「ようやく、枯れてきた」

  EDを“カミングアウト”する(番外号)

あとひと月で73歳となる。歳もそれくらいに至れば、どんな男も大なり小なりに、ある身体事情をかかえることとなる。そこで、片やでは、トホホとばかりに気落ちし、ひそかに挽回を願って、未練がましい努力に精を出すことになる。また他方では、何をジタバタと見下して、いさぎよくその宿命を引き受けよとのたまう。いずれにせよ、言うことを効かぬ自身に遭遇して、右に左にと揺れ動く、なんとも切ない男心である。

言うまでもなく、その身体事情とは、近年では婉曲的に「ED」――直訳すれば「勃起不全」――と呼ばれる、男の気候変化である。そしてそのシリアスさがゆえ、「死ぬまで現役」との武勇伝さながらの都市伝説も聞こえてくる。だが実相は、おそらく、そうは行かないからこその伝説なのだろう。

ともあれ、そういう難物に、そいつは、上記のタイトルのように「ようやく」を冠して関わってみようとしている。

 

ところで、そいつがそれを「ようやく」とするのは、若い時からこれまでの長きにわたり、時に困惑、時に歓喜してきたその嵐のような性衝動について、「ようやく」にしてその《鎮静》が見られてきているとの感慨がゆえにである。

ただ、それを「障害」と見るか、四季のごとき「変化」と見るか、その受容の違いは大きい。だが、どんな「暴風雨」も、いつかは凪ぐ。

そいつが、そう受け止められるようになったのは、なにはともあれ、自らのそうした衝動のおもむくままに、それなりの諸体験におよんてきたお陰に違いない。。

 

そいつは、初体験の女性との結婚をバツイチに終わらせた後、いわゆる男盛りの時期に、その衝動をまともに交わせる相手に恵まれたのは幸運だった。

それでも、その相手と不和に陥った際、娘ほどの歳の差の相手にめぐり合ったが、互いの間のエネルギーの落差ゆえに、あえなくEDを初体験することとなった。

だがそうした苦いはずの体験も、予想や伝説に反して、意外に冷静に、来るものが来たとそれを受け止めている自分があった。それどころか、どこか「ほっと」さえしている気分があったのは、思い掛けない発見だった。

そうしたED初体験に加え、そいつは最近、数歳ほど年若の女性と知り合い、それぞれの人生経験の機微を語り合うこととなった。そしてその末に、「80そこそこまで現役」を理想と受け止める彼女より、抱く希望を丁重に表明され、そいつ自身、「据え膳食わぬは云々」と高をくくったわけではなく、むしろ、誠意にはそれ相応なもので応えたいとして、さらなる体験におよぶこととなった。

そしてそいつは再びこの際にも、いかなる尺度から見ても、いっそう進行したED状態を露呈することとなったのだが、幸いなことに、それをそのままに受け入れる相手の寛容さもあって、醜態をさらす無様とはならなかった。

それどころか、またしても、ある種の新天地を発見したかの気配が湧き起こって、その顛末に羞恥狼狽するとか、あるいはED克服の再挑戦に奮起するとか、そうしたありえそうなシーンを見せそうもない具合いなのである。

つまり、永年にわたり陰に陽に奮闘させられてきた自らの性衝動について、ついに、何やらこれまでとは違った風景に入り込んでいると自認させられているのだ。

こうしてそいつは、「ようやく、枯れてきた」との感慨を吐き始めているのである。

 

かくして、そいつは自分を、決してこれまでとは同一ではない、別の平面上において見出すようになってきている。

そして、その別の平面上のあり様とは、例を上げればこういうことである。

これまでそいつは、理由は様々でも、こと女性を相手にする場合、関心を注がされれば注がされるほど、どうしても「下心」抜きでは接せられず、また、それを意識すればするほど、対応のぎこちなさと、建前・本音がちぐはぐに作動する散漫さが伴ってしまっていた。

別の例では、そうしたぬぐえない下心がゆえに、「男同士」を形成する一団の一員となった場合、ある種の同胞感を共有することとなって、それが、職場組織とか酒の場とかなど、使命追求の集団意識ならまだしも、下劣な集団意識になり下がってしまうと、いわゆるセクハラの片棒を、たとえ不本意ながらでも、担ぐ羽目にもなりかねなかった、との自省である。

むろん、70も半ばとなり、たとえ「枯れ時」に至らんとしているのだとしても、そうした下心が完全に抜けるなどとは、それまでの執拗な関わりから言って、にわかには信じ難い。だが、勢力バランスとして、それがはっきりとした劣勢となってきているのは、上記のような予期に反する一度ならずもの経緯から言って、確かなものであるのだ。

あるいは、そういうことが故なのか、最近では、女性を相手とした会合や討論に、沽券からも内心からもフリー(完全にではないだろうが)な、これまでとは打って変わった素直な自分をもって接することができるようになってきている。

 

こうした変化を理念的に問い直せば、EDという、自分がまさに生殖能力不能者――かつてはインポテンツなぞと呼ばれていた――そのものであることの、はたして、真の意味は何かなのだ。

そこでだが、心身まだまだ健康でありながら、同時に、生殖無能力者というのは、一体、人生上、どういう役回りとなったというのだろうか。もはや役立たずの単なる資源浪費者なのか、それとも、長い人生からの余剰価値を紡ぎ出す生産的存在なのか。

そいつは、そういう自分が、まだ命ある存在である以上、肉体的生殖期を終わらせた後の第二の生殖、つまり、非肉体的な生殖ともいえる別次元の生殖期に入っているのではないか、と考えている。

少し具体的には、それはまず、焦点となっている、性交という精子と卵子の結合過程によるのではない生殖である。言い換えれば、EDがあろうがなかろうが、それと無関係な生殖である。さらに言い換えれば、EDの男でも閉経後の女でも共に可能である生殖である。

どうやら、そいつは、けっこう長寿となりそうだ。そういうそいつは、そうした第二の生殖を、「老若のクロッシング」と呼んでみるなどして、人生の既経験者と未経験者の知性結合による異次元の生命観を展望し、そのこころみに着手している。

 

要するに、EDにまつわる「武勇伝」を必要としそれを夢想しているのは、独り舞台を演じるがごとき男たち自身――正確にはそのうちのある性向――なのだ。だが、そこに女性たちがかかわることで、その「苦味」は、薄まることはあっても増すことはない。毛沢東ではないが、「天の半分は女が支えている」。

EDという自らの移ろう季節を、深まり行く秋のように、自愛したいものである。

 

 

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