「コロナ」 という “点火装置”

《理論人間生命学》が捉える視界

独自サイトの設置準備(その2)

今、世界を震撼させている新型コロナウイルスについて、「理論人間生命学」の見地からそれを見ると、ある興味深い視野に達する。

このウイルスの出どころが中国だろうが米国だろうが、また、その発生起源が自然だろうが人造だろうが、その世界の憎まれ者は、世界のあらゆる国を麻痺に陥らせるに足る破壊力を縦横に見せつけている。

確認しておこう。ウイルスとは、生物体であると同時に情報体でもある。それは自己繁殖力は持たないが、寄生相手に取り付いて情報を植え付ける。コロナの場合、即座の発症はさせないが二週間ほど身を隠し、その間に密かに感染を広げた後に発病させるとの“戦略”を展開している。その戦略に、世界は、ものの見事に打ちのめされている。

それはまるで、ステルス行動をとるミクロ・テロリストだ。また実際に、極秘に開発された生物兵器との説もある。そして現に米中間では、いずれも身に覚えでもあるのか、その発生源をなすり合うように、互いに「陰謀論」さえ飛び交わせている。

話はきな臭くなってきたが、ウイルスが生物と情報の両面性をそなえた媒体であることは注目しておくべきである。私たちの世界が、豊満な物質社会に終わらず、高度な情報社会に至ってきているのは事実である。そこに、こうしたウイルスの両面性がその威力を発揮できるいっそう適した環境が生じてきている。

世界には、多数のウイルスが存在しているらしいが、その情報体部分がまた、所与の環境に反応して様々に突然変異しているらしい。したがって、あたかも人間の使う秘密情報をも解読するかのような突然変異も――たとえ偶然としても――ありうる。そうして、現代社会の隠された面にさえ付け入る特性を備えた変種すら出現し、あらゆる攻撃を想定しているはずの米空母すらもノックダウンさせる、まるで容赦のない“わるさ”を展開している。

そういう意味では、新型コロナウイルスは、今日の人間世界の虚偽や見せかけをあばく、苛烈な告発者、と見れなくもない。

現に、すでにコンピュータ界では、悪性ウイルスがはびこり、多々のシステムの脆弱性を露呈させている。むろん、自然界のウイルスは、二十世紀初頭のスペイン風邪のように、情報化社会以前の世界でも流行しえた。しかし、新型コロナウイルスは、今日のそのパンデミック状況から判断して、情況に最適に進化した特異なウイルスであることは疑えない。

今や、安全保障界では、サイバー戦争は最もホットな現実的想定であり、そうした時代認識があるからこそ、上記のように「陰謀論」をもって交戦し合う、国家間の情報戦論すら俎上に上ってきているわけである。

 

そこでなのだが、こうして「陰謀論」との言葉が時事用語として登場してきている今、その「陰謀」について、以下、少々、踏み込んで触れてみたい。そして、私が「理論人間生命学」と、「理論」の用語を冠した呼称をどうして使うのか、そのひとつの理由についても述べておきたい。

私は、この「陰謀」という言葉について、それは、世界が情報時代に入ろうとしていたそのとば口で、ある狙いをもって意図的に使われ始めた“新定義語”である、と理解している。

それは、ことの性質上、明瞭な立証は困難であるのだが、1963年のケネディー米国大統領暗殺事件の捜査の中で、浮かび上がってきた「CIA犯人説」に対し、むろん同諜報機関の企てだろう、それをあからさまに否定するのをあえて避け、むしろ煙に巻くかのように、その説を「陰謀論」と呼び始める新論調がメディアに流布され、やがて定着して行ったことが真相である。少なくとも、そう推論される。

むろん、それ以前にも「陰謀」という言葉や行為はあった。だが、それはシンプルな意味合いしか持たず、闇の内に実行される秘密工作とそれを他者の行為として事後宣伝する、一連の“古典的”策謀行動のことであった。

それが、メディアの高度な発達によって、その世論操作力あるいは対論破壊力が注目され、この「事後宣伝」部分が、ソフト作戦つまり情報武器として独り歩きして使われるようになった。そこで、敵対側の論調に対し、メディアを駆使して「陰謀論」と宣伝を繰り広げ、それを“無力化”することが図られるようになった。

