人間誕生(第三章)

投稿作品

第三章

子どもの見栄

 

子どもが自分の家庭内の貧困や不和を隠したがるのはなぜだろう?

暖房節約で寒すぎる部屋では、ぐっすり眠れない、防音も効かない壁からは、騒音が筒抜けで安眠できない。同居の大人はそれを訴えても何もしない。

何とバカな大人だろうと子どもは思うが、会話はとっくに諦めている。言っても無駄。ニコチン中毒のこの男とは会話が成り立たない。それは自分の経験から思い知っている。10年そこそこの人生経験だが、十分だ。言い返せば殴られるがオチ。痛い思いして成果も上がらぬことは、子どもでもしない。この大人は、威張りたいだけで人の親になったな、と、子どもは見抜いている。子どもの健康や幸せなどどうでもいいのだ。顔色や表情など更にどうでも。それどころか、悪いとなじる。子どもらしくない、よその子のように明るくない、素直でない。贅沢だ、等々。女親までがなじり倒す。よその家では子供が具合悪そうだったら、女親が気遣ってくれるという。無理して登校せず、休めとさえ言うらしい。うちではありえない。女親がどなる。「気持ちがたるんどるからや! 這(ほ)うてでも行け!」

 

子どもは、こんな大人との同居からすぐにでも救い出してほしいのに、行き当たりばったり出会った人に、「助けて」と言えないのはなぜだろう? 困っていないふりをし、友だちには特に黙って、自分も君らと同じように幸せなんだというふりをするのはなぜなんだろう?

 

その方が仲間外れにされないから。対等に付き合えて、バカにされず、見さげられずに済むから。親の愚かさが暴露されたら、たちまち自分もその仲間、その程度のものと思われる。

よその人たちは、愚かな親から、その子どもだけを救い出してやろうなどとは、まず、しない。気の毒がりはする。救い出すことは別問題。その厄介を見越して、最初から見ぬふりする人も多い。

現実問題、子どもはまず、親に叱られることを恐れる。自分の親の無知や甲斐性無しが他人にバレると親自身がバツ悪い。なんで親に恥かかせるのかという、親の逆恨みに受け答えする十分な知恵や体力が子どもにはない。つまりは親の見栄っ張りに子どもも協力してしまう。知恵も愛情もない親というのはこういうものだ。

 

子どもにとって一番の問題は、すぐ身近な人の機嫌。教師よりも、友達よりも、同居の親。早朝から夜まで働きづめで、会う時間ろくになくても、やはり親の機嫌が一番気になる。特に親より体が小さいうちは。親の機嫌取りに子は汲々。それが子どもの生活のすべて。

 

子どもが張る見栄のうち、何が一番悲しいといって、「自分もいい親を持っている」という見栄。これほど悲しいものはない。幼かったり無知だったりすると、それを見栄だと気付かず、信じこむ。教育や、人の噂、道徳、宗教などに後押しされて。

それで得をするのは親。得というのは実は当らないかもしれないが、もろに世間からきびしいに批判を浴びることは避けられる。楽はできる。

子どもは自分が過重な重荷を背負わされていることに気付かぬまま、何年かを過ごす。途中で気付くかもしれず、気づかないままかもしれない。気付かぬまま大人になり、人の親になると、同じことを自分の子どもにしでかす。

 

実は、子どもというものは、親が利用する為に産んだり、もらったりすべきではない。そんなことは知っていると皆言うが、言うのは簡単。しかも、知っていることと実行することは違う。子どもを生かし、育てるのが親の役割なのだが、これを心得ている人は少ない。心得ている人さえ少ないのだ。役割実行となっては希少価値の話になってしまう。よその国の話に。

 

この国では、多くの親が子どもに恩着せがましく、子どもの自由や笑顔を奪う。子を利用し、束縛し、それを教育、しつけだとか。ざっくり言うと、この国は、子どもいじめの国。子は親に従順であればあるほど、不幸に、醜悪に、愚かになる。そういう男女を私はごく身近に見てきた。何人も。

私は、自分の親や、そのまた親に虐(いじ)められる以上に、この国に、散々虐(いじ)められ、恩着せられた。しかし、それも私にとっては過去のこと。

 

それに気付いたのは、何年か前、十年来の友人との会話の時。その中で、私は自身の思わぬ発言を聞き、恩着せがましさの重荷から解放されたことを知った。

 

