上の口と下の口

話の居酒屋

第三話

同じ口によるコミュニケーションにも、本連載の第一話のように、味覚を介するものと言葉を介するものという二種があります。しかし今回は、同じく口によるコミュニケーションでも、別の口を使ったコミュニケーションです。

この「別の口」とは、居酒屋談らしく下ネタに絡んでいて、男が持たない何とも残念な口のことです。そこで男同士の隠語では、それをただ「上下」と区別して暗示したり勿体ぶったりする、その「下の口」のことです。

言うまでもなく、このコミュニケーションとは、味覚や言葉という情報をやり取りするそれではなく、本来、生殖行為としてのそれです。あるいは、最近の先端生物学の分野で言えば、遺伝子レベルの生命情報上の交換とも言えます。

 

もちろん男は、その下の口を持たない代わりに、これまた下ネタ話で言えば、その口が食しそれに食させるものを持っており、男たるもの、女には上下両方の口を満たさせねばならぬなどと思い込み、いかにも誇らしげに、自分の役目に没頭することとなります。

こうした、種の保存をミニマムとする、生殖行為をめぐるこもごもについては、それを述べ始めればそれこそキリがなく、世界のあまたの物語のおそらく大半がそれにまつわり、人間の興じる楽しみも、これまた大半がそれに通じていると言えましょう。

そうしたネタの尽きない話題なのですが、ここではそれを、すっ飛ばさせてもらいます。というのも、いまやもう、そのおめでたく、ネツイ盛りの季節を過ごし終え、種の保存に役立てる機会を逸した者としては、むしろ、秋から冬の季節を体験し始めている自らについてをこそ、話題にしたいと思うがゆえです。

 

そこでまずはじめは、その余りにも生々しく、危なっかしくもあった盛夏の時期が過ぎ去って、正直、どこかほっと安堵している自分が実際にあることです。

ただ、かつて出来たことが、しだいかつ微妙に、あれもこれもと出来なくなってきている移り行きについては、それはもちろん、寂しさを伴っているのは言うまでもありません。

それにこの移り行きは一朝一夕にして起こるものではなく、季節のそれよりはるかにウロウロしていて定まりなく、いつまでも未練を引きずっているのも確かです。

そうではあるのですが、ともあれ種の保存の行為を曲がりなりにもまっとうし、それに付随した、社会だの、家庭だの、カップルだのといった責任と重荷から、ようやくにして放免されたかのこの秋であり冬である季節を、けっこうな驚きも含め、なにはともあれ、じっくり賞味したいのです。

 

と言うのも、その生殖行為としての男女関係が彩った季節が過ぎ去る一方、その他方においては、生殖的な生産には結びつかない、その心的な関係がかもし出す、これまでにはない味わいの立ちのぼりがあります。

これは、若い時期にはまったく予想すらできなかったほどに、なかなか大人しやかで滋味深く、かつ新鮮ですらあるものとなってきています。

かりに、生殖的行為を物的と表現すれば、それは、人情とか信頼とかあうんのキャッチボールといった、非物質的で情報的なやり取りです。それは姿形を持たないものであるだけに、夏の季節のあのギラギラとした激情とは、まさに対極のものと言えます。

 

ただ、それほどに予想外で新鮮でさえあることにつき、その賞味を行う日常的実践にあたっては、それを若い世代に依存して行うとなれば、そこに伝統に習う面はあるとしても、彼ら彼女らの負担は少なくなく、時に迷惑でもあることです。そして今風には、老人世代の身勝手として反発すら招きかねないものとなるでしょう。

そこでなのですが、老いも若きも全世代からなる社会システムを念頭において言えば、それを単に「依存」とは断言しきれないところがあります。つまり、そうした老人たちとて、過去においてはその現役時代を果たしていたのであり、懸命に働いてきたのは今の現役と違いはなく、それなりの社会的貢献と責任を担い終えた末の現在です。ゆえに、そういうシステム――たとえば年金制度――の維持に伴う負担と恩恵の世代間の順送りな融通を、現時点での損得のみで語るのは片手落ちで、各世代にわたる縦断面を通した均衡視を欠いてはなりません。

 

