスに由来するものであるという。

以上は、自然界のミクロのつまり体内のエコロジー関係においての反応である。これに対し、自然界のマクロなエコロジー関係において見ると、まず、人間自体が、地球に寄生する「ウイルス的存在」――比喩的表現に頼るのだが――とみなしうるかも知れない。そこでは、地球つまり「自然の摂理」が、人間を抗原とみなして拒絶の免疫反応を起こすこともありえる。つまり、人間のもつ毒性の排除である。

そこで目下のコロナ禍だが、それをこうした自然界の免疫反応と考えられなくもなく、そこでは、このコロナウイルスは人間という抗原をアタックする抗体と類推される。少なくとも、そこには、相互の関係として見る必然性があるのは確かであろう。

比喩的論方はともあれ、ウイルスが突然変異する際の刺激――たとえば、化学物質、電磁波、振動、温度など――が環境側にあってそれが影響することは排除できず、いまだ未解明ながら、突然変異体の淘汰以前に、そうした刺激による何らかの方向付けが働いた上での新種の発生も考えられる(だとすると、それを「ランダム」と言ってよいものか)。

今のコロナウイルスが持っている一定の毒性を見ても、それがゆえの人々の恐怖感の発生はかなり人為的操作の結果だとしても、現在の人間社会の危なさ――世界的な差別抗議への火種となっている――を突いているのは、現に今、私たちが目撃している通りである。ウイルス側が悪いのか人間側が悪いのかとの勧善懲悪問題ではないだろうが、ともあれ、相互関係は確かに発生している。

要するに人間は、地球全体なりある地域なりのエコロジー体系にあって、本源的に、そこに適応して生存する――つまり地球に「寄生」するウイルス的存在である――しかないわけで、それが、人間という生命の構造的“宿命”とさえ言える。

 

ウイルスに見習う「健康法」

これはあくまでも自分の体験に基づく私的見解だが、自分が体験的に発見してきたミクロ・マクロの両面のエコロジー存在としての認識から、つぎのような見方ができる。

たとえば、私自身を自然界というマクロ世界の「意識をもつウイルス」だと見ると、このウイルスはどうやら、そのマクロ世界との“平和”的関係をつくるため、意識上ではそれを「健康」という発想でもって、その自らの「毒性」を除去し、相互に有益な存在となるよう努めてきたと言える。その成果やプロセスについては、たとえばこのサイトの「私共和国」の欄に記載されている通りなのだが、少なくとも失敗ではなかったことの証としての、今の健康状態があるのは間違いない。

加えて、現在のコロナウイルスの感染問題においても、そうした自然との「平和的関係」を樹立しているとの自認がゆえに、マスクを着けたこともなくて感染していてもおかしくはないのだが、無症状状態を維持してきている。まして感染についての恐怖感も少しもない(PCR検査も、その必要を感じず、受けていない)。

繰り返しこれは私見だが、今のコロナ・パンデミックからの出口についても、たとえワクチンや薬剤の開発に成功したとしても、それは一時しのぎしかならず、次の新種や変種のウイルスの発生の際には、また同じような騒動を繰り返す、いたちごっこを続けるしかない。むろん、強毒性をもつウイルスの出現はありえるが、その場合はその危険性がゆえに、短期かつ局地的感染に終わり、今のコロナウイルスのような世界的流行までには至らないだろう(さらに理論的には、感染の中間宿主――なんらかの動物――をへた超毒性ウイルスの発生が人類に大惨事を与える可能性はある)。

つまり、このコロナの場合、その終息は結局、いかに事実上の全員が免疫関係――環境との「平和的関係」――を樹立できるかどうかにかかっている。つまり、そういう耐性あるいは“発展”性ある《健康な国民》をどう作ってゆくかの国家政策の問題である。そういう出口にいかに早く到達できるのか、むろん、一年や二年の問題ではないだろう。

ちなみに、今、アメリカに発し、世界を震撼させている人種や性や階級による差別への抗議の嵐についても、アメリカなり、広くは人類なりが、過去の歴史において、どれほどに「悪性ウイルス」としての行為を重ね、問題を自作してきたか、そういう人類の歴史上の「毒性」の“むくい”問題と考えるのも、あながち的外れではないだろう。

 

最後に、これまで7回にわたって、新型コロナウイルスのパンデミック問題について、いくつかの設定を置きながら考察してきた。それを一言に要約すれば、ミクロ(前回まで)とマクロ(今回)の「両方向性をもった諸設定」であった。そして、今回のマクロ面の設定を通じての「自然の摂理」への到達をもって、一連の「コロナ考察」はなんとか決着しえたのではないかと考える。

というのも、この「自然の摂理」へのフォーカスをもって、言うなれば、地球を包囲する宇宙という第三のエコロジーへの視野が開けた感があり、それこそ、「越境問題への展望」の足掛かりをえた心境である。すなわち、こうして、このシリーズの副題である「《理論人間生命学》立ち上げ準備」は、ひとこま進めたようである。

これはまったくの偶然だが、この「両生空間」も No. 300 と言う区切りのよい節目にも達している。そして「理論人間生命学」をテーマとする新サイト――フィラース(Philearth)」と題することにした――が間もなくリリースできそうにもなってきている。お楽しみに

 

【追記】参考リンク:「泣いて生まれてきたけれど

 

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