わが母親の友でもあり、我家の事情も粗方(あらかた)知っていた筈の彼女が、ある会話の中で、私にこう言った。

「でも、なんだかんだ言っても、あなたも、お父さんがいてくれたおかげで、今こうしていられるんじゃないの」

それに対して私は即答した。

「何言うてんの! 生れてきてよかったことなんて何もないわ。死ぬという用事ができただけよ」

この即答が自分でも思いもしない発言だったのだ。普通、考えがまとまってから、それを言葉に出すものだが、この時は逆だった。言葉が先で、思考はその後だった。思考と言うより、実感。肩の荷が下りるような解放感。

 

初対面やそこらの人から言われたら、私もじっと我慢し、さりげなく受け流すだろう。今までも、傍観者たちから色々言われてきた。

「人間、木の股から生れるわけじゃなし、両親いてくれてこその、あなたではないか」

「君の半分はお父さんなんだよ」

「親を否定するのは自分の首を絞めるようなものだ」

「いつか、あなたにもご両親の愛情がわかる日がくるでしょう」

「人は親をなくして、初めてそのありがたさが解る」等々。

有体(ありてい)に言って、それらはことごとく私には当てはまらなかった。無理に当てはめようとすると傷に塩をすりこまれるように辛い。そんなことをしていたウブな時代もあった。

旧友はそこをわきまえている筈だった。付き合いが深まるにつれてそうなった。我々母娘二代にわたる被害に何度も耳を傾け、しだいに、血の通った受け答えをしてくれるようになった人物から、傍観者同様の陳腐な言い方をされるのは心外だった。私が彼女に一目置くようになったのは次のような発言からだ。

「そうか、子どもの頃から、あなた自身が、父親を嫌いだったわけやね。お母さんが(お父さんを)嫌っているからというわけじゃなく」

私は思春期の頃から、母親がなぜあんな男に体を許したか、ずっと不可解だった。母親が平凡な結婚をしたと思っていた。見合にしろ、恋愛にしろ。ともかく子が出来ると言うことは、交わったということだ。あんな男とよくやれたものだと軽蔑していた。何と趣味の悪い女か、と。

実は彼女が前時代的な、騙(だま)し同然の嫁入りをさせられ、初夜に強姦されて嘔吐したと知った時、私は溜飲を下げた。彼女21歳だったという。それを知ったのは男の死後20年以上もたってからだった。彼女は90歳、私、60歳にもなろうかという頃だ。彼女自身がそんなことを言い出した訳ではない。私が訊き出した。自分が幼少の頃、その男に湯船に押し込まれ、死ぬ思いをしたことから推量して尋ねた。彼は女子供を扱えない無骨で強引な男だった。実のところ、この「男」と言うだけでも私には抵抗がある。オスとでも言いたいところだ。それが69歳でやっと死んだ直後は、私はその存在を口に出すこともなかった。家族皆そうだった。その後も、ひたすら忘れたいだけで何年も過ぎた。私が母親の目の玉の黒いうちに、より詳しい真相を知りたいと追及し始めるまでは。

知的障害者でもあったその男は処女の股間に大ケガを負わせたその後も、暴力、暴言で、手篭めにし続けたという。さもありなん、全くあの男に似つかわしいと私は思った。「汚(きたな)らしそうにするな!」と怒鳴りながら襲いかかる姿は容易に想像できた。私は難儀なことに、そういう場面を鮮明に思い描けてしまう。女親にはっきり確かめない頃から薄々気付いていた。自身が望まれてできた子ではないことを。そういう生み方をした大人を心底軽蔑していた。といって、自分がさっさと消え失せる訳にもいかない。それはそれでこっちの苦痛になってしまう。悪いのは向こうなのに、こっちが苦しむのは癪(しゃく)だ。私ほとほと自分を持て余していた。  

そんな、軽蔑、白眼視(はくがんし)し続けてきた二人の親のうち、一人にでもそうしなくて済むようになることは私にとって、せめてものことだった。女親がなぜそんな孕(はら)み方をした子を産む気になれたのかは、すぐに解ける謎ではなかったが、ともかく彼女もあの男には、私と同様の感じ方をしていた。それが判り、ようやく自分と血が通った気がした。

