「恐怖心の植え付け」と「超法規的手段」

コロナ騒動 二つの隠れた狙い

独自サイトの設置準備(その6)

今回もコロナについて考えるのだが、議論を進めるにあたって二つの設定を置きたい。ただし、この設定には、余りに極論だとの異論があるはずだ。しかし、そもそも設定とはそういうもので、そういう条件をあえて与えて考察の位置を明瞭にし、議論をより精密にするためのものである。そして結論では、そうした設定から得たものと、その設定のないものとを見比べ、私なりの見解を見出したい。

まず、そのひとつ目の設定とは、世の大勢に反して、その感染による危険性について、それは「大したことはない」というものである。ことに、それを「致死的感染」とするのは過剰反応で、そこには可能性として「恐怖心の植え付け目的」を疑うべきものがある。そしてその恐怖心がゆえの、感染制圧のための経済活動の停止と、その結果の「生活破壊」までもが容認されている。すなわち、感染の危険度とその対策による社会生活の制約度に、アンバランス――平たく言えば「コスパ」の悪さ――がある。

二つ目は、さらに、この過剰反応は意図的とする設定で、その目的が、世界の投資家にとっての投資効果の確保、拡大にあるとするものである。それは、片やで世界の実体経済の行き詰まりがあり、他方でじわじわと進む企業活動の社会的責任を問う締め付けが広がるなどの収益環境が変化しており、そうした流れを変えるために、むろん「資本の論理」に立った、《超法規的効果》が期待される手段としての疫病利用とするものである。次元は違うが、そうした感染対策にあたる政府にとって、疫病の恐怖は、国民を従わせるには都合よく働く。

 

コロナはインフルエンザの一種

第一設定である、コロナの感染は「大したことはない」というのは、言い換えれば、コロナは言わばインフルエンザみたいなもの、との認識である。(これは、私の実感でもあるのだが、おそらく世界の大半の未感染の人たちの実感だろう。そして、それが誤りと言うなら、どう誤りか、コロナの正体をはっきりさせてからにせよ、となる。)

コロナ感染を個々のケースで見れば、もちろん重篤な場合には死亡もあり、近親者には耐えがたい問題にちがいない。だが、ある社会にとっての危険をどう管理するかにあたって、極めて実務的に言えることは、まれなケースをもって全体標準にするような過剰対応をとる国はどこにもないということである。

たとえば自動車事故。それには死亡ケースもあるが、だからと言って、自動車運転を禁じるような国はない。私たちの社会は、まれな危険に対しては、一方で、安全ルールを周知徹底し、他方で、必要十分な救急体制を備えて効率的に対応している。そして誰にも自主的な自由裁量が許され、事実、それで社会が動いている。

コロナに関しても、その程度の低い死亡率からして、死亡やまして感染をゼロにするまでの対応をするのは合理的ではない。その社会の構成員には有効な衛生行動が任され、それでも発生した重篤な患者については、相応な救急対応を用意しておく。それで充分であろう。

 

上記のような「常識」が、このコロナの場合には大いに「常識」ではなくなっている。(むろん、その当初、コロナの正体が解らないままで対応しなければならない事情はあった。それにしても、その解明が、後述のように、意図的に遅らされているふしも見受けられる)。そもそも、世界のコロナの感染死亡者数が40万人弱程度のというのは、経済を大規模に停止までして対応しなければならないほどの高い数値ではない。むしろ、その対策の結果の経済収縮によって発生する、15パーセントとも20パーセントとも予想される失業の方が、現実にかかえる問題として、はるかに重篤な産物だ。

くわえて、感染死亡者というそうした数字の大半は、私のような高齢者の死亡数であり、こういう言い方には毒はあるが、コロナがあろうとなかろうと、このくらいの期間中に、何らかの死因に分類されて、いずれ旅立っていった人たちを含んでの話である。つまり、人間社会に死は――誕生と同じく――つきものであって、この40万ほどの数は、統計上のノイズのレベルである。ちなみに、世界の毎年の死亡者数は約6千万人、うち1.5千万人が餓死者である。40万は、その全死者数の0.7パーセントにすぎない。

また、そうしたコロナによる死者規模をどう見るのかだが、たとえば、アメリカでは、同死者数がベトナム戦争での戦死者数を上回ったとの、数字上、コロナをベトナム戦と同列あるいはそれ以上との扱いをする見方がある。だが私は、そうしたコロナ死者数の多くを占めているはずの、差別されたその多くが黒人である「ストリートピープル(路上生活者)」たちの死が、普段ならその存在さえ無視されているのに、こういう場合に限って勘定に入れられ、山と並べて埋葬される映像まで添えて流されて恐怖演出の材料とされている。こうした偽善以下のご都合主義に注目したい。だからこそ、現在、アメリカのほぼ全土に広がっている人々の抗議行動が大嵐となり、アメリカを震撼させているのではないか。

