4.“お呼びでない”所に顔を出す
先週、毎年初の恒例となっている、ニュージーランド(NZ)でのトレッキングに行ってきました【別掲でその映像レポート】。本稿は、なかなかチャレンジングだったその体験を、本連載の趣旨にそって、「多世代協働」との角度からたどってみるものです。
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4.“お呼びでない”所に顔を出す
先週、毎年初の恒例となっている、ニュージーランド(NZ)でのトレッキングに行ってきました【別掲でその映像レポート】。本稿は、なかなかチャレンジングだったその体験を、本連載の趣旨にそって、「多世代協働」との角度からたどってみるものです。
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3.「自活」という「生産」の二つの意味
表題のように「生産」と書くと、何物かを作り出す行為のように解釈されがちですが、こと高齢者、つまり現役から退いた世代のそれは、マイナスのマイナスはプラスといった意味での「生産」です。
また、「自活」とは、自力で積極的に生きてゆけるという意味で、単に、病気ではないとか、介護の世話が不必要という受け身の意味ではありません。
言うなれば、《“半”現役》生活という展望が、現実的にしうるということです。
一般に高齢化とは、病気治療とか介護の必要とかで、生産人口から消費人口への移転を意味します。しかし、もし、そうした人口の健康度が向上し、そうした消費出費が削減されるなら、「マイナスのマイナス」は「プラス」であり、国民経済収支バランス上では「生産」の意味を持ちます。 詳細記事
1.「穴埋め労働」でいい
(前回)
2.「市場外行為」の貴重さ
最近の日本の報道を見ると、深刻な人手不足のために、高齢者層にもその供給の掘り起こしが広がっているようです。そうした人手不足対策という意味では、そうした動きは、経済用語で言う「市場内」での動向と言えましょう。
しかし私は基本的に、《働く》という行為は、人間が生きて行く上での必須かつ根源的行為で、「食」や「呼吸」と同じように、死ぬまで――何やら“暗い響き”が伴いますが――続けられるものと考えています。むろんこの《働く》とは広い意味で、たとえ収入の伴わぬ働きであっても《働く》ことに変わりません。そういう観点では、この《働く》という行為は、経済用語で言う「市場外行為」を特に意味します(そこで《》を付けてそれを区別しています)。 詳細記事
これまでの『修行風景』では、昔なら「六十の手習い」とされるこころみを、「六十の“新職”」の視点から、その初体験、一定の定着、そして中堅化、あるいは穴埋め働きへと、その経緯をやや距離をとった姿勢で、「写生」風に描いてきました。
それはそもそも、私が還暦を迎えるにあたって、自分の「ボケ防止プロジェクト」として始めた寿司修行体験にかかわる一連の体験談でした。その私もこの8月で72となって新たな年男の番が巡ってきています。そしてこの12年間の「ポスト還暦働き経験」に関しても、あらたな「風景」に達しつつあるとの感慨を持ち始めています。
そこで新たに表記のような「多世代協働」というテーマをおこし、この十年余りの私的体験を、少々、格上げしてみます。 詳細記事