コロナ危機という「とばっちり」

ひとを喰い物にするアンフェアな者たち

 独自サイトの設置準備(その4)

それにしても、ほんの数週間で一国を、わずか数カ月のうちに全世界を、これほどまでにも激変させてしまう新型コロナウイルスとは、一体、何なのか。これは今、世界の誰もが抱いている疑問だろう。ただ、それを、人類を襲うそれ程の歴史的疫病がゆえと納得するのは早計すぎるのではないか。むろん病原体が悪さをしているのは確かだが、そうした《病原体単独原因説》は、こうした世界規模の疫病に関する限りは「木を見て森を見ず」で、あまりな単純視だろう。そこで本稿においては、そうした「コロナ釘付け」の議論は大勢に任せ、このコロナ危機が、なぜこの時期に、かくも根こそぎに世界を揺さぶっているのか、そうした背景を含めた間口を広げた考察をこころみ、合わせて、コロナ後の世界がどうなるのか、それもうらなってみたい。

 

前回に論じたように、この新型コロナウイルスのパンデミック(世界的流行)において、その感染の「人為発生説」は、その発端から、米中いずれもの国家安全保障上の当然の想定――ウイルスは武器として使用可能――であったようだ。だからこそ、両国間では、陰謀論や漏えい説といった相手あばきまでが流布され、極秘にされるべきはずのそうした機密情報であるにもかかわらず、つい口をついて出てしまった、とも受け止められる奇妙な情勢である。「脛に傷持つ同士の、足の引っ張り合い」といったところか。

ともあれ、かくして大国間で情報戦がここまで繰り広げられれば、その感染発生自体の厳密な検証は、WHO(世界保健機関)に対する米中の露骨な介入に見られるように、たとえ純医学目的であっても火中の栗を拾うかのごとくで、純正な発表でも不本意な紛糾に発展しかねない。言うなれば、コロナ感染の一部始終を公式に判定するのは、誰にとっても「鬼門」となったも同然である。

そうした事態にまで至っているこのコロナ問題に関し、通り一遍に流される説明には、もはや受け取る側も慎重にならざるを得ない。また、感染対策として徹底され始めている隔離や封鎖によって、仕事や商売や人生計画を台無しにされている人たちにとって、事態は本当にそこまでを必要としているのかと、やり場のない憤懣や根深い不審がぬぐえない。

そこで、どれもこれもが信頼を置けない情報でしかないのなら、たとえ独自な試みとなろうとも、可能な限りの自力探究に乗り出すしかない。

前回では、この感染の発生に関する「人為説」と「自然説」を並列させて考察したが、そのいずれが妥当かの判断までには立ち入らなかった。だが、人為説を考察した際、「究極陰謀論」を流して不存在を決め込む「頂上作為者」の存在については、それを最終的な課題と目星を付け、それへの言及の必要を予期した。

そこで今回は、そうした目星にそって、コロナ後をうらなう意味も含めて、その「独自な試み」に踏み込んで行きたい。

 

またしても煙幕を張る《資本の意志》

そうした「頂上作為者」の探究の際によく取り上げられる議論が、その見えざる行為者の歴史上の起源として、「イルミナチ」や「フリーメーソン」など、その起こりが欧州の中世にまでさかのぼる秘密組織の存在である。

ただ、これらの組織についての言説は、とかく伝説の再生や集成めいたところが否めず、歴史逸話としてならともかく、現代に生じている具体的事柄の背景説明とするには、いまひとつ論証性に乏しい。

それに、そうした歴史性をもつ何らかの強固な行為者の存在自体が、それこそ「陰謀論」に目くらましされ、不存在とさえさせられているままでは、このコロナ危機の真相の尻尾すらつかめないだろう。そこで、そうした諸議論の中から、日米双方の筆者による、必至の論議を採り上げ、その真相に迫ってみたい。

その第一は、ブラッド・オルセン著の『エソテリック』二部作(邦訳;「東西融合〈涅槃〉思想」の将来性現代の「東西融合〈涅槃〉思想」、ことに「秘密家族」の章)は、それを史実の中に広く追跡した、しかもアメリカ人による自身の属す西洋社会の分析である。

第二は、こうした歴史的秘密組織について、ジャーナリスティックな視点に加え、歴史を追って分析したものが、田中宇著の『田中宇史観:世界帝国から多極化へ』である。ことに、その推進主体と目されるユダヤ民族について、その起こりから現代までの暗躍を一望し、ユダヤネットワークの形成をへて世界の覇権をあやつる隠然たる中枢をなすまでに至った経緯の分析は、簡潔ながら要所を押さえている。

 

そこで以下、これらの議論を私なりにトレースしてみる。

まず、これらの言説から浮かびあってくる視点は、ユダヤ民族という、歴史の流れの中で、幾世代を経ながらも実勢力を継続、蓄積し、マネーの独裁を築き上げ、金融権力にまで到達してきた、冷徹で、貪欲で、賢明で、利己的な、《意志体系》の存在である。