この決定的証言を得る以前にも、私は少しずつ彼女の本音を聞き出すことは出来ていた。最愛の彼氏は戦死、腑抜けになった自分は親や親戚に、騙し同然の嫁入りをさせられた、と。

産んでしまった子どもの前では、言いにくいことではあっただろうが、子ども自身からの追及であれば、彼女も黙っているわけにはいかなかった。しかし、私はウソをつかれるよりは、よほど快かった。それで判ったことは、子どもは愛の結晶なんかではないこと。そういう子もいるらしいが、私には無縁。私が実感、体験する子どもは瘡蓋(かさぶた)のようなもの。人体が傷付き、ドジな手当てしかできない時、生じてしまうかさぶた。傷を乾燥させず、上手く治癒させれば、できずに済むかさぶただ。治療不手際の証。

 

「死ぬという用事」

私より少し年上の旧友は、こういった私の気持ちを容易(たやす)く理解した。 

我々母子が彼を嫌悪したのは、まずは彼の知的障害による我々への不行き届きゆえにだが、もし、彼にそのような障害がなくても事情は大して変わらなかっただろう。健常者であった彼のきょうだい、親、殆(ほとん)どどの人物にも我々はいい印象を持てなかった。異臭を感じるというのは端(はな)から性(しょう)が合わないのだ。彼らに会った時、嬉しく思えたためしがない。だから彼らも我々に好意は感じなかった筈だ。

彼にしても、対面する相手の表情を読み取れる能力が残っていれば、すぐに相手の女は自分を嫌っていると判った筈だ。彼にはその能力が欠落していたから、嫌われていることも苦にならず、娶(めと)り、体を要求し続けた。しかし、と、私は勘ぐるのだ。もし、彼に相手の表情を読み取れる能力が残っていたらいたで、自分を嫌う女を力づくで手篭(てご)めにする事に興じたのではないか、と。長年その男やその一族の言動を見せつけられたら、そのくらいの推量は出来てしまう。子どもでも、というより、子どもだからこそ。

「戦争で、あの子は、あないなってしもうた」と言う、その男を産んだ女の言い草が胡散臭(うさんくさ)いことも、子どもの私は気付いていた。よほど幼い頃はそうかな、と思っても、成長と共に気付く。その男の幼児期における脳膜炎騒ぎを聞いていたせいか、私は、むしろあんな出来そこないが兵隊検査に合格したことが不思議だった。誰でも合格できるほど、人員不足だったか?と。実際、そうだったようだ。戦時中、知的障害者は兵役に採用してはならないという建前は、なし崩しになり、知的障害者たちがどんどん戦地へ送られたということだ。もともと善悪の判断もおぼつかない男たちが、戦地で殺害や略奪や強姦などを見習い、体得していったのだろう。現地の人々を虫けらのように扱う習慣を身につけたまま、帰ってきて、嫁を娶る…。暴挙としか言えない。

彼らを、気の毒だ、と傍観者たちが言うことがある。確かに知的障害者がろくな治療も受けられない上に、その欠陥を兵役に利用されたのだから、気の毒だ。戦後の軍人恩給支給の請求さえ自身では覚束ないだろう。彼らの人生は気の毒には違いない。

それは傍観者の感想だ。その障害者と生活させられる当事者にとっては、彼らの存在は気の毒どころか、有害だ。救済どころか、回避すべき災難、排除すべき人災である。軍人恩給にしても、いっそ死亡の方が請求手続きも簡単なのだ。死にそこなって中途半端な額を請求しなければならないその家族は思わぬ煩わしさに次々見舞われる。本来本人がすることになっているからだ。「なんで戦死してしまわなかったのか?」その男に嫁がされた女でなくともそう思う。

ここで、そんな男に嫁がされそうになった女は、なぜきっぱり断らなかったのか? と思うのは、当時を知らないからである。当時の父権の絶大さを知らないからだ。旧民法下での絶大な父権を。(私も知らないうちは、そう思った)今とは法律自体が違う。家父長制の下、一家の戸主は娘を殺しでもしない限り、売ろうが、犯そうが何をしようが許され、見逃(みのが)され、合法ともされた時代である。

彼女の父親は、世間体の為か、娘に形だけの見合いをさせるが、その時は既に相手から結納を受取っていた。役所への届出も彼女自身はした覚えがないという。当時の常識のように性知識も与えられない。何をされるか知らないからこそ、親の言うなりになれたのだ。彼女と同世代の女性の多くが異口同音に言う。嫁入りなんて、その中身を知らないからこそ、できたことだ、と。当時は、ごく一握りの良家のお嬢様だけが事前に心得を与えられたようだ。乏しい心得を。春画を渡されるようなお粗末なことを。