そこでこの「均衡視」についてですが、「上下の口」とやらのお題目には無粋ながら、あえて、少々硬質な話に触れておかねばなりません。それは、そうした年金の負担と恩恵をめぐって今日に見られる、老若世代間の空しい対立や離反です。

というのは、この年金という国民のだれもに関わる社会保障制度について、ことさらに、今の老人世代が若い世代に“おんぶ”していると言いふらす、政治家であり官僚たちの存在があります。そして、もし彼らがそう言ってはばからないのであれば、こちら側には、それは彼らがそう主張して自己防衛せねばならない“スネに傷持つ”がゆえのこと、との言い分があります。

そもそも、原資的に立ち行かなくなりつつあるとするそうした制度の欠陥とは、その設計者であり執行者である歴代政府に一義的責任があるものです。まして、それに従ってきた国民の責に帰されるべきものではないはずです。まさしく、消費者に対して負う製造者責任です。

加えて、政策議論として、人口や年金収支の予測は、天災や政変あるいは金融変動などと違って、偶発的要素の少ない比較的可視的な分野です。にも拘らず、そうして発生させている自らの失政の責任を棚に上げ、年金資金の不足の原因は、あたかも、その年金の(さほど立派な額でもない)受給者側の過大な「依存」にあるかのようにすり替えを公言しています。

このように、国民の間に溝をこしらえ互いをいがみ合わせるのは、〈分断統治、divide and rule〉という典型的な人民支配の定石を実行しているものであって、民主主義政治を掲げる為政者が手を染めることでは絶対ないはずのものです

ちなみに、そうした分断と対立が縦横に深まり、危機的にまで深刻化している実例が今のアメリカ社会で、もはやその修復は不可能かとさえ見受けられます。

こうした、為政者による為政者のための無責任この上ないすり替え議論に振り回されて、国民の間に対立が見られるのは、なんとも不毛で自滅的でさえある顛末です。

そこで、そうした無責任政治を指摘し、国民本位の政治を築き、決して自滅なぞしないためにも、過去と今を知る、老若間の共闘やコラボレーションの重要さを痛感します。

そして、不幸にも生じてしまっている老若間の溝にどうすれば橋が架けられるのか、それを探りたいがゆえの、この硬質な“脱線”です。

 

ともあれ、脱線話は以上に留め、この先は、表題通りに、男女のコミュニケーションについての話に戻ります。

 

そうした折、ネットを逍遥していて、『妾と愛人のフェミニズム』(石島亜由美著)と題する本に巡り合いました。「フェミニズム」なぞと、私の読書傾向にしてはかなり珍しい類の本です。ですが、どこかひびいてくるものがあり、さっそく電子版で入手し、ページを繰り始めたわけでした。

そこでまず、つかみえたこの本の論点を簡略に述べておきますと、一夫一婦制の問題は言うまでもなく、それを批判するフェミニズムですら、同制度が強要する(つまり男の尺度による)女の従属的地位を断ち切れていないとの見方から、むしろ、「妾と愛人」という一夫一婦制の枠外に追いやられた〈らち外存在〉が逆照射する、一夫一婦制のいっそう奥底の問題を探る女性学研究書です。そして同書は学術書であるばかりでなく、著者自身が体験した被差別視やトラウマに起因する、きわめて当然な動機にもとづいた、問題意識の鮮明な人間探究の書です。そうして著者は、ことに日本のフェミニズムがこの先、「妾と愛人」を取り上げてゆくところにこそ、その学としての発展がありうると提起しています。

そういう著者はさらに、最近のインタビュー記事において、以下のように応答しています。

芥川賞作品の『しょっぱいドライブ』(大道珠貴著)――34歳の女と60歳代前半の男とのなんとも取り止めのない同棲暮らしのストーリー――に触発され、また、フェミニズムの最たる論客である上野千鶴子ですら、長年「おひとりさま」を説きながら、二十歳以上年長の妻帯老学者と最終局面では婚姻関係を結んでいた――つまり一種の「愛人」であったという自らの現実に言及できなかった現フェミニズムの限界――とのケースを知るにつけ、だからこそ、この「妾と愛人」をフェミニズムの観点で研究することにいっそうの意義があると述べています。そして、「性的に枯れた男性といっしょになることで、安心を得て、生き延びている」とそれらを受け止め、自分は「老男」に関心があると表明し、「男女どちらも」の「近代の一夫一婦制、性別役割分業、ジェンダー規範でかくあるべしとされてきた価値観からふるい落とされてきたような存在」を、新たなフェミニズムへの糸口にして考えたいと語っています。

