人間誕生(第二章)

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第二章

「強制性交等罪」の新設:

「強姦罪」が消えた日

 

殺されたも同然なほど、親に人生台無しにされた子が、その親を殺したら? 世間はその人をほめるか?

ほめない。断じて。百発百中、犯罪者にされる。未成年なら鑑別所、成人なら刑務所行きだ。1968年、栃木尊属殺人事件の被告を見るがいい。長年実父に強姦され続けた娘が、ある日ついに実父を殺した。「強制性交等罪」の規定もなく「強姦罪」はあっても、親告罪で被害者の告訴がなければ処罰されない時代のことだ。親を告訴?

「私の父親、私が14歳の頃から15年間強姦し続け、母親が咎(とが)めても聞き入れず、殺すぞと追い出しました。逃げられなかった私は妊娠し、子供まで産み育てるハメになりました。何人も。私にいい人できて結婚しようとしても邪魔するんです。困ります…」

そんなふうに言うのか? 仮に言ったとして、有効な手を打ってくれるのか? 裁判所が。この億劫で役立たずの告訴をすっとばして自ら犯人処罰に及んだ女性は、自分の方が加害者になってしまった。本来は被害者の自分が加害者、殺人犯となってしまった。女性は自首した。それでこの父娘の異常な関係が暴かれることになる。ということは、ここまでできない娘たちの実情は、発覚しないままだということだ。娘一人で、おいそれと大の男を殺(や)れるものではない。娘がいくら体格良くても、男の協力もなければやり遂げられない。男は最期はおとなしく、逆らいもせず殺(や)られたという。「お前にやられるなら本望だ」とか言って。首を絞めてもらったのだ。あり得ない横着の極み。ずるさの極み。

この被告女性の健全さが認められ、執行猶予付判決が下されるまでには4年半かかった。無償で彼女の弁護を引き受けた奇特な弁護士、親子2代の熱意によって奇跡的に救われたのだ。更に、尊属殺人は普通殺人より重罰という古臭い法律が削除されるには事件から30年近くが必要だった。1995年、刑法200条削除。殺人は、他人であれ親であれ同等の罪、ということで納(おさ)まった。

 

強姦罪(ごうかんざい)とは、かつて存在した暴行又は脅迫を用いるなど、一定の要件のもとで性器を挿入する行為(強姦)を内容とする犯罪類型。刑法177条から180条に定められる。性犯罪の中で最も重い犯罪とされていた。2017年(平成29年)7月13日に、男性が被害者の場合を含む強制性交等罪の規定が設けられたことに伴い、強姦罪は廃止され強制性交等罪がその役割を引き継いだ。

 

18歳未満の児童を現に監護する者が、当該児童に対してその影響力に乗じ性交等の行為を行った場合、強制性交等罪(法定刑は5年以上の懲役)と同様の刑を科すとする。

 

強制性交等新設のニュースは私にとって重大だった。監護者に関しては、今頃やっとか、という感が強かったが、ともかく改められたのだ、両性の不平等や、(親子関係における)子の不利が大幅に。何と110年ぶりという。強姦罪が廃止されたといっても、強姦という罪がなくなったという意味ではない。「強姦」という概念では性暴力被害者が女性に限定されたしまう為、呼び方を改めたのだ。かつての「強姦罪」は「強制性交等罪」に改められた。

私は、そもそも強姦という語、中でもを不快に思っていた。なぜなのか? ×3なのか? 私としては、男の身勝手や女性への蔑視を嗅ぎつけてしまう、このという字が大嫌いだった。それがなくなった! 被害者、加害者共に性別は無関係になった。それだけでも溜飲が下がる。

 

私の人生において、これは尊属殺人罪廃止(1995年)と並んで、画期的なできごとだった。国家的改革は私個人にとっても大改革だった。

相澤チヨ氏万歳、大貫弁護士万歳! 1968年の事件から30年近い日々を要したが、あなた方が法律を変えたのだ。体を張って。娘が実父による強姦に耐えかね、父を殺害。犯罪者から出発せざるを得なかった相澤チヨ氏は、現実には法律を変えた功績者だ。私は若い頃にこの事件を知り、衝撃を受けた。妊娠してしまった女性が何人もの子を産んでいることも驚きだった。その後も折々にこの事件が気になり、関心を持ち続けていた。名前や詳細はずっと後、インターネットをするようになってから知った。今でこそ、「相沢チヨ現在画像」なども、それらしいものが見られるが、以前は私が知る限り、新聞や雑誌にも彼女の顔が、出てくることはなかった。むろん画像の信憑性は怪しいが、その知名度が上がったことは確かだろう。私は彼女に会えるものなら会ってみたいと思い、ずっと彼女を尊敬していた。どんな裁判官より、法律家より、まずこの人がいなければ法律改正のきっかけも生まれない。加えて弁護士。国選弁護士では心もとないと、無償でこの女性の弁護を買って出た奇特な弁護士。それも親子2代にわたる、執念ともいえる大仕事。わが国にもこういう気骨ある人がいたのは、嬉しいことだ。

 

ところで、私は、相澤チヨ氏の子どものこともむろん気になって仕方なかった。女の子ばかり何人かだったと聞くが、彼女たちは自分の両親の実情を知っていたのだろうか? 父親兼祖父である男にどう接していたのだろう?

更には、この罪深い男の罪深さは彼独自の創作によるものではなく、幼くして親に捨てられたことによる後遺症であるらしいのだ。幼い頃のダメージは回復が非常に困難で、二度と再び立ち直れないほどに人を損なう。

このことにも関係するが、言葉の問題も残っている。言葉は法律に勝るとも劣らぬ力で人心を支配する。

いわゆる差別用語になっていてもよさそうなのに、今現在、それにさえ上げられていない言葉がある。

尊属、卑属〔管理人注〕がそれだ。とりわけ卑属。法律用語らしいが、考え出した人間(複数?)の顔が見たい。おそらく近代の出来事だろう。古語にはない。江戸時代にはなかったのだ、こんな差別用語。

〔管理人注〕尊属:親等上、父母と同列以上にある血族。すなわち、祖父母、父母、伯父母など。

卑属:親等上、子と同列以下にある血族。すなわち、子、孫、甥、姪など。

漢字には、カナにはない意味合いや匂いがある。という字には、日本人はあまりいい印象を持たない。何故(なにゆえ)こんな字が当てられたのか理解に苦しむが、中国語にも同じ言葉があるところを見たら、そのまま借りてきたのかもしれない。中国での、この字の意味合いは、日本と同じなのだろうか? 大昔からあったことばなのか。

少なくとも日本ではいい意味をもたない、この語を平気で使えるということは、ある種の感覚をマヒさせなければできないことだ。児童虐待と深い関係があるように思える。虐待のメカニズムを白状しているようにも思える。

 

つづく

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