「年寄りの冷や水」しようぜ

話の居酒屋

第十二話

生成AI(Copilot)による画像

今回の場所は、居酒屋というよりレストランバーのようです。

いわゆるハッピーアワーでもけっこう早目の、昼食時を外した比較的ゆっくりできる時間帯に、お二人のリタイア世代が久しぶりに会って、遅目のランチをとりながら歓談中です。

そしてやはり、共通の話題の筆頭は、何といっても、互いのカラダのことのよう。

◇   ◇   ◇   ◇   ◇ 

「やあ、お互い、健康そうで願ったりだ。」

「われわれ、同年齢中でも、元気さでは上を行ってる方だね。そう思わないか。」

「同感だ。」

「それに君はスポーツジムのメンバーなんだろう。僕はどうも、機械相手の屋内での運動が苦手でね、それでジムってのには、なかなか気が向かんのだが、、、」

「住んでる場所がら、適当な運動の場がなくてね。それに手っ取り早く機能的にやれるようには出来ていて、もうメンバーになって長いよ。」

「僕の住んでるあたりなら、まあまあ自然も残されていて、やっぱり外での運動が気持ちいい。それに料金もかからない。」

「ともあれ、お互い、歳を食えばくうほど、運動のありがたみが身に染みて判ってきているってことかな。」

「そういうことだね。それに僕なんかは、運動をもう、新次元の仕事だと考えているよ。」

「ん? 新次元のシゴト?

「そうだよ、シ・ゴ・ト。確かにリタイアはしてるが、無職だとは思ってないし、そう見られたくもないって感じの〈運動という名のシゴト〉だ。むろん収入にはならん仕事だが、おかげで健康で医療出費節減との収入効果をもたらしているのも確か。そして何より、金では買えない健康という、掛替えのない報酬が得られる働き方への従事さ。」【注記

「いわゆる再就職なんて話じゃないわけだ。こいつは面白い。これが本来の仕事ってことかな。そういえば、今の若者たちの進んだ部分では、仕事と健康は両立が当たり前となりだしているようだ。どっちを取るかが問題なんてのは、ショーワの話と見下されているらしい。」

「それに僕の感じでは、年配者でも、運動に目覚めた人は増えてきているね。単に減量目的だけでなく、生活習慣病や認知症の予防の点で、医学的知識も行き渡ってきているのだろう。」

 

「ところで、その運動の推薦なんだが、それをすすめる医者の助言って、後にクレームされるリスクを避けたいのか、せっかくの話に冷水を注ぐみたいな、当たり障りのない無難な言い方しかしないね。『運動は大事ですよ。でも無理をしない程度に』とかなんとか。」

「医者のそういう安住さってのは、ちょっと情けないね。」

「僕は最初、人間そんなもんかと思ってたけど、その後、自分でもう長く運動をやってきて、その体験から得られてきたものは、言わせてもらえば、そんな医者の助言のレベルは越えてきてるね。」

「え、越えてるレベル?」

「運動の真の値打ちってのは、そんな無理かどうかって話じゃなく、自然に踏み込んでしまう、スリリングで越境的なところがミソだって気がしてきている。若い時分なら何でもなかったことでも、いまなら未踏ゾーン。でも、そこに立ち入ってゆくからこそやりがい感が光ってくるし、昔、若気で見過ごしていたことも今だからこそ見えてくる。だから、同じ健康でも次元の違う健康とさえなる。その時の『やったぜ』って感覚なくして、運動の醍醐味なんて考えられない。助言されたメニューをコツコツこなせば済むってもんじゃない。」

「これは確かに、医者の助言する無難運動を越えてる話だ。そう、俺も思うんだが、ジムのインストラクターだの健康診断の医者だのは、ともかく、やたら数字ばかりを出して、その範囲だから良好だの問題だのってご託を並べる。まるで、点数漬けにされている子供たちと同様扱いされてるようで、違和感アリアリだね。」

「ひと昔前では、健康って、病気のないことって受け止めだった。今ではそれが未病状態とかとよばれて、健康状態と区別されるようにはなった。しかし、健康って、それがゴールではないね。健康があって、それでどうしようって、その先があっての話。」

