ペシミスティックな話

「健康って何だろう」シリーズ(その5)

これまでの4回、自分の体験をもとに、健康について、加齢によるじり貧な状態をかかえつつ、それでも何とか前向きになろうとの試みについて述べてきた。それはともあれ、個人の出来る選択においてやってきた範囲での話である。そしてなんとかその一定の成果はあって、いまのところの健康はなんとか保たれてきている。

それが一方、社会全体においては悲観的にならざるをえない現実がある。ことに日本社会が抱えている、高齢化社会という、金はかかるが税収増の期待できない、“大荷物”ができてしまっている話である。

そこで表題の「健康って何だろう」とのテーマについて、そうした個人的努力が到達しえる範囲の問題と、政治を含めこれから日本社会が迎えるであろう現実問題との間にあって、後者の現実側ついて述べえることは、そうした実務的意味においてでも、最大限に自分の健康を維持することを優先してゆくしかないことである。それというのも、社会的制度が提供しているものは、きわめてミニマムで、しかも先細りなものでしかないからだ。頼りとなる政治的、制度的進展が望めないだけに、そうした個人側の防衛策が前面に出ざるをえない。政治が貧困なゆえの、自助努力という止む無い悪循環への後退である。

ところで、私個人の立場には特殊なものがある。すなわち、本サイトの別テーマ「半分外人-日本人」にも表わされているように、結果的に、二国にまたがった人生となっているからだ。むろんこれは過去の自分の選択がゆえで、この至り着きは、善きも悪しきも、誰の責に帰されるものではない私がゆえのものだ。その意味で、大きな違いはないだろうが、特異な見解となっているところはあるかと思う。

そのような観点で、「健康って何だろう」については、その持って行きよう次第ではまさに未来的な成果の可能性を秘めながら、現状として落ち込んで行かざるをえない、私的努力の世界である。そんなことなら、そうした国の国民であることの意義はどこにあるのかとなる。

さてそれでこの先、いよいよ自分の健康が、たとえば介護を必要とする状態になった時にどうするのか。正直言って、私はそれを考える前に、そうならないようにすることを優先してきており、まだそれへの答えは用意していない。それに、そうした事態も突然にくるものではないだろうから、その段階になってからでも、遅くないと思っている。

Bookmark the permalink.