この石島亜由美という著者は、1980年生といいますから、今、40代前半です。つまり通例的には、まだ生殖可能年齢圏内にあるはずの女性です。そのようなひとが「性的に枯れた老男」に関心を持つ――つまり次世代生産をスルーして、結果的には昨今の少子化問題を助長する――という発言は、物好きな変人と世俗的に色眼鏡視されることは承知の上どころか、あえて地雷原に踏み入ろうとするかの見解とお見受けし、なかなか異色かつ勇気ある「研究者」あるいは「当事者」発言と思われます。

 

そこでこの「研究者/当事者」という、似たようでいて大いに異なる二つの立場についてです。女性学にうとい私にとって、まず、女性学とは、そうした比較的新たかつ論争的な学問分野での職業性を安定的に供給できる貴重な学術的生産の場とされているのか、それとも、たとえ学問であっても当事者性を重視する社会変革の道具と位置付けられているのか、そうした違いがこの「学」にもあるはずと推察します。

そしてこうした対比の視点で『妾と愛人のフェミニズム』を読むかぎりでは、その当初の動機はともあれ、この「妾と愛人」のフェミニズム的研究成果が、その社会変革の道具とどう結びつくのか、そのあたりの結論が明確には示されていないように――つまり模範的な学術書と――読めます。

そこで私的見解ですが、そのような既存学問の限界があるからこそ同著者は、「当事者性」を追求するひとつの道として、その研究と著作の完成と、遭遇したその職業性の揺らぎに立って、「老男」との関係を採り上げようと試みているのではないかと推測します。

またここに研究者性から当事者性への分かれ目があるとすると、上野千鶴子の終局の“変身”も、それが自らの研究者性より当事者性を現したものであったと見ることも可能です。そして、同著者のそうした両性にわたる〈らち外存在〉の採り上げは、女性学という片方の性に存在意義を定める――つまり全人間性から見れば偏った学問がゆえの(私は、その役割を決して軽視するものではありません)、来たるべくして来た発展であるかと思われます。

 

そこで、そうした「老男」を採り上げる新展望に関し、次のような問いが浮かびます。すなわち、同著者による、「老男」と「愛人」――性的にゼロではないが「希薄」で従来のジェンダー価値観から「ふるいおとされてきた」――という男女の関係への言及は、フェミニズムに新次元をもたらす〈フェミニズムの進化論〉であると言うのでしょうか。それとも、そうした両性の関係は、もはやフェミニズムという片性に視座をすえる学では扱い切れない〈フェミニズムの限界論〉であると言うのでしょうか。

そこでなのですが、この『妾と愛人のフェミニズム』の書から、結婚にまつわる議論より以下のような引用をすることで、この問いに関する、ひとつのヒントを発見します。つまりそのヒントとは、上に述べたような老若共闘/コラボレーションにとどまらない、男女共闘/コラボレーションへのリアルな一歩が読み取れるという、私なりの見方です。

椅子に座るために女性間では激しい競争が繰り広げられ、座れた女性と座れなかった女性との間には大きな溝が形成される。座れる椅子の数には制限があるという分配構造の不公平には目が向けられることはなく、椅子に座った女性はその場所を守るために椅子に座ることの価値を広める伝道者になり、椅子に座り続けることに邁進してゆく。(上掲書、「はじめに」の「研究の動機」より)

私はこのくだりを読んで、もう50年余りも昔、自分が就職の際に感じ、そして、わずか半年でその仕事を辞める決心をした際(このあたりの経緯についてはこちらの「1.食ってゆくジレンマ」を参照)、その私が抱いていた問題意識と同類のものを見出します。というのは、この「椅子」と「座る」という言葉を「就職」と「就く」に、「女性」という言葉を「求職者」と読み替えて、いわゆる身を売ってでも食い扶持を稼がねばならなかったサバイバル目的の自らの立場と、重ね合わせられるからです。

