逆宣伝に乗せられないために

必読の いわゆる“陰謀論”書

訳読コメント(その16)

以前に述べたことではありますが、私にとっての「訳読」とは、その書物の「本読」を前に、それが期待にそう本であるかどうかを判断する、一種の準備作業のことです。

それが日本語で書かれた本の場合、事前にさっと内容に目を通すことでおおむねそうした判断ができるのがほとんどです。しかし、それが外国語で書かれた未邦訳本の場合、そうした「さっと見」ができず、ともあれまず内容をいったん通読可能な日本語にし、それをもって判断しなければならない、おそろしく手間ひま要する下ごしらえが避けられません。

私の場合、そうした訳読がかろうじて可能なのは英語のみですが、その狙いを付けた英語原本を一区切りごとになんとか日本語化し、その各々を通読してようやく、その趣意が何であったかをほぼ正確につかめることとなります。

そうした作業をおおむね終了させたのちに、ようやく、その本がはたして自分の期待にそったものであったかどうか、その判断ができる段階に達することとなります。

ともあれ、そういう次第で一通りの作業を終わらせ、なんとか判断を済ませた時には、もはやその訳読をもって、事実上、ほぼ精読ほどの詳細さで終わったに等しいものになっています。

加えて、この手間ひま要した方法にはそれなりの利点もあって、そうやって行ってきた訳読作業の副産物として、その最後には原本の邦訳がほぼ出来上がっていることです。

こうした私的事情と作業をへたものが、本サイトに掲載されている「訳読」です。したがって実際の掲載は、そのつどの部分邦訳が順次に掲載される連載記事となっています。

またその訳読とその掲載もそうした目的から順不同ですので、別に掲載してある翻訳もくじを参照に、全体のどの部分かを確かめられます。

 

以上は訳読についての一般論なのですが、じつは、こうした訳読がことのほか重要となったのは、どうしてもそんな予備作業が避けられない、なんとも入り組んだ事情の書物を手に取らざるを得なくなり始めたからでした。

それは、俗に「陰謀論」と呼ばれる、一種特異な分野の出版物です。

特に本書のように、アメリカ人著者による、その「陰謀論」の発祥地とも言うべきアメリカ社会自体についての掘り込んだ著作の場合、その準備作業にはことのほか慎重に当たらざるを得ないものでした。

というのは、本来、アメリカという民主的社会としてオープンな議論がもっとも可能であったはずの国について、そうであるだけに、ある時期までは、一定の前評判に基づいてもそんな判断はおおむねできたものでした。ところが、そうしたアメリカ社会の教科書的議論では、どうもそのまま鵜呑みにできない事情となってきました。それはことに、ケネディ大統領の暗殺問題に首を突っ込んでからでした。

そこで、そこに重要な隠蔽やはぐらかしがあるのかないのか、その真実を知ろうと欲する場合、どうしても、この「陰謀論」と呼ばれる類の書物をひも解かなくてはならなくなりました。ところがそうした「陰謀論」本に対しては、例外なく、ひどいけなしや攻撃が付き物で、いくらなんでもそんなゲテモノ本ばかりではないだろうと、その選別におおいに手こずらされる結果となったのでした。

 

そこで思い至らされたこの種の本への私の認識想定があります。すなわち、実際にそうした隠蔽された事実を暴いた本の場合、それを暴かれる側としては、自ずからその内容を否定したり骨抜きにする必要があり、そうした狙いから編み出された手法が、その本を「陰謀論」と決めつけるレッテル張りであるというものです。

つまり、ある国が法律をもって発言の自由を保障する民主主義社会なら、まさかその種の本の出版を禁ずるというのは、その国是が虚偽であるとのまさに自明の証明となってしまい、いくらなんでもそれは避けるはずです。

そこでそうした隠蔽の存在を明るみに出す論証自体を無きも同然にうやむやとする手、つまり一種の情報戦争をしかけた逆宣伝として、メディアの力――むろん、事前に政府の言うことを聞かせるようにしておく必要はありますが――をフルに利用して、そうした本に、それは事実無根なあやしい主張を社会に広げようとたくらむ「陰謀論」であるとのレッテルを張り、その主張自体を社会全体から葬り去ろうとする狙いや作戦であることです。これが「陰謀論」たるものの本質です。

したがって、俗に「陰謀論」と呼ばれる書物には、大別して、〈レッテルを張られるくらいに必読書の「陰謀論」本〉と、うやむや化を当初から狙った〈世間を煙に巻く煙幕書の「陰謀論」本〉との二種がある、という当面の結論となった次第でした。

以上のような事情から、何らかの“問題本”を手にし、それの本読をすべきか否かを迷わされた時、その本が果たしてどちらの「陰謀論」本なのか、それをあらかじめ吟味する必要があり、ことにそれが洋書である場合、こうした「訳読」作業が避けれないことととなったわけでした。

 

さて、コメントが長くなりましたが、そうした手順をへて、「必読書」との判断を下した本書について、その訳読の連載18回目がこの「超人間主義構想」です。

今回の訳読では、極めて子細領域に踏み入ったまさに特殊専門領域の議論が多く(もし不可解な病気や症状で悩まされている場合、こうした子細な話に打開のヒントがあるかもしれない)、時代を先回りする論証となっています。

ともあれ、その議論にご案内いたしましょう。

 

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