「実験台」という定石

自分の意志による「点灯」

「四分の三プロジェクト」をめぐって

今回、本稿で述べたいことは、「実験台としての生」という、私にとって「定石」とも言える、究極の立ち還り点です。

というのは、前回前々回と「架橋としての情報」と題した連続記事を足掛かりに、残り「四分の一」に臨むにあたって、見定めた境地を考えてきました。

そして、誰もがそうであるように、自分の意識は自分自身のものであると信じて疑わない自明の事実らしきものが、実は、なかなか怪しいものだったとの思いに端を発した末の、「意識」たるものへの、ある種の疑いです。

その怪しさを言い換えれば、時に「自己責任」などとレッテルを張られ、あらぬ因縁の侵入を許してしまう、その誰もの信じ込みが故のそうした見透かされやすさです。権力側にしてみれば、それは、いくらでも揺さぶれる、旨い汁の搾り処です。

 

では、自己意識とは、なぜ、そんなにお人良しなのか。

どうやらそれは、その耳目から入ってただ蓄積してきたものを、鵜呑みにして自分自身と信じて疑わぬ、そんな習性がゆえのようです。

ならば、そんなおぼつかぬ習性には一線を引き、自分だけがやっているといった、確かなことが間違いない手法によって立つしかありません。

そこで、自分の意志をもって自らを実験台とし、自分で自分に与えたその実験行為の結果のみを自分の意識に反映させる、そういう確固な地点に立ち還ろうとするものです。

ちなみに、統合失調症の人が持つ、自分の中に他者の声を聴くという訴えは、そういうことを訴えるところが失調とされる理由なのでしょう。ですが、つねに統合ありきを前提とした健常を、私としては、無失調症あるいは過統合症とでも呼びたいところです(もっと言えば「顔無し人間」で、それを映像化すると、例えば下のように)。

そういう次第で、私のいうこの「実験」とは、その無失調ないし過統合が前提とされる社会にあって、それこそ自己責任で、失調状態を実践してみようということです。

映画「イカゲーム」より

つまるところ、「自己」とは、上記連続記事に述べたように、この地球上に最初の生命が発生して以来、38億年という長い時間経過の末端に出現している、ヒトと呼ばれる一生物の内に起こっている情報現象――情報分子の結合がなす意味創出――の産物で、その生命情報の膨大な蓄積によって生じている、比喩的に言うしかないのですが、一種の「点灯現象」です。

そうして「点灯」している意識について、それはもはや、花の開花や雷の稲光などと同列の、観察され描写されるべき一つの自然現象であって、それ以上でもそれ以下でもないものです。(つまり、それを持つからゆえに“人間様”として、ことさらに威張れるものではありません。)

以前、私はそういう意識を、映画館現象と呼び、その館内の暗闇のなかで、投影シーンとそれを見る観客という関係がゆえ、それは幻想であるとみなしました。

ならば、そういう「自己」と呼ばれる映画館内での「点灯」を、自らの意志によって、その暗闇の中ではなく白日の現実のもとにさらしたらどうでしょう。そして、自らを主とも客ともサンプルにし、それの観察と描写をもって何らかの意味の検知につとめたらどうでしょう。

まさにこれは、自分を使って行う「実験」であり、それに基づく、「自分の意識」の発見です。ならばそれはもう「幻想」ではないでしょう。

そしてこの主客往復行為をもって、生命の持つ「自己創生」や「オートポイエーシス」の仕組みをつかみ取り、自分の意志をもって「点灯」しうるということです。

そしていよいよ、残りの「四分の一」をとげて越境してゆく際には、その「点灯」は、《逆誕生》(『フィラース Philearth』HPヘッドの流れるメッセージを参照として、今度はその場を宇宙へと広げて行くのでしょう。

追 録  

上記の架橋としての情報」の記事で、熊本県の「天門橋」についての体験と、50年後、新たに「天城橋」が並んで架けられたことに触れました。私としては、自分が海外に出て、そんな経過に無頓着な間に、それほどの発展があったことを、この記事を書いて覚ったわけでした。しかしそこに掲載した写真は、まだ、この二つ目の橋は完成していない時のもので、現状を表していないのが気になっていました。そこで、以下、現在の二橋の姿をお見せします。

右がいかにも無骨な「天門橋」、左がスマートな「天城橋」。橋梁技術の50年間の進歩の度が伺えます。(写真は天草四郎観光協会サイトより)

 

 

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