「私の健康観」 v.2

「四分の三プロジェクト」に関わって

私が「私の健康観」を書いたのは還暦から2年後の2008年で、その要点は、健康とは自分の「内外」のエコロジーの共に良好状態のことで、そのポテンシャルを最大化する「自頼」に焦点を当てようとするものでした。

私の「二周目人生」はいま、それから13年目を迎え、人生ステージも「仕事」を中心に演じられた場は幕を閉じ、まさしくフルにその「自頼」を実践してゆくべき場へと至っています。

かくしてわが人生は、日々への取り組み方が人それぞれに選ばれる、《自創自現》の次元へと移ってきています。

それは先にも述べましたように、自分をサンプルに「実験台」とするとも表現できるものです。

ともあれ、内外エコロジー上のそういう良好状態をなんとか失わずにここまで来られたことに驚きを込めて感謝しつつ、加えてこの健康を、残された歳月を支える何ものにも替えがたい筆頭の資源として、その活用を図るとともに、願わくばその研磨をもって、有終の仕上げのための糧にしたいと考えています。

 

そこで、この「v. 2」の健康観とは、健康を、一般的には、心身から地球に至るエコロジーのすべてが良好か否かと捉えるものです。また、それを私の今の人生ステージに特定して言えば、もしや健康の増進が得られることとなれば、それは「新たないのちの獲得」にも等しいものと受け止めるものです。(なお、「v. 1」以前については「《健康》 という 「年金」」を参照)。

そしてさらに、やがて確実にやってくる「旅立ち」の時を考えれば、それは、その一般的条件のうちの身体条件が尽きる最期の場面ですが、もしそこに何らかの継続性があるものとするなら、それは自分の新たな世界への「第二の誕生」とさえも捉えたいと考えています。

 

そうしたこの頃にあって、いくつかの新体験と出会っています。以下、そのうちの3場面を、実際に生じた「自頼」と「実験台」の実例として述べようと思います。

 

1 

まずその一つは、先日、友人が伝えてくれた評判を頼りに、シドニー市内のある整体師を訪れ、施術を受けたことです。

これまで私は、緊急時には医療に頼る(当然、その安くない民間保険料は覚悟する)つもりはあっても、通常は可能な限り、納得できる我流の関連知識によるその「自頼」の健康判断と対処に拠りたいとしてきました。

そしてその判断に当たっては、できる限りの調べはするものの、むろんそれが完璧である保証はありません。それに、慎重を要する事態にまでは至らずとも、「年のせい」といったあやうい方便で済ませたり、あるいは、そうした「自頼」の中でもちょっと気になる程度でやり過ごしてきた事例などは、数えきれないほどあります。

これまでのそうした限界含みの経過にあって、気付かずに見落としてきた問題も少なくないはずです。

そこで、機会があれば、専門者の目利きによる点検を経たいとは考えていました。

こうしてこの先生にお会いすることとしたのですが、本サイトの「私共和国」にも記録してきているように、日々の生活、ことに運動の際に気付いた支障に、足に起こっているいくつかの問題がありました。

そのひとつが、以前から漠然とは気になっていた足のすねの筋肉の凝りで、水泳の際の足のつりも、どうもそれに関係しているとの感じはしていました。

その一方、運動の際には念入りなストレッチには心掛けており、抜かりはないはずと楽観してきたところもあります。

そして案の定、この初めての施術で、そのすねの筋肉の凝りを第一に指摘されわけでした。

思えば、足のふくらはぎ側のストレッチはしていても、その反対側のすねのストレッチは、言わばほったらかし同然となっていました。

先生によれば、足に起こっているいくつかの問題は、その凝りが血行を阻害しているのが原因だろうといいます。そしてその見立ては、私にも納得のゆくものでした。

さらに先生は、私の健康志向やその実践を評価してくれたうえ、うれしいことに、まだまだ改善の余地は多く残されていると、これまで、とかく悲観的になりがちな事柄の多い中で、ぱっと気分が明るくなるような見通しをもらったのでした。