だからこの設定では、この新型コロナを、従来のインフルエンザ並みの危険度とする。その場合、入院者も病休者もまれに死人もでるのは確かだが、しかし、経済を停止するようなことにはならず、ほとんど日常茶飯事の出来事として扱われるはずのものとなる。

したがって、そうした数字の過大注視を、むしろ、それによる「恐怖心の煽り行為」ではないかと疑る。そして逆に、その影で看過される失業に目を配る。失業する人たちが世界の労働人口の15とか20パーセントといえば、ほぼ10億人規模の話である。だからこそ各国では応急の資金支援措置が取られているのだが、そうした膨大な数の人たちが、支援期間を越えても、失業が続き、さらに生活に困窮する苦難に陥れば、扶養家族や、ひいてはその地域社会をも巻き込むはずだ。失業によって発生するそうした膨大な困窮と、そうした人々の明日から将来への長い影響を考えれば、その損失はその社会にとって計り知れない。それこそが、いま「コロナ不況」などと言われはじめて、現実となりつつある。

すなわち、今日のパンデミックへの世界での取り組みを見れば、そのお題目と結果の現実との間には甚大な不釣り合いがあり、感染性自体が――その正体解明は情報戦の餌食とされたまま棚上げ状態――あたかも大疫病かのように過大視される中で、その対応が進行している。これを、何らの意図も含まぬ自然な発展として見るのはあまりにナイーブだし、後述する第二の設定のように、それが人為であるとするなら、まさに「やった者勝ち」の、まるでしたい放題の許容ともなる。

繰り返すが、コロナの死亡者は、世界中で40万人弱、日本全体で千人未満である(日本の年間死者数は130万人なので、割合にして0.07パーセント)。それも、自然死とも見れる老人の死を含む、その程度でしかない流行を抑えるため、それでなくても弱体化している経済をも窒息させてしまう判断とは一体何なのか。ハエ一匹を殺すのに大砲を用いるようなもの、と言えば大げさか。

もしそれが正当化されるとするならば、日本の自殺の年2万人、ガンの38万人の死亡数はどうなのか。その予防のために、経済の犠牲などが議論されたとは側聞すらしていない。

そういう意味で、今度の「コロナ危機」とは、「騒ぎ過ぎ」状態は明らかで、感染危険度と対応効果度の均衡を欠いた対応が多くの国に見受けられる。つまり、コロナ感染は人為的と見るべき理由は大いにあるのだ。

そこでコロナが人為的となるならば、二大国アメリカと中国が、世界への影響力のもっとも大きい国として焦点とされ、前者は世界モデルとしては旧式と引退へと誘導され、後者はこれからのモデルとして着目されて、世界の耳目を集めて、時代を人為的に捻じ曲げる光景が日々繰り広げられるのもありえる話だ。

かくして、世界は、みごとに「はめられている」。そしてそれに気付いた人たちが、片やアメリカで全土的な抗議を繰り広げ、片や香港では、握りつぶされる危機感からの必死な抵抗が試みられている。また後述のように、世界のいくつかの鋭敏な国々が、独自の対応で、それを回避しようとしている。

 

「資本の論理」の第二面

さて、そこで第二の設定――《超法規的効果》としてのコロナ利用――なのだが、前回までにも繰り返し論じてきたように、「資本の論理」は、そうした思惑や作為を実行する「確信犯」として指摘しうる。しかもそういう「資本の論理」は、もはや不可視の存在として隠れているどころか、今や、もっとも巧妙かつ徹底し、あらゆる手段をこうじて、私たちの身辺に忍び寄ってきている。そういう文脈で、それの第二面が注目される。

つまり、「資本の論理」に関し、上の考察の「騒ぎ過ぎ」を演出し操作するという、スパイもどきの実に巧妙な意図を考えないでは、今日の世界の出来事の説明は不可能である。ましてや、通り一遍の奨励事項――「ソーシャル・ディスタンス」や「リモート・ワーク」――なぞ、危なっかしくて、額面通りには信用できない、というものである。

