キロ9分でいいじゃないか

7月22日〈火

左足故障の養生で、きょうも泳ぎ。昨日の1000メートルを越えようと、かなりの速さで泳ぎ始めたら、案の定、距離が持たなかった。結果、700メートルで打ち止め。タイムは19分56秒で、2.93分/ラップ。昨日の1000メートルは29分42秒だったので2.70分/ラップ。この2.93分/ラップで1000メートルまで泳げば29分18秒。要するに、まだ、上半身の体が出来ていないということ。

 

7月23日〈水

キロ9分でいいじゃないか。重要なのは時間じゃなく、運動していること自体なのだ。

別に9分になったからと言って、運動の仕方が変わるというわけじゃあない。9分だろうが8分だろうが、これまで、ただ連続的にそう変わってきているだけだ。要は、そうやって運動していること自体だ。その体動かし感覚。むしろそこにある、自分と体の対話。そう、運動って、体と自分、つまり、肉体と精神、つまり、モノとコトの対話なのだ。

この「運動」って言葉、初めて出会ったのは、組合で働き出して、事務局長の故永村さんからそう聞いた時だった。たしか、ただの組合活動をするだけじゃなく、「運動」を起こすことが大事なんだと、彼は言っていた。その当時、活動と運動はどう違うんだろうと思ったが、やがて始めた「遠藤労災」 は、「運動」だった。取り掛かってはじめて、そうと判った。

 

7月27日〈日

今週は、水曜に試しの4キロはじりをしたが、タイムは40分27秒でキロ10分以上。それ以外は泳ぎに集中。

 

7月28日〈月

なんとか左足の故障は直ったようなので、きょうから、はじり再会。6キロで54分58秒。タイムは用心しながらなので、こんなとこだろう。

ところで、そんなはじりを終わらせて思ったのだが、体がそうやって回復してくれることの有難さだ。自分にとって、体がそうやって動いてくれるお陰で、運動もできるし、買い物にもゆけるし、旅にも出れる。そしてなによりも、そういう運動によって、健康はもとより、命の働きが向上することだ。つまり、体が動いてくれることで、命が作られてさえいる。

それを、運動が足らないことを、運動不足なんて不見識な言い方をしているが、それは運動不足どころか、命削りということなのだ。

 

7月31日〈木

雨模様の日が続き、運動が不足ぎみ。今日も予報は雨だが、雲の切れ目をぬって、6キロはじり。ほとんど、左足の痛みは消え、用心しながら、ややペースを上げる。するとやはり、故障個所に、弱い痛みを感じる。ともあれ、かろうじて雨にも合わず、タイムは52分41秒で、キロ8分46秒。やや、並にもどってきた。

 

8月2日〈土

長引く雨模様の天気の中、辛抱を切らした感じで、防水ジャケットをつけて、小降りの中をはじり始めた。通気性があるものとは言え、着たままではじっているとやはり暑い。幸い、雨も上がったのでそれを脱いで手に持ってはじる。8キロまで距離を伸ばしたが、左足の具合はよさそう。1時間10分48秒と、キロ8分51秒のぎりぎりの8分台でまずまず。

 

8月5日〈火

先に、ランニングコースの常連の一人である「ノーリミット」のランナーが、腕にギプスをして歩いている話をした。このところ、その彼の姿が見られないので気になっていたのだが、今日、彼がいつもの姿で走ってくるのと出会った。「おめでとう」と声をかけると嬉しそうな顔が返ってきた。気のせいか、その走り具合がさっそうと見えた。

 

8月6日〈水

昨日会った「ノーリミット」ランナーに今日も会った。今日は彼が後ろから追いついてきて、追い越しざまに話しかけてきた。開口一番、「なんてキツイんだ」という。理由を聞くと「この4週間で8キロ太った」との返事。「大丈夫だ、時間は味方だ、私を見ろ」と返すと、私の歳を聞いてくる。79だと答えると、「えぇっ、45の俺なんか、まるでガキだな」と言い残して、走り去っていった。

ところで、今日の8キロは、1時間10分4秒。悪くない。しかも、事後に1キロごとのタイムを調べたが、最後の1キロは8分31秒とある。その前がキロ8分26秒で、目いっぱいペースを上げたつもりだったのに、5秒の差でしかない。左足のふくらはぎが痛みだしたので、大事をとって、うんとペースを落としたはずなのに、記録上ではわずか5秒。もっと落ちてていいと予想してたのが、この結果だ。この主観と実の記録とのギャップはなんだ。

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