ところで、話は跳びますが、私とその先生との間には、ある共通性があるように感じ始めています。つまり、その先生がその専門術を身に着けてきた背景と、私がやはり自分の専門領域を切り開いてきた背景との間に、ある種の類似性を発見し、現代における人の生き方についての共通要因を見る思いがしているからです。

というのは、彼は十代のころ、背骨の問題で、ほとんど寝たきり同然で、学校にも通えなかったといいます。どの医者からも見はなされ、とどのつまりで自分で解決してゆくしかないと決断し、勉強して整体師の国家資格をとり、自分への治療を手はじめに、現在までの経験を積み重ねてきたようです。

私にとって、そういう自負いの苦難を動機とする発想や解決法発見の体験は、信頼に値する根拠となるものです。それは、見栄や通念に混濁されたものではありません。金や名声を追い求める俗論とはわけが違います。

合わせて言えば、この先生の動機は、自分の身体上の困難への取り組みを出発点とし、やがて体のバランスと姿勢の歪みを直せば解決できるとの技を身に着け、他者への施術体験を重ねるなかで、そうした「歪み」が、その由来をたどれば、外から、たとえば仕事や生活習慣からきているとの社会性をもつものへと発展してきたものです。

私の場合をいえば、身体上の問題は、子供のころ病気がちであったことを除けば、それほどのものではなかったと言えます。ただ私には、むしろ周囲との心的なギャップが発端であったようで、それが成人してからは、社会システム上の矛盾の発見へと発展し、ある種の理念的な観点を組み立ててゆくものとなりました。

それに私が若い頃は、社会が何かにつけて集団となって効率を求める――大量生産が主流の――時代で、教育まで含めて、とかく集団的発想が基準となっていました。

それが現在では、生産方式も少量多種生産が主流となっているように、人や地方などによる差異を考慮や加味しない方式は、ビジネス界でも思想界でも日常生活でも、もはや時代遅れと見下されかねないものとなっています。

そういう個的差異がシビア―な状況にあって、個々人のもつ“インフラ”資源〔「自分ガチャ」とでも言えるのでしょうのか〕が事を分ける時代となっています。

しかし、それが医療においては、富裕層相手サービスは意図的な差異化で、他は、いまだに病気治療の観点で十把ひとからげに処置され、それこそコロナワクチンは何億、何十億の規模で生産されています。そこでは、個々人の微妙な違いに根差す個別な視野なぞは、患者一人ひとりを診ているはずの末端の医者の目でもってしても、画一的基準の陰に見落とされがちとなっています。

ちなみに、これは私見ですが、今の各国のコロナ政策を見渡すと、それは一種の「医療全体主義」とでも映るもので、なにやら、かつての「軍産複合体」が「政府医薬複合体」にでも乗っ取られたかとも見える様相です。

自分のもつ健康資源を、それこそ「自頼」で維持、開発したいとしている者にとって、そうした汎画一的方式に頼る政策は、言わばその対極に位置する姿勢です。エピデミックという「有事」を重視しているとしても、この「個人か社会か」との新しくて古くもある対峙を、過去を再体験するかのように、緊迫をもって観測しているところです。

 

2 

次に、第二の出会いは、私が日常の重要活動としている運動にからんで知ったことです。それは、最近のスポーツ医学の発達にともなう、身体の働きのいっそう精密な研究成果です。

ことに私が注目するのは、筋肉の機能について、それが単に機械的運動作用の発生源にとどまらない、もっと複雑な働きをする“臓器”との発見がされてきていることです。

従来、筋肉の働きとは、身体が運動を行うための収縮と伸長といった機械的作用に焦点を当てるものでした。そして健康の観点では、生活習慣病の原因のひとつである肥満対策においても、その機械的作用に伴ってエネルギーが消費されるという、余剰脂肪を減らすための部位としての注目に留まっていました。

それが最近、筋肉はその収縮のたびに、ある種のサイトカイン(生命情報分子)を産生しており、それが脳に作用してその活性化をもたらすとの解明がなされてきています。言うなれば、筋肉による脳への指令作用です。その逆ではないばかりか、筋肉が単なる物理的作用をつかさどるだけの器官ではなかったことの解明です。