そういう視座に立って、「コロナ危機」から「コロナ後」への移行を冷静かつ公平に観測すれば、コロナ・パンデミックへの上記の過剰反応が作り出している結果には、あきらかな深い明暗をなす亀裂の形成が見て取れる。そして、その不自然な結末をいかにも当然とするかのように、それを「ニューノーマル(新常態)」と呼ぶ、世界の新ヘゲモニーの主導者の勝利宣言が響きわたっているかの如きだ。

つまり、予想される「コロナ後」の特色をあげれば、その筆頭が「コロナ不況」と呼ばれ始めている経済収縮であり、そしておそらく、タイミングを見計らって公表されるワクチン開発成功のニュースであり、そうして誕生するビッグビジネスである。あるいは、すでに慣れ親しまされ始めている、「人には距離をとるべし」という、人の人たることを否定するかのような、無機質な社会の形成である。

こうした変化を、「資本の論理」のもつ、常時見える側の裏面と見れば納得もゆく。すなわち、世界の経済の足手まといな部分を――この超法規的出来事をもって――切り捨て、新たなモデルへと誘導する意図で行われている計画的行為――それは、そう見ようが見なかろうが、もはや現に起こされてしまった事態――との観測である。そして、それだからこその、当初からのコロナ騒動の出現の異様さであった。そしてそれは「コロナ危機」と呼ばれて、世界のリセットが発動されたのであった。

かくして、このコロナがもたらしている事態は、大多数の人たち、つまり、雇われて賃金で生活している人たちにとって、それは耐え難い出来事――真っ先に感染の矢面に立たされ、真っ先に失業の奈落に落とされる――である。だからこそ、片やアメリカでは、もはや、黒人もヒスパニックもそして白人すらも一団となって抗議の声をあげているのだし、他方、中国では、先進IT技術を駆使した大衆徹底監視管理国家――ロボット国民国家――が、あたかも“未来国家”であるかの化粧をほどこされて樹立されようとしている。

 

結論 

以上が、二つの設定――(1)コロナ感染は大したことない、(2)その疫病という超法規的手段の実行――を置いての考察内容である。

そして、その結果として導かれるのは、こうした二設定を外して見たとしても、現実に始まっている、世界の進む方向の意図的誘導である。むろん、この結論が妥当と受け入れられるかどうか、それは読者次第である。そして、こうした世界的企てが、その思惑のままに「新常態」へとスムーズに落ち着いてゆくのか、それとも、すでに始まっているアメリカ発の抗議の嵐に見られるような反発が世界的になるのか、それも今の段階では、まだそのほんの取っ掛かりで、この先の行方は定かではない。

また、コロナの正体についての解明は、当然、急がれ、その進捗状態とそれを根拠の対策についての丁寧な説明が優先されるべきである。にもかかわらず、いまだ途上であるどころか、情報戦の餌食にされて紛糾されるばかりで、有益な結論なぞ期待すらできない。またその一方で、コロナの危険をあおる報道には事欠かず、それに引っ張られた「コスパ」バランスを欠いた過大な行動統制が敷かれている。

こうしてすべてがベールに包まれたまま、まさに9・11に続いて、またしても、あるいはそれ以上の「やった者勝ち」同様の状況が形成されている。人類は、いつまでこの堂々巡りを続けるのだろうか。

ともあれ、事態はまだ途上である。

 

付記

上記の第一設定の見方に立てば、その政策事例としては、スウェーデンの例が上げられよう。というのは、世界の先進国中、都市封鎖(ロックダウン)を取らなかった唯一の国がスウェーデンである。だが、そのスウェーデンが、北欧周辺国にくらべて死者数が数倍多いことから、その対応が誤りであったのではないかと批判されている。ちなみに、6月4日現在、人口約1千万の同国で4542人が死亡している。入手できる資料で、同国のその対応の経済活動への影響の程度は不明であるが、目下、成功例として挙げられることはなく、むしろ、徹底したロックダウンを早期に実施し、22人の死者におさえたニュージーランド(人口約500万)が成功例として挙げられることが多い。

日本の場合、1億2千万人の人口で、約1千人の死者であり、人口比率上は、スウェーデンよりはるかに低く、NZ並みである。加えて、日本の場合、法的禁止ができず、あくまでも自粛に頼った対策であったわけで、結果的に、“成功したスウェーデン方式”とか、“NZ並みな成功”と言えなくもない。

ともあれ、コロナ禍は、一国問題であると同時に国際問題でもある。一国防御に成功しても、貿易をはじめ、国際関係を抜きにした鎖国状態では、長期の存続はおぼつかない。コロナは、そうした地球レベルにおいて、既存経済にブレーキをかけている。はたしてこれは、「自然の摂理」がゆえなのか、それとも「資本の論理」がゆえなのか。

 

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