「おー、これはこれは、オソロシク前向きな話だ。」

「ちゃかすなよ。」

「いや、実は俺のジム通いの本心もね、そうやって自分の体をメンテして、好きな山歩きを出来る限り続けたいとのセツボーあってのこと。恰好付けもなくはないが、孫の話に一喜一憂する、かつてのお爺ちゃんなんかに収まるつもりはない。たしかに、あまり高い山は敬遠するが、いったん目指した山の頂上に立った時は、いまだに、『これだ!』って気分だね。」

 

「ところで、『年寄りの冷や水』なんて言い方があるよね。あれって、年寄りが自分から口にすることじゃないね。ことに今時の年寄りなら。だからあれは、取り巻きの連中たちが、まあ心配もあるのだろうが、結局、面倒や厄介事を避けたいための言い草じゃないかなってさえ思うね。」

「でも、そうは言っても、年寄りが無闇に張り切って、大事を起こしてしまっては元も子もないだろう。自制せよとは言わんが、自分の限界を忘れてしまってはいかん。」

「その限界って、とどのつまりは、人はいずれ死ぬ以上の限界はないってことだろう。そして、それは誰しも同じだし、人により生きざまは違ったとしても、死にざまには、自分でもどうしも介入できない。つまり、最後の最後には、何らかの不測の事態にみまわれる。見栄や体裁どころの話じゃない。だから、せっかくの自人生の大詰めなんだから、自粛や恰好付けで迎えることではないんじゃないか。」

「うーん、それはそうだろう。だけどね、誰も最後に醜態はさらしたくないはずだ。これは自粛や恰好付けじゃあない。たとえば、昨今の山では、高齢者の遭難が増えている。自分の実力やら初歩的安全すらおろそかにしたようなケースも少なくない。そういうのと同列にされたくはない。」

「毎年の山の遭難者の平均年齢を調べた統計があるのかどうか知らんけど、それと平均寿命の変化とを比べて見れば面白いと思うな。昔は昔で、山の遭難ってのは若者が起こすことだったし、人もそこそこ早死にしていた。それが今や日本は世界きっての高齢者社会なんだから、その山の世界も高齢化していて当然だろう。」

「じじいも平気で遭難せよってことか。」

「そうじゃなく、いつの時代にも常識外れはいる。だから、それを報道が取り上げてバッシングする。だが、こちらとすれば、むろん危険は承知しているし、しっかり自分の真実を見すえ、それに立って行動し、自分の責任はわきまえた上のこと。そういう態度って、いつの世でもの鉄則だろう。これは、政府の好む、そうしたバッシングを利用した「自己責任論」とは違うよ。それが今では、そういう行動が、年齢をただ暦で数えるがゆえに、高齢帯にもおよんできていることなんだと思う。言うなれば、インフレ年齢現象。」

「なるほどね。」

「たとえば、昔の55歳の定年が、今では70歳にもなり、定年そのものすら無くなりかねない時代だろう。ならば、自分の老後計画や生きざまの実践が、その高齢帯に移って行くのも当然だよ。だから、今の70って、昔の55、いや、それ以下かも知れない。」

「いやはや、納得できすぎる話だ。」

そういう意味で、大谷くんじゃないが、おおいに、『年寄りの冷や水』しようぜ!って思ってるんだがね。」

 

【注記】 これはいかにも作品の「ネタばらし」のようなコメントですが、ここに述べられている越えてる運動や健康意識については、以前に書いた「私の健康観 v.2」に、自己体験的に述べられています。参考までにご案内いたします。

 


【まとめ読み】

第一話 料理は身を助ける

第二話 「うら、おもてなし」

第三話 上の口と下の口

第四話 「粒子」と「波雄」

第五話 秋の日本へ

第六話 きれい好き日本

第七話 道路と鉄道って、別々でいいの?

第八話 過去と今時の性事情

第九話 人にある男女の調和

第十話 新旧「君たちはどう生きるか」を体験して

第十一話 えっ、「発達障害」? 俺だって

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