娘は自分の意志とは関係なく、物理的に相手の男に引き渡された。人身売買にほかならない。

私の憎悪はこれらの男たちにも及んでいた。つまり、娘を売った男、更に邪悪なのは知的障害者の息子に嫁を取ろうなどと思いつき、遠方から無知な田舎娘をまんまとさらってきた男だ。身近な町の娘たちとは違って息子の実情を何も知らず、逃げるにも遠方で諦めるだろうと、踏んだ上でその娘をさっさと買い取った。この男にだけは私は全く面識がない。写真の一枚も残っていない。私が最も憎む相手、我々母子の不幸の元凶である男の顔は全く見たことがないのだ。

 

とは言っても、実感としては死人となった者より、毎日顔を合わす男にいちばんの不快感がある。いちばん悪いかどうかは別として、毎日のようにその姿を見なければならないという苦痛が切実なので、一番悪いと感じてしまう。

 

これらのことを断片的にでも話せ、聞いてもらえる友人などはそうそういるものではない。子どもの気持ちや考えを軽くあしらう人が多い中で、旧友の彼女は光った。子どもの感性、気持ちをそこなわずに維持できている稀有な友。彼女自身にも私と似た体験があって、父親にいい思い出はないと言っていた。その男は、手短に言えば口より先に手が出る暴君で、それを恥と思うどころか誇る男。悔しかったら男に生まれてこいと言わんばかり。男の力(ちから)は女を助ける為ではなく、女を虐げる為。男がしたい放題できるのは自然の摂理。女がそれに従うべきなのも自然の摂理。なぜなら男は優秀だから。体も頭も女より格段上等。妻に「女しか産めんのか」などと平気で口に出す男。ああいやだ、彼らがこの世から消えた今でも思い出したくない…子どもが親を嫌うのは、子どもがわがままだからではない。わがままは親の方。親を評価できるのは、学者でも坊主でもなく、その子どもだということを知っている貴重な友人。

しかし、かつての印象もかすんでしまうような、「お父さんがいてくれたおかげで…」などという、今回の陳腐な言い草を聞いて、私は凹(へこ)んだ。知りあいも多いこの人、私を誰かと取り違えているのかと思ったほどだ。万人向きの俗っぽい恩着せがましいお説教。目に見える遺産相続なら、負の遺産は堂々と放棄するのに、目に見えない「親の恩」の話になると、途端に計算できなくなる人のなんと多いことよ。プラマイ(+-)かまわず、ありがたく受けよというわけか。       

露骨に私は抗議した。私の場合、ドジな産ませ方をする親がいたからこそ、不幸な自分が出来てしまった。どんなに心の持ち方、モノの見方、あれこれ切り替え、詭弁を弄し、この事実を美化しようとしても、できるわけない。宗教や道徳に性根(しょうね)抜かれた人はできるのだろうが、あいにく私はその類(たぐい)には馴染(なじ)めなかった。ウブな頃には必至で馴染もうとした。だが、すればするほど、自分が利用されているだけなのが判ってくる。彼らは口先では子を憐れみ、尊び、大事にするが、土壇場では子どもの味方はしない。なぜなら、子どもはカネを払えないから。

宗教や道徳の威圧とつるんで子を圧し、ふんぞり返る、そういう親や、そのまた親に、どうやって、おかげだなどと、ほんの一瞬でも思えようか。皮肉をこめて言うならまだしも、まじめに、おかげなどとは、口が裂けても言えない。とっさに出た言葉が、先にも述べたような「死ぬという用事ができてしまっただけ」ということなのだ。

今こうして友人とお茶する楽しさも無視した乱暴な言い方かな、と少し気が引けたが、私の気心を熟知していた友人は、気を悪くする様子もなく、「そうか、なるほど」と納得した顔で笑った。

 

私は自分の発言に驚いた。全く、とっさに出てきた言葉だったが、それで気持ちが急速に整理され、各種の恩着せがましさから解放された。自分の命について、見栄を張ることから解放され、長年実感してきたことを白状できた。つまり、生んでくれたことに感謝できるのは、その人生にいくらかでも楽しいこと、快適なことがあるからで、それがない人生では、感謝できる筈もない。それでも、人生最期は締めくくらなければならない。感謝できた人の人生と同様に、あるいはそれ以上に、きちんと。