(以前、身体の繰り返し運動が脳に刺激をあたえ、セロトニンという向精神物質を分泌させるとの知見〔「うつ病論”仮説”」参照〕について述べました。)

私は当初、運動のもたらす気分の爽快化作用を、運動による血流の増加が、脳内の疲労物質を洗い流す浄化効果によるものと考えていました。

確かに、血流増加による、栄養や酸素の充分な供給の効果は決定的です。そしてそれが疲労した脳の回復のための必須要素であることも間違いないでしょう。

しかしそれに加えた、筋肉によるこの生命情報分子の産生は、それ自体が脳機能に活性化の指令となるもので、身体の情報ネットワークの一端を担うものと言えます。

さらには、筋肉系全体の働きがなす運動が果たす役割とは、単にエネルギー消費という物理的効果にとどまらず、私たちの心的状態を左右する“向精神的”効果をも持っているわけです。

今日、先進国社会の人々の間でエクササイズ熱が高まっているのも、そうした心身両面への効果とその実体験が共有され始めていることの証拠でしょう。

そこでですが、私はこれまで、日々の運動について、現役仕事から引退したリタイア者にとっては、健康維持のための、これまでの「仕事」に置き換わる新種の「仕事」つまり「苦役」であるぐらいに考えてもよいのではないかと思っていました。

ところが、それどころか、運動が果たす役割とは、そんな旧弊な既成概念で捉え切れるレベルのものではなかったのです。

それを私は、上記のような心身両面への効果さえをも越えて、さらに大きな世界へとつながってゆく「はたらき」があるのではないかと考えています。

例をあげれば、ある日、今から何キロかのランニングを行おうとしているシーンを考えてみましょう。それは、あえて苦しさに向かおうとするその取っ掛かりを想像してみても、なんとも気の重くなるこころみであることが覚れます。

しかもそれを、ほぼ毎日のように日課として取り組むとなれば、とてもじゃないが、安易なノリや趣味三昧の気分でやり切れるものではないと明言できます。

それがそうでありながら、またそうであるからがゆえに、そうした日課を繰り返していると、もはや、それをやらないではいられない、健康維持と晴ればれとした前向き気分といった好循環効果に包まれた、何ともスムーズな生活サイクルが出来上がってきます。ということは、それは、かつては備えていながらいつか失っていたものが、そうして再現されてきている、そうとも解釈できる現象です。

そしてそれにともない、自然や他者を含めてすべてと一体化した自分という、何とも言えない幸福感や優しさにも満たされるようになってきます。

これを何と考えればよいのでしょうか。

それは、脳や筋肉といった諸臓器が物的にも情報的にも全的に結びつき合い、日々の生活を円滑かつ豊穣にさせている、人間という生命体が行う能動的なはたらきとでも言えるものです。(それはけっして、脳という司令塔が、体の各部に指令を出して支配君臨しているといった典型的権力構造になぞらえれるものではありません。言うなれば、驚くほど“民主的”構造です。)

これこそ、生命がなす創出作用そのものです。

つまり健康とは、生命がなす全的な創出作用を成し遂げる、身体全体、そして、v.1 の「私の生命観」でも述べたように、地球全体をも含むエコロジーと地続きとなった、すべての健全な状態の成すたまものであることです。

 

3 

そこで第三の出会いです。これはちょっと堅苦しい学術的なケースで、出会いというよりむしろ「探索」に近いものです。

兄弟サイト『フィラース』に掲載の<1.2「架橋」を通じた多次元の包摂>にも述べてありますように、生物学の最先端の進展において、生命を対象として「外側」からアプローチするのではなく、その「内側」から探究する視点があります。

それを、この「私の健康観」という脈絡になぞらえて言いますと、そういう「探究」としての「健康」ということです。

こうした「探究」について、清水 博(東京大学薬学部卒、同学名誉教授)はその著書『〈いのち〉の普遍学』〔春秋社 2013年〕に、それを「〈いのち〉の科学」と称して、こう述べています。

