8月10日〈土〉
ここに、こんな記事がある。
山中伸弥 健康寿命とは、日常的に医療や介護に頼らずに、自分がやりたいことを自分の力でできる期間のことを指します。健康寿命を延ばすことが、このサイラ(CiRA)が目指していること、というか医学研究の目標の基本はそこにあると思います。〔『現代ビジネス』から、MSニュースサイト8月10日付け記事より〕
彼は科学者だから、こうした研究に専念しているのだが、要するにその目的は、人々の「健康寿命」を実際に伸ばすことにあるはずだ。
何度も言ってきているが、私たち誰もの命とはのっぴきならないもので、毎日がその現場であって、今のその時、まさしくそうした最先端の成果を必要としている。だから、そうした科学研究の結果が出るまで、待ってはいられない現実にある。
私は、ともあれこの「待ったなし」の立場から、いろいろな科学研究のうちのまだ仮説段階のものまでを牽強付会に活用し、ともあれ、自分の身体をまな板にのせて、それを実験してきている。
この山中氏によれば、健康寿命とは平均寿命のマイナス10年ほどで、日本人の男なら、81-10=71歳ということとなる。つまり、もうすぐ78歳の私は、平均的には、とうにこの健康寿命を失っていてもよい年齢である。
それが、この「私共和国」に書いてきているように、「自分がやりたいことを自分の力で」存分にやっている。(その秘密は、こうした記事に完璧にオープンに公開してあります。)
そして、健康寿命どころか、人生の二周目を、一周目という練習を基にして展開している。つまり、これがまさしく本番人生ステージであり、人のなすプロダクティビティーの発揮である。
いうなれば、二周目にこそ、人生の本道がある。
8月12日〈月〉
先週土曜とは対照的な話だが、ここのところあえて「座りション」をしている。これは「立ちション」に対するもので、要するに、時間のかかるジジイのしょぼい小便は、もう、座ってするのが安直であるとの話。狙いを外す心配もないし、うっかり服を濡らすそそうもない。いやはや。
8月13日〈火〉
ペースを落として、10キロはじり。タイムは気にせず、この歳で、10キロ走れることの幸せを味わう。最後はペースを上げてしまったが、結果は、1時間23分23秒。
8月15日〈木〉
専業主夫とブログ書きの二役を日々の主要作業として生活していると、この二つの作業というものが、絶妙に恰好な組み合わせであるという最適解を発見した感がある。何が男女の役割か、「糞くらえ」もいいとこである。
と言うのは、まずこの二作業は、その内容や実行の時を、自分の裁量でどうででも決められることだ。外から強制される枠組みは無いも同然だ。
たしかに、家事労働というものは、大ぐくりでは、その必要や繰り返しは避けられない面はあるが、それをいつ、どのタイミングで行うかと言う詳細では、そのやり繰りは柔軟にやれる。
他方、物書き作業というのは、これもそれなりに、生活リズムとしてルーチンな繰り返しは必要だが、その配分は自由である。ただ、その創造的な構想の出現は微妙で、それを逃さずに捉える機敏な対処が必須で、これを逃しては元も子もない。
こうして、二種の作業がもつ、異なりながらも備えている硬と軟の性格同士は、タイミングとして、意外にかち合うことはなく、それぞれの必要に応じてやり繰りが可能である。
たとえば、書き物に集中している時間に洗濯機を回しておけば、ひと仕事をしているうちに、洗濯作業は済んでいる。また、家事の重要な作業のうちの買い物は、創作作業が終わった時間帯に、疲労回復とリラックスのための運動をかねて――引っ越し後、買い物地区がやや遠くなり、自転車通いが便利――済ませることができる。
こうして、硬と軟を上手に組み合わせて、一人二役の一日をけっこう無駄なく過ごすことができる。
かくして、金稼ぎと言う大きな枠に制限される作業は、お金にシビア―な性格のパートナーの専業で、あとは、その“ご機嫌取り”と言えと語弊はあるが、帰宅すればうまい夕食が待っている結果――むろん自分にも必要――さえ提供していれば、日々は円滑、有意義に回転していっている。
以上はもちろん、人生二周目に入り、年金生活との経済的基盤あってのストーリーだが、「二周目にこそ本道」となった私の後半人生の有意義さの秘密には、結構、こうした実際面での守備上々さ効いていることが無視できない。
8月20日〈火〉
78歳になった。その機に思うのだが、私の運動は、もはや健康維持のためどころではない位置にある。睡眠、食事、そして運動といっていいような、生理的必要の三要素の一つとなっている。だからその不足は、睡眠不足、栄養不足にならぶ、運動不足であって、眠くなったり、腹がへったりするように、運動したくなる。
だから、それを欠かした日は、気分がすぐれず鬱っぽくなって、一日を終えようにも、すっきりしない。
もちろんその運動の能力は、中年時と比べても半分ほどで、それこそ「はじり」である。だが、運動は、いまの私には、フィジカル行為というより、メンタル行為となっているから不思議だ。