死ぬというのは、ある人々にとっては人生の終点のようなことであり、受け身で済む話だろうが、我々みたいに終点から始まったような人生にとってはそうはいかない。至難の業、いわば、幽霊が死ぬような難しさがある。あるいは、なんとか自分を帳消しにしようと、もがいていると言ったらいいか。

 

ここで私の言う人生とは、人々が、多分まだ人生とは意識しないだろう時期、親に依存せざるをえない時期を含む。というか、主にそれ。これがなく、いきなり自力で生きられたら、どんなにいいだろう! とんでもない親を引き当ててしまった子どもなら、誰もが、きっとそう思う。迷惑なだけで、頼もしさのカケラもない親体験しない人には想像もできないだろうが、そうなのだ。そして、いつの世にも彼らはいた。いわゆる毒親、子どもが怨み、憎み、 復讐したくなる親というものは。それを隠蔽(いんぺい)、ごまかすのが宗教で、それは政治と紙一重。

彼らは子に、親への感謝に加えて、憐れみの情を持て、と言う。病気、醜悪、甲斐性なしの親であっても嫌わず、尽くし、世話しろと言う。まるで役割本末転倒、娘を犯す父親をも許せと言う。そう言う自分がやってみろ、それで子どもが育っていけるか、体験してみるといい。健全な子どもは親の事情など考えない。情け容赦なく、健康な親、美しい親、頼もしい親を要求する。それを得て、始めて子どもは成長できる。子どもでいられる。宗教の説くいい子どもとは、人間ではなく、人形か、かさぶただ。生きていない。世界中の宗教すべてを体験できたわけではないから断言できないが、体験可能な巷(ちまた)の宗教を遍歴した私の実感。宗教は親しか救わない。そのくせ、子どもに死ぬなと言う。毒親の代わりにまともな親を与えるという当たり前の措置もとらず、ただ漠然と自殺はよくない、地獄落ちだと言い出すのだ。

むろん子どもは信じない。その地獄より今が辛いと思えば死ぬしかない。辛さの感じ方は千差万別。親とやり合う力量も人それぞれ。その子の感性、力量如何(いかん)で子どもは生きたり、死んだり、死にそこなったり、千差万別。子は一律に親に守られ育てられると思うのは大間違い。幼少より、親との戦い、かけひき、生存競争で、成人するころには、すっかりくたびれ果てる子がいる。親より老けこむ子もいる。

私は女親からよく言われた。子どもらしくない、年寄りのようだ、と。友だちからも、言われた。老けてるね、と。反論もできない、その通りだったから。彼らは恐ろしく元気で、恐ろしく口が軽く、機嫌がよかった。私は一日のうち、夜がいちばん安らぎの時だった。やっとほっとし、もう朝など来なくていいと切望する自分に比べ、一日が終わってしまう夜がいちばん悲しい、遊べなくなるから、と言う子がいた。私は声も出なかった。体力や、環境の差を思い知らされ、その子と話しをするのも怖くなった。

 

自力で人生を切り開けない子どもが死にたがるのは、子どもが病気だからではない。健全だから、そんな人生を生きたくないと思うのだ。親に先立つ子が親不孝などとは子に失礼。親が子不孝なのだ。いや子不幸なのだ。

 

思えば子どもの頃、(さまざまな困憊(こんぱい)で押しひしがれる子どもたちがそう望むように)私もよく、消えて無くなりたいと思った。私の場合、その無くなり方は半端ではない。すっかり消滅したいと願うのだ。つまり、自分の姿かたちも消えて無くなり、自分を知っていた人々の記憶からも消えてしまいたい、というものだ。仮に自分が死んでも、誰かが自分を覚えている限り、本当に消えたことにはならない…本当に消え去ってしまうには、どうすればいいのだろう? 子どもの私は真剣にそう考えていた。

 

自殺する子がそんな子ばかりとは言えず、中には「これ見よがし」に死ぬ子もいるだろう。そういう死に方も責められない。子どもは精いっぱいの事をしたのだ。

 