そして著者が、「自分が選択した道(略)を、他者から正しくないとされて一方的に判定されることに深く傷ついたことがあった」と書いているその受け止めと、私が半年で辞めた時に感じたこと――自分が「村八分者」でそれ以降は「人生の裏街道」を歩むみじめな身であったとの感慨――との両体験には、時代上のずれや男女の違いを越えた同質のもの――共に理不尽な決めつけられ――が働いたがゆえのものと読みとることができます。つまり、それがこそ、当事者性であり、足元からの人間性の発現です。

また同著者は、フェミニズムに関心を持った動機についてこう書いています。

私 が フェミニズム に 接近 し た 理由 の 一つ に、「 男性 の 視線 の なか で 女性 が 女性 を 価値 づける こと」 の 暴力 性 を 感じる 経験 が あっ た …(上掲同箇所)

これと同様な観点で、私が抱いたその後の労働運動への関心の出どころを言えば、「雇用主の視線のなかで、自分や同僚が価値づけられ、まかり間違えれば自身によってすら価値づけてしまうこと」に暴力性を感じていたということです。そしてこうした暴力性の共通体験には、男女差別の構造すらを無化してしまうほどの、より大きな暴力、すなわち、社会まるごとそして全人間性を支配し抑圧する関係の存在があるということです。

 

かくして、以上をこの談義の到達点とし、そしてその結びに、大ぐくりな類型化をもって、こうまとめておきたいと思います。

同著者と筆者は、男女を異にし親子ほどの世代の違いを持ってはいますが、共にそれぞれの同年齢期において、同質の体験――自分が時代の主流の中での〈外れ者〉であった――を共有していたことが見出されます。そしてそれは大ぐくりであるがゆえに、男女や世代の違いをも越えた、いっそう根源的な共通性を示唆しています。

そして両者におけるその共通性は、その後の人生において負のモチーフとして働いた点でも共通しています。そしてその「負」の構造を解き明かす道具/武器をもとめ、片やはフェミニズム/女性学へ、他は労働運動をへて自前の「両生学」への道を選び、ともに若き自らの苦い体験に基づいた当事者意識による、新規な実用的体系づくりに関わってゆくこととなりました。つまり、そうして性別的かつ世代的にそれぞれ異なった経路をたどった末に、こうした二つのケースに以上のような遭遇が見られることです。

 

私は間違いなく、一夫一婦制という擬制の片棒をそれなりにかつぎ、かつがされてきたその共犯者のひとりです。そうした私が、自分の結婚とその行き詰まりの原因をおしはかり、そして老年にいたって、過去にしてきた体験や思いを振り返りつつ、自分の生きてきた時代への異様観をぬぐえない境地に達している時、この次世代のしかも女性による著書に巡り合うことを契機に、老若/男女の二重の分断を越える架橋、すなわち、縦横の共闘/コラボレーションへの手掛かりを見出したかの、新しい一つの可能性を見始めているところです。

 

最後に、またしてもの脱線ですが、この「上下の口」談義のお開きとして、上の「おひとりさま論客変身騒動」の我流解釈を試みてみましょう。

そこで思うのは、その「おひとりさま」とは、「結婚しないおひとりさま」のことではなく、「子なしというおひとりさま」との意であったようです。そう解釈すると、一部メディアによる、少子化問題に沈黙している割りには鬼の首を取ったかの騒ぎとつじつまが合うし、いっこうに上がってこない出生率にしても、それは二重の分断差別が引き起こしている国民的リベンジ効果であって、「子なしおひとりさま」論への賛同が事実として減っていないことの現れであることが判ります

 

―― さてはて、当話はまたしても、居酒屋談義にはちょっと馴染みにくい、辛めな口当りになってしまいました。でも、まさか悪酔いはしないと、心底、思っています。

 

 


【まとめ読み】

第一話 料理は身を助ける

第二話 「うら、おもてなし」

第四話 「粒子」と「波雄」

第五話 秋の日本へ

第六話 きれい好き日本

第七話 道路と鉄道って、別々でいいの?

第八話 過去と今時の性事情

第九話 人にある男女の調和

第十話 新旧「君たちはどう生きるか」を体験して

第十一話 えっ、「発達障害」? 俺だって

第十二話 「年寄りの冷や水」しようぜ

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