きれい好き日本

話の居酒屋

第六話

 

今度の日本再訪で、改めて驚かされたことがあります。

それは、よく言われるように街にゴミが落ちていないだけでなく、山にも、まったくゴミが落ちていなかったことです(山行きの詳細は「第五話」へ)。

道端には、ゴミどころか、きれいな霜柱が

今回、いずれも3泊4日の縦走を、秩父と北アルプスでおこなったのですが、そのどちらでも、山道に本当にゴミがひとつも落ちていないことです。(たった一つの例外は、おそらく、ザックから気付かれずに落ちたのでしょう、飲みかけの水のボトルを見つけたことだけです。)

先にこの第二話で、サッカーサポーターの行儀のよさのことについて書いたことがありましたが、そんな行儀のよさが、山の中までにゆきわたっている、そんな徹底ぶりなのです。

昔、私が若いころ、山には捨てられた飲み物の缶やら食べ物の包装など、いわば当然のことのように山道のあちこちに捨ててありました。そしてその後、だんだん、ゴミの持ち帰りの習慣が広まってはきていましたが、これほどに徹底されるまでになっているとは、正直いって、オドロキなのです。つまり、それがマナーだとは言っても、とかく世の中には、マナー破りはいるものです。それが、そんなマナー程度のことではないようなのです。

 

そこで、会う人ごとに、そんな日本人のきれい好きについて、それはどうしてなのかを聞いてみました。

誰もが触れたことは、日本人のいわば他者からの視線を気にする習性で、自分からの自発的な行動というより、他者からとやかく言われたり、見られたくないという、出っ張ることを避ける独特とも言うべき習性です。

これは、空気を読む習性とも同根のものなのでしょうが、例外者になりたくないという均質性志向は、よく言われる、米作の伝統に培われた農村共同体意識の名残りとされるものでしょう。

それに関連しながらもっと宗教的見方が、身を清めるといった、神道にまつわる精神的な起源があります。八百万の神の住処である自然環境に、一種の禁忌として、汚してはならないとの発想です。

あるいは、学校教育の効果であるとの見方も多く、その意味では、教育された自動的行為、あるいは、叩き込まれた受け身な習性としての行儀の良さです。

また、家の中では履物を脱ぐといった、清潔なところと不潔なところを、家の内外で区別してきた習慣が、町や自然についても、自分にとっての内側といった感覚がある、というものです。

それにしても、なにがその原点なのかという点では、どれもこれもが、互いに絡み合っているように見受けられます。

 

以上、いろいろな見方があったのですが、いずれも、それなりの理由は指摘していそうです。

そうなのですが、私には、それがともあれ、そこまで誰にも徹底されている、一糸乱れぬ行いが、あえて言えば、ちょっと気持ち悪い感じを否定できないのです。

それとも、それくらいの水準はたやすくクリアーして、もっと先へと進みつつあるのでしょうか。

まあ、そんな日本でも、汚く、汚れた場所はまま見られるわけで、私が出会った場所は、ある種のモデル的な片端だったのかも知れません。

むろん、それが悪いことでないのは言うまでもありません。

 

 


【まとめ読み】

第一話 料理は身を助ける

第二話 「うら、おもてなし」

第三話 上の口と下の口

第四話 「粒子」と「波雄」

第五話 秋の日本へ

第七話 道路と鉄道って、別々でいいの?

第八話 ダブル偶然おひとりさま

第九話 人にある男女の調和

第十話 新旧「君たちはどう生きるか」を体験して

第十一話 えっ、「発達障害」? 俺だって

第十二話 「年寄りの冷や水」しようぜ

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