また、ややこしい話だが、相手側も、敵からそう攻撃された場合、その反撃として、「逆陰謀論」を流してその逆無力化を図ろうとする。今日の、コロナウイルスの発生源をめぐる米中間の応酬も、この「陰謀論」と「逆陰謀論」の実例とするのが正解だろう。それに加えて、中国はコロナ禍の先行終息をもって自国の世界的先進性を標ぼうし、他方米国は中国発のその感染の“世界輸出”の責任論を展開し始めている。

一方、ことをさらに複雑にするのは、意図的に流されるそうした虚偽の宣伝の応酬に関し、その全貌を暴こうとの観点から、自ら「陰謀論者」を任じ――つまりそう泥を塗られることも想定――さえして、自論を「対抗言説」と呼ぶ論調を展開している「自称陰謀論者」もいる。

かくして、ことが一旦、こうした手の込んだ情報戦に入ってしまえば、部外者にとっては、それこそ、すべてが霧の中に隠されたも同然で、その真実は知りようが無くなってしまうどころか、そのもつれ合った不毛な遣り取りに辟易させられて、真相解明の意欲すら減退させられかねない。もちろん、こうして、敵はおろか味方すらはぐらかしうる効果が、情報戦武器としての陰謀論の使用価値である。

ちなみに、9・11同時テロ事件なども、さかんにその「陰謀論」と「逆陰謀論」が激しく交わされた実例であった。だが、結局、真実はうやむやに葬られ、なし崩し的に、その跡地には「テロ犠牲者」を悼むとする記念碑が建てられ、もくろみ通りに収拾させられているとの感を、世界の多くの人たちが抱いている。

 

今日、世界にはこうした情報戦が交錯、蔓延しており、もはや誰しも、その影響からは逃れられないかの如くである。

私が「理論人間生命学」として「理論」を冠した体系を提唱するのは、そうした狡猾かつ強引な《うやむや化》――即ち、操作や破壊のやりたい放題――に対し、何とかして、その霧中に自らを失わない、確かな視界を保ちたいとの動機からである。そしてそれには、普段からの、ちょっとした手掛かりを敏感に見逃さない、自らの検知能力の鍛錬が必要だと思うからである。

したがって、私が「理論」と呼ぶものは、自分の体験の上に立たなくては意味をなさない。だからこそ、受け売りの理屈に頼らない――「KENFUKA」とはそための微妙な活用法であった――、あるいは、陰謀論等をめぐる情報戦に没しない、実用上最大に信用に足りうるとする手法である。すなわち、自分自身を、あるいは、自分の毎日を、さらには自分の人生を、実験として観測し、何に気付き、何を発見するかにかかっている。

そして、最終的に選び抜かれた観測結果――即ち、実験を通じたエビデンス――を体系としたものを「理論」と呼んで区別し、それを、「うやむや化」に誤魔化されない、自分の考察の糧としようとするものである。

したがって、それは結局、人の数だけ「理論」があってよいということとなる。そういう多様性を認めながら、実用面では、共通し合う部分で、協働、共闘してゆけばいい。その逆――つまり権威理論による個の支配――は、まるで不毛で、誰かの思う壺である。

 

以上のような当「理論」の見地に立って眺めれば、新型コロナウイルスは、厄介者であるどころか、人類が、これを契機に何を選択してゆくのか、その極めて根本的な変化の「点火装置」のごときである。

そして、少なくとも今のところ、その判断は、以下の二極をめぐってのこととならざるをえない。

そのひとつは、このコロナ禍とはもともと、それ程に騒ぎ立てることでも、そんなに多くの死者や経済的打撃を出さなくてはならないほどのことでもない、私たちの健康維持に関する一自然現象にすぎないのかも知れない。

それともそれは、最も先端を行く今日の生物/情報戦であり、医療と経済にまつわる緒議論と実務が展開された後、最終的には、再度の「テロ犠牲者」記念碑のごとき“戦後”新体制などを生んで、歴史の新ページとされることなのかも知れない。

ともあれ、どのように推移するのか、この先を見守るしかない。

 

 

 

 

 

 

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