2月7日〈金〉
これはもう完全な依存症と言っていい。午前中のひと時は、意欲も伴って一定の作業らしきものはできた。それが正午にもならないのに、急にやる気が消え、何やら鬱っぽい気分に支配される。早起きもしていたので、早めの昼寝をとるのだが、その後がもっと悪い。
そんな午後、それこそ藁をもすがる気持ちで運動に出る。気温は30度を越えていて、はじりには向かず、順番からも水泳の日。
やっぱり、やってみると、その効果はテキメンなのだ。
運動による抗鬱効果は、もう、医学的にも確立している。薬剤など服用しなくとも、運動そのものが体内で自前の“薬剤”を製造してくれる。
ともあれ、もはやその効果は、100パーセント期待できる。
そうなのだが、今日も例外ではなく、明らかにその効果を頼っての運動がある。それをなぜか、こうして、自分の依存症の現れと気にしてしまうのだ。もちろん、この依存症に副作用はない。それどころか、健康の増進としての向上作用は間違いない。そうなのだが・・・・
ということは、それを「依存症」と受け止める、それがいけないのか。
運動というそれこそ「仕事」に出かけ、健康という「報酬」を得る。それでいいじゃないか。
つまり、「仕事」と考えれば収まるというのだろうか。
どうやら僕には、「仕事」を素直に受容できないひねくれた習癖があるようだ。
というのも、「仕事」にはその報酬がお金で支払われるという、その変換作用に抵抗を感じざるをえないからだ。
そういう金銭化される習わしへの抵抗だ。そこで、その抵抗があまりに染み付いてしまって、金銭化抜きの「仕事」にも、素直になれないでいる。
この長年の防衛態勢を運動に限って、下ろしてしまっていいということなのだろうか。
話をもとに戻して言えば、鬱気分を感じることとは、運動をせよという知らせという、ただそれだけのことなのか。
鬱時=運動時、そういう公式。
もっと言えば、鬱と運動が対とされるがゆえの健康。
つまり、運動を中心とした前向き医療がありうるということだ。
2月10日〈金〉
昨年一年の運動記録の集計をしてみた。
意外なことに、はじりの年平均がキロ8分21秒で、前年より2秒縮まっている。これはすごい。水泳は予想通り、100メートル当り2分50秒で6秒遅くなっている。
これが5年前では、はじりが8分10秒ほど、泳ぎが2分40秒ほどだったのだが、この共に10秒ほどの遅れ、つまり年2秒づつの劣化である。
そこでだが、この1月の集計をとってみたのがこれである。
このように、水泳は改善しているが、はじりは大きく(0.45分=27秒)遅くなっている。一気に13年分の劣化である。確かに、今年に入って、「見栄は張らずに」とタイムは気にしないはじりをしてはきたが、このように数字として表れてみると、なにやら穏やかではなくなる。痛し痒しである。
2月12日〈水〉
1月25日から始めた新走法。歩幅を縮め、着地を真下にして、ピッチを上げる走り方。効率的ということで、確かに、タイムは上がっている。これはこれで、欲目がでてくる。
今日も、ほとんど30度で湿度の高い暑さのなか、この走法の6キロで、51分54秒と初日の涼しかった51分56秒を2秒上回った。それでも、キロ8分39秒平均で、もう8分台後半に入ってきている。
2月14日〈金〉
午前中からの強い雨が午後3時ごろまでには上がって、チャンスとばかりに、準備のウオーミングアップもそこそこにはじりを開始。気温は30度近くで、湿度がすごい。100パーセントとすら感じる。汗が噴き出して、みるみるシャツが濡れてくる。新走法ではじるのだが、やはり、リズムが出てこない。張り切った積りだったが、6キロ、52分36秒。キロ8分44秒。どうやら、8分台後半が定着してきた。
2月16日〈日〉
昨夜のうちに寒冷前線が通過し、今日は秋のような涼しさ。
6キロをはじったが、体が重く、調子は良くない。何とかしのいで終わらせたのだが、タイムを見ると51分19秒と、このひと月ほどではベスト記録。涼しさのため、さほど汗をかかなかったのが幸いしたようだ。
2月18日〈火〉
彼が毎日走っているからだと思うのだが、僕のはじりの日に、ほぼ欠かさず出会うランナーがいる。歳のころは40歳前後で、速さはそれほどでもないのだが、いつも両肘を張った独特のフォームで、もくもくと走っている。それも神出鬼没でいろんな違った所で出くわす。
今日もその彼と、6キロのはじりで二度、出会った。一度はすれ違い、二度目は追い越されたのだが、この二度目の際、どこか先まで行ってきてリターンしてきての追い越しのはず。そこでさすがに恐れ入って、追い越して行く彼に、「今日はどれくらい走るんだ」と尋ねてしまった。するとその返事はなんと「ノーリミット」。いやはや、すごい御仁はいるものだ。
ついでに言うと、彼の外にも、ほとんど毎回、出くわす人がいる。彼はたまたま僕と同じアパートの階下の住人だ。歳のころは、50過ぎか。彼はランナーではなく、同じコースを歩く運動を続けている。結構はや足でその速度は僕のはじりと大した差はなく、たまたま追い越すと巡り合わせとなると、歩きとはじりがしばらく並ぶこととなる。そんな際には、短い会話を交わすのだが、彼はこんなじじいのはじりに、ちょっと敬服の様子を示してくれる。