それ〔「〈いのち〉(注)の科学」〕は、これまでの生命科学のように、生命を主客分離的観点に立って認識することを目的にする「認識の科学」ではありません。生命科学の重要な意義と成果を認めているからこそ、その認識的な方法では原理的に解明できない領域の開拓を目指しているのです。それは、自分たち自身が〈いのち〉の居場所にどのように存在しているか、そして、どのように他の多様な生きものたちとつながって共創的に生きていくべきかを知ることを目的にする「存在の科学」です。具体的には、人間自身を含む生きものたちの生活共創の実態を、主客非分離的観点に立って考察し解明することから始めようとするものです。〔p.8〕

  • (注):〈いのち〉と〈〉付でかな書きで表す理由は、「命」として漢字で名詞とし、客体化、固定化するのではなく、むしろ動詞として、それこそ、生きていることそのものを扱う姿勢を表すためと著者は説明。

著者はこの後、「ここでは人間中心的な思想を離れて、人間とそれ以外のさまざまな生きものの〈いのち〉を共に含めて考えようとしているのです」と続けています。同様に、本稿でも、この「〈いのち〉の科学」と同等の観点をもって、人間中心的な思想から離れながらも、かつ、そうであるがゆえに――「エコロジー」との視点のごとく――、人間、ことに「私=生活者」の側に適用しようとするものです。

さらに著者は、この「〈いのち〉の科学」の延長上に、「これまでの宗教の領域にあった問題に対して、神とか仏とかという概念とは異なる〈いのち〉という出発点から取り組んでいくものとなると考えられます」と述べています。

私は、以上のような見解を、現在の医学(つまり応用生物学)に携わりつつ、その先端に立つ研究当時者自身が表明している見解として注目しています。

むろんこうした見解はまだ、実用分野における主流なものではないとは推察します。しかし、こういう地点まで、その当事者が言及していること自体が、私にとっては重要です。

つまり、このような境界領域の分野に、現行の専門分野が及ぼうとしている証しと見るだけでなく、私自身が関ってきた「健康観」に立つ見地からしても、互いに共有しうる近似性を――私はその〈いのち〉の側を「生活者」としてきました――「発見」できます。

 

4 

以上のような諸点との遭遇を体験し、健康を病気の有無の問題とするのではないのは当然としても、私は、それをその所有の大小問題に留めておくことも消極的だと考えます。むしろ健康は、毎日の生活の目的やそれ自体とまで格上げしてもよいほどのもので、能動的で将来的でしかも全的な、人間生活の完成した状態と受け止めています。

くわえて、健康と運動は、健康と食事とか、健康と家族のように、私たちの毎日の生活における欠けてはならないセットのひとつです。

つまり健康とは、そうした人間生活のあらゆる面の健全さ、豊かさと密接に関連しあっている源です。それは〈いのち〉の別名としてもよいものです。

ところが今日、そうしたセットが往々にして、あえて時間を見つけなければ実現できない、あるいは、そうしたセットが、いわゆる「仕事」と「どっちを取るか」の問題と切り詰められるまでになっています。

私は、そうした現役時代を過ごし、この年齢になってようやく、夕方――けっこう念入りな前後のストレッチを含めて――の1~2時間の運動の後、より大きなものと一体化したかの爽快感や充実感に浸ることができるようになりました。

正直なところ、どうしてもっと早くこうした感覚を持てなかったのかとの思いがなくはありません。そうなのですが、こういう感覚に親しめることは、今のところやはり特別なことでしょうし、そうした感覚を、運動という「はたらき」をした結果の貴重な到達と受け止め、とくに大事にしたいと思っています。

そう考えると、この「はたらき」はもう「生きる」ことと同義語ですし、私にとって「健康」「運動」「はたらき」が、もはや互いを区別しては無意味となり、すべてが解け合って、「生きる」ことそのものです。

このような気持ちをもって視界を広げると、世界の誰もが同様な体験を持って、地球全体のエコロジーと一体となった生活に親しむことのできる世界となるなら、地球はきっと素晴らしい世界になるのではないかと展望します。

 

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