その「意志」は、もちろん、現代にいたる資本主義体制を築き上げる最強の推進力となってきたのだが、その存在は、たとえば王や皇帝のようには自明ではなかった。むしろ、血縁や秘密結社を根城とした隠れた組織との特徴をもって終始してきており、それだからこそ、いわゆる「陰謀論」を自他共にまとわさせた、奇異な役割を演じてきている。

この地球上で最有力ながら《影の世界》を維持してきたその存在は、言い換えれば、資本主義体制という人類の目下のさも輝かしいシステムの推進者が、実はその反面、自ら企図した黒幕としての別像も合わせ持ってきたという、自作自演の矛盾撞着をおこしている。現代資本主義に伴う、このような不幸で隠然たる事実については、私たちの誰においても、広く共有される必要のある、必須の知見と言ってよい。

 

「偽旗作戦」としてのコロナ危機

では以上のような骨子を、もう少し踏み込んで見ておこう。

上記の田中宇は、世界史の変遷の中で、マネーを握って世界の諸権力の背後の支配力となり、宗教界や政界すら牛耳ってきた勢力――彼はこれを「資本の論理」と呼ぶ――と、他方、ことに産業革命以来の近代史において、帝国主義として世界を群雄割拠させてきた国家・軍事力――彼はこれを「帝国の論理」と呼ぶ――という二つの勢力を析出する。そして、世界史の主潮流をもたらしてきた出来事――例えば二次にわたる世界大戦――を、こうした二つの論理のしのぎ合いの産物と特徴づける。というのは、前者は金銭価値と利益最大化を本望とする《マネー勢力》であり、後者は、むろんマネーには関わるが、政治と軍事力を牙城とする《覇権勢力》である。そうした目的も基盤も異なった両意志が、国土や地球さえをめぐって、最終的には手段を選ばず、自己の意図を果たそうと競い合ってきたからである。

そうした分析に立つと、最近の不可解な事件――たとえば「9.11同時テロ」――も、「資本の論理」と「帝国の論理」の間の《暗闘》として捉えうる。むろんその真相を、主流メディアは何も伝えないが、その暗闘自体は休むことなく、白昼でも堂々と繰り広げられている。

したがって、今日のコロナ危機も、その競い合いの影響を受けていないとは到底、考えられない。それどころか、片やでは新型コロナウイルスの発生やその感染拡大にまつわる「陰謀論」が応酬され、他方では、各国の対コロナ戦争が、そのウイルスの正体が解らないまま闇雲に開始され、自らの経済を窒息させるのもいとわず、国をあげて推進されている。

こういう奇怪なコロナ危機なのだが、それがまず、米中という「帝国の論理」同士の競い合いの産物と見なせるとすると、ならば、それのもたらしているこの世界規模の経済崩壊についてはどうなのか。それは、謀略のブローバック(想定外の拡大あるいは逆効果)として捉えられなくはないとしても、それにしても、あまりに間尺の合わない無謀な顛末でしかない。

そこで、この理解不能な顛末について、それを、「資本の論理」が事態の背後で、そうした顛末すらをも見越し、それを承知の上でやらせている「偽旗作戦」(おとしいれたい相手の旗を掲げた偽の作戦行動)つまり「やらせ戦」として見ると、俄然、興味深い視野が開けてくる。

すなわち、下り坂覇権国の米国と、のし上がり途上の覇権候補国の中国という、新旧覇権国同士の衝突――現代版「帝国の論理」のせめぎ合い――を、何者かが仕組んだ「やらせのバトル」として見ると、コロナ危機とは、このバトルが起こしている目算度外視の暴走現象、あるいはそれを目的達成のための必要悪として行っている、と見て取れる。

そこでその誰かを「資本の論理」とすると、もはや時代に即さぬ「帝国の論理」を自爆死させるためにコロナ禍という「わな」をしかけ、それにかかった「帝国の論理」がやむなく行っている戦争状態と見なせる。

したがって、現在、世界を苦悶させている経済的窒息状態は、コロナの感染対策が表向きの理由になっているとはいえ、むしろ全く別の「資本の論理」による思惑が発端のものである。つまり、その経済危機とは、両「帝国の論理」――片や軍産複合体やCIAが主、他は中国共産党の独裁体制――が陥った対コロナ戦との「偽旗」を掲げた交戦によって発生している戦禍ということとなる。

そう見てくると、たとえば、国が起こした戦争によって、それが対コロナ戦であろうと、(かつての日本軍の)対連合軍戦であろうと、その交戦の「とばっちり」を国民がこうむり、生活に困窮するばかりか命まで犠牲にされるとの構図は同じであることが見て取れる。そもそも、戦争とはそういうものである。(そうした交戦で日本は、1945年、対米戦で降伏して以来、その戦勝米国への“無条件”従属国であり、歴代の政権はその最も従順な追随者として、対共産圏の「不沈空母」や対中国の「防波列島」の役を任じてきている)