「疲れを知らない子ども」という言い方がある。そういう言い方をされると「子どもというものは疲れを知らないのだ」と思ってしまいそうだが、現実はむろん違う。子どもというモノがあるのではない。子どもたちは、一人一人、皆、違う子どもで、皆、違う疲れ方をしている。

「頼れる親がいない」と、率直に嘆く代わりに、私はこう考えたこともある。

「優秀な子どもというのは、どんな愚かな親から生まれても、立派な人間に成長できる子のことではないだろうか」

無論、それは詭弁。愚かな親たちを喜ばせる邪道でしかない。優秀な子ども、というのがこれまた、笑止千万。苦しむことに専念すべき子が、そんなうわごとにうなされるとは。しかし、子どもの私はそんな思想にまでしがみついていた。苦しんでいた。苦しみとは自覚しない。イジメのまっただ中にいる者は往々にして、イジメを自覚しないのと似ている。夢想にふけることもしばしばだった。ある日本当の親が自分を迎えに来てくれる、という楽しい夢だ。いつもゴホゴホ咳き込むこともなく、タバコや汗の異臭もない、元気できれいな母親、身なりのいい頼もしい父親…。

 

子どもが見栄を張るのも疲れているせい。自分の込み入った事情や欲求をあれこれに話さず、平凡な子どもに見せかけておく方が疲れない。それ以上疲れなくて済む。

 

この辺で私の昔の疲れを一つ下ろしておきたい。遅ればせかもしれないが、下ろせる日が来たのは嬉しいことだ。10歳ぐらいの時の事件だ。(私にとってはそうだった。今思えば、世間によくあるような家庭内の瑣末事だが、当時のその子には生死に係わるような大事件だった)

私は幼いころから絵が好きで、手近な紙切れや、家の壁に色んな絵を描いて楽しんだ。クレパスで、黄色の上に青を塗ったら、きれいな緑色になった感激が絵にハマった始まりだった。だから私は今でも、青と緑をひっくるめて「青」と言うのに抵抗がある。青信号、青菜の類だ。あれは緑信号、緑菜なのである。壁には鉄筆(てっぴつ)のようなもので刻みつけたと思う。表面より白っぽい下地が出てきて、紙に描くのとはまた違った味わいがあった。真ん丸な円形しか描けなくて、もどかしい思いをしていた私がある日、楕(だ)円形を描けた嬉しさは、長いこと壁に刻まれて残っていた。ボロ家でもあったので、親は見逃し、それで叱られたことはない。学校へあがってからも図工や美術は好きで、成績もよかった。思春期が近づくと、私も人並みにエロい絵や写真に興味をもち始めた。当時は今とは違ってどの写真、絵でも陰部はかくれていた。確かに私も銭湯でしばしば思ったように、人間の体毛は目障(めざわ)りなもので、写真や絵にする価値はないと思えた。長じてから、それをわざわざ細かく描き出す春画を見るようになったが、少しもいいと思わなかった。自分が描く裸体にはそれがなかった。春画のデッサン力(りょく)不足も私には目障りだった。あからさまな反写実的技法は、意識してのデフォルメ(変形)なのだろう。距離感や立体感の欠如には笑うしかない。それで笑い絵と言うのだと、これは私なりの解釈。それに比べ、ギリシャ彫刻は十分観賞に耐えるものだった。裸体自体が美しかったし、体毛の色がくっきり目立つというものでもなかったからだ。それにしても、これらも十分エロいのに、俗な写真や絵とは一線を画した芸術としてふんぞり返るのはなぜなんだろう? などと私はよく思ったものだった。

その頃のある時、私は紙切れに裸体女のエロいサディスティックな絵を描いた。何故そんなものを描いたのか、自分でも判らない。描きたかったから、というしかない。当時私は自分の身体が女っぽくなることに抵抗を感じ、言いようもない憂鬱を抱えていた。また、既に述べたように、よその親に比べて自分の親が何かにつけ冷淡、不甲斐ないことに失望していた。自分の困惑や苦しみを表現したかったのか、女体を呪っていたのか、酷(むご)く虐められる女の絵が出来上がった。一枚の絵に火責め、水責めを同時に盛り込み、なかなかの迫力だった。私はそれを誰にも見られないよう、自分なりにしまい込んでいた。しかし、ある時、女親がそれを見つけ、私に罵詈雑言浴びせた。別件でお小言(こごと)言われているとき、ついでのように、その落書きのことを持ち出して、私をこき下ろした。現物を私に付きつけた訳ではない。しかし「あんなえげつない絵」とか言うので、すぐわかった。女親が、しばしば子どもの持ち物を詮索するのは知っていた。それに私が不快を示すと、こう言うのだ。「親に見せられんものがあるのか!」 それが決まり文句で、彼女も子ども時代、親にそう言われたのだろう。私はいつも心の中でこう言い返していた。

「あるわ、当たり前やろ。見せられんものだらけや」

今回、私は更に思った「親なら、子どものそういうもの、見ても見ないふりしてよ」

彼女の形相、剣幕は凄かった。叱責の言葉は「あんなエゲツナイもの描(か)いて!」ぐらいの短いもので、暴力が伴うわけでもなかったが、私の弱りようは壮絶だった。見つかったことを自分の一生の不覚だと思い、その場で消えてしまいたかった。苦しいだけで何も言えなかった。苦痛というよりは内臓を引きずり出されるような違和感だった。生涯であれほどの屈辱、困惑、後悔を私は知らない。それから数十年後に投資詐欺に遭った時でも、あんなに孤独ではなかった。困惑や怒りはあったが、仲間がいた。被害者仲間や弁護団が。

子どもの頃の苦悩は孤独で、しかも長引いた。次の日も、また次の日も消えてなくなりたいと思い続けた。上手く消えられない自分を情けなく、汚らわしく思いながら、日が過ぎ、年月が過ぎた。この件が、その後、持ちだされることは久しくなく、約50年後に私が指摘した時には彼女は忘れていた。あまりに不快すぎることは忘れるようだ。

 

何十年も、こちら一人で重荷を引きずっていたのかとあほらしくもなるが、あの時死ねていたら、私の勝ちだったか? 負けだったか? 

生き延びたことは、私の負けだったようにも思える。事件後なるべく直後に私が死ねていたら、女親は少しは反省しただろうか。その死因にも思い当たっただろうか。後悔しただろうか、それとも陰気臭い者が消え去って清々しただろうか。…未(いま)だに、こんな混乱と不快で、心かき乱される思い出しか残らない。その件で、子ども時代の私は女親にすっかり心を閉ざすようになった。それまでも心許していた訳ではないが、より疎ましくなった。

むろん彼女だけが悪かったわけではない。エロい事ことごとく毛嫌いさせるようにした彼女の亭主、それを押し付けた親たちだ。虐待図で彼女は自分の強姦被害を思い出してしまったのかもしれない。日々のやりくり、煩わしさで、何とか忘れかけた忌まわしい事件、古傷をこじ開けられた気がしたのかもしれない。彼女は事件そのものは忘れていたが、それによる当時の私のショック、困惑などを知ると、後悔し、しょげていた。悲しそうにこう言った。

「幼児を虐めた自分は地獄へ落ちるかなあ」

幼児ではなく少女の頃のことなのだが、私は黙っていた。ただこうは言っておいた。

「地獄へは落ちんやろ」

その根拠は何と言ったか、よく覚えていないが、多分、「こうして自分が怨み事を喋ってしまっているから、または、故意に虐めたわけではなかったから」のようなことだったと思う。

 

生活苦や亭主への苛立ちで、しばしば子どもに八つ当たりした、と認める彼女にとっては、子どもの年齢や成熟度など上の空だったのかもしれない。

当時の彼女の手に負えなかったことはわかってはいるが、私はこれも言いたい。子どもに、狭くてもいいから、プライベートな空間を与えなかったことも大きな落ち度だった、と。何かにつけ、子どもは窮屈でたまらなかったのだ。

因みに、賢明な養育者なら、子どもに制約与えず自由に絵を描かせ、その子の病の治療や改善に役立てるという。子どもが描くどんな不可解、残酷な絵でも、むろん下手な絵でも、咎(とが)められたり、けなされたりすることはない。私は図工や美術の時間に、しばしば、絵とはそういうものではないかと思った。作品に点数付けたり、上手下手(じょうずへた)を云々して生徒を凹ます教師の仕事っていやだな、と思った。

 

自殺するのはよくないことだと誰もが言う。それで無理に無理して生き延びると、誰もが避ける。生き延びた者を。労(ねぎら)いもしない。敬遠し、追い払う。陰気だとか、ひねくれているとか言って。

 

つづく

前章へ

Bookmark the permalink.