「発達障害」だなんて、なんともグロテスクな言葉が横行し始めていると思わされています。その多くはまだ子供について、まるで「お前は問題人間だ」と断定し、人としての尊さをまるまる抹殺してしまうかのような用語です。
また、その毒気を抜くつもりなのか、「自閉症スペクトラム障害」などといった、いっそう手の込んだ類似語も使用されているようです。それもその長たらしい字面が面倒なのか、「ASD」(フルスペルは、Autism spectrum disorder)なんて英語略称を使って。
――今回の居酒屋談は、そんな現状にご立腹のお年寄りのご託です。
これは、いずれも精神医学分野の専門用語が一般社会にも流れ出しているということなのでしょうが、そもそも、その医学分野が人間の精神というもっともデリケートな要件を扱うという認識が十分深いなら、こういうことには至っていなかったかと残念に思わされる事態です。そして少なくともそうした特殊用語は、対象とされる人についての診断に用いられるべきではなく、研究分野に限って使う内輪の用語としておくべきです。まして、それを使わなくては説明できないというのなら、それはまだまだ研究不足ということなのではないでしょうか。
確かに、学問の手始めは、まず、対象要件への命名やらその分類から手が付けられるといった手順は、一般的にはあるかと思います。しかしそれはほんの初歩の入口段階のことです。
そして上記の用語も、そうした必要による症状分類上の――必ずしも因果関係は表していない――タームではあるようですが、例えば動物学や植物学といった分野では、そうした手順に人間への弊害はなかったのでしょう。しかし、こと精神医学については、それは人間相手のことで、そう分類されてしまう本人がいます。野山の動植物ではありません。
私なぞの年寄りにしてみれば、「氏(うじ)より育ち」ということわざを耳にしてきて、〈人間の形成に大事なのは家系や血筋よりも教育や環境〉といった見方に、より事の真実を感じてきています。
そういう人間の知恵や経験をかえりみれば、そうした――問題を短絡するかの――現行専門用語を持ち出さなければ患者の治療ができないというのは、どこか使命を誤認しているのではないかと思わされることです。
ところでこれはやや古い話ですが、1980年代初め、私が職業病としての過労自殺の問題に関わっていた時、当時の精神医学界のしかもその重鎮の医師の判断に感心させられたことがありました。
それは、私たちがその業務上関係の立証の際の壁となっていた職務の質に関わる過重さの判定に当たって、「了解関係」というよく研究された専門用語――単に異常に長い時間外労働との基準などではない――を使って、〈通常の人間であるなら至って当然であろう発症に該当する〉との専門見解(最終的にその見解をまとめてくれたのは都立松沢病院院長)を公けに表明したことです。
その結果、そのケースに業務上認定が下されました。そしてその後、産業界では、従業員に精神的に過重な職務を課していないかどうかの責任が問われる恐れが生じたため、企業内の産業医への精神科医の採用が広がったとの話を聞きました。
これは私的見解ですが、当時の日本では、精神科医は医師の世界でも辺縁な存在でしかなく、その職業的機会は限られており、まして企業への採用なぞは無に等しい時代でした。
それから40年余りが経って、精神科医の環境も大きくことなってきているのは確かでしょうが、人間の内面相手の職業との役割は変わっていないはずです。
人間の内的特質の片寄りを短絡して「発達障害」と診断するのなら、私だって大なり小なり「発達障害」ぐらいある患者のひとりです。しかし、それをそうとは見ないのが、社会にある多様性であり包容性というものです。
【まとめ読み】
第一話 料理は身を助ける
第二話 「うら、おもてなし」
第三話 上の口と下の口
第四話 「粒子」と「波雄」
第五話 秋の日本へ
第六話 きれい好き日本
第七話 道路と鉄道って、別々でいいの?
第八話 過去と今時の性事情
第九話 人にある男女の調和
第十二話 「年寄りの冷や水」しようぜ