ならば、ここで目を凝らして見るべきことは、こうした戦禍もかえりみずに帝国同士を疲弊させ、優位に立った「資本の論理」がその意図の先に展望していることは、消耗した帝国同士を横並びにさせる《覇権の多極化構造》とでも呼べそうな体制であることだ。つまりこれは、冷戦の終結以来、世界の主構造であったアメリカ一極覇権体制よりも、今後、いくつかの覇権国が相互均衡する体制の方が、全世界トータルの経済規模はより大きいと見込む構想であり、シナリオと言える。ただし、その最終の目的は何かだが、その体制から「資本の論理」の隠れた主の意志がまさか消えているわけではあるまい。つまり、その体制により、大資本家勢力の手中に入る利益が最大になることにある。そのためには、現在の末期的泥沼状態から、何としても脱する必要がある。

もしこの多極覇権構造が成立すれば、おそらく、表面的な「国際調和」が維持され、世界貿易も安定し、やがて拡大もするだろう。それが最近そう呼ばれ始めているコロナ後の「新常態(ニュー・ノーマル)」のことなのだろう。(こうした発展は、第二次世界大戦後、国連が設立された経緯を思い起こさせる。だがその国連は、常任理事国(米、英、仏、ソ、中)の拒否権が定められていたため、やがて骨抜きになっていったいきさつがある)。

 

盗まれた労働党の看板

私はいま、ここオーストラリアに居て、このコロナ危機に遭遇した自由国民連合による豪州保守政権が、野党労働党の伝統政策を盗用するかのように、実に手際よく国家主導経済体制に切り替えてきているのを目撃している。

あるいは、散々に「国民保険サービス(NHS)」の予算を削り続けてきた張本人である英国保守党とそのジョンソン首相が、手のひらを返したように「サンキューNHS」と持ち上げ始めているその転身のお見事さに、驚きというより「なぜそこまで?」と、彼らの背後にあるただ事でない危機意識を垣間見させられている。

それに、トランプのビジネススタイルの個々取引主義に隠された米国自身の一極覇権国離脱策のあれやこれやである。

ここに、このコロナ危機とは、むろんその見掛けは世紀に一度規模の疫病パンデミック厄災なのだが、それは、上述のように、ウイルス問題が本質ではない(そもそも、似たウイルスによるインフルエンザ流行は毎年のように発生し、負けず劣らずの死者を出してきている)。

その本質を見るヒントは、上記の各国のこうした動きにもみられるのだ。すなわち、そういう疫病大流行への対処という大義名分をかざして、今、いずれの国においても、見事に足並み揃えて取り組まれている上記のような《行進》である。つまり、そうした《国家先導資本主義化》という共通性について、いっそう注視をすべきであり、それこそが、コロナ後の世界の大勢となるだろう地形への地均しを果たしていることである。言わば、新型コロナウイルスのパンデミックとは、世界をそれに向かわせる「一斉点火現象」であることだ。

これについては、今回では詳しくは触れないが、中国の徹底したIT監視による国家管理社会――現代版デストピア(ユートピア〔理想郷〕の正反対の社会)――は、今後のその「新常態」への必須要件として予期されているものと思われる。

言い換えれば、各国のお先真っ暗な経済的停滞、デッドロックとなった財政・金融手段に加えての地球規模の異常気候の連続という、到底抜け出せない泥沼にはまり込んでいたところへの今日のパンデミックという「非常事態」である。もはや誰も、それへの対処に「四の五のと」言っておれる場合ではない、との《空気の蔓延》である。そうして足並み揃えて始まったその厄災との戦いがもたらしている、世界経済の窒息である。果たして、この経済危機は、その泥沼を抜け出るために誰かによって調合さた特効薬であるのだろうか(もしそうなら、それはきわめて危険な劇薬と言うべきだ)。

 

アンフェアな選手たち

今回、世界の頂上に座する不可視の意志の存在について、上記のように述べてきた。そこで改めて繰り返すのであるが、読者もお感じのように――また、その意志の代弁者たちが声高に言うだろうように――、こうした考察は「推論」を越えるものではない。つまり、確かにその「実証」までには到達できていない。不本意ながら、その未到達との指摘は正しい。

だが、その頂上者の《秘密性》とは、現代までの歴史過程において、彼らが、近代化のもっとも貴重な成果である民主主義の広がりを目の当たりにして、その網にかからずに自分達の目的をとげる方途として、それがもっとも有効と選んできた策であったということだ。彼らにとって、いわばその秘密が「バレない」限り、少なくとも対立者からの攻撃はかわせて、その存在は安泰である。言い換えれば、「民主主義の最大の敵」がその「秘密性」であると言える(彼らに言わせれば、「愚民政治の拘束は受けぬ」という腹積もり)。

なぜなら、民主主義は誰の目にも明らかな事柄を誰もが参加して問う、公開性を基盤原則としている。

これまでにも繰り返して触れてきたように、私たちをそれほどにも牛耳っている存在であるがゆえ、私たちがこの不可視な存在に言及しようとすれば、その言及はどうしても、その陰謀論が跋扈する領域に、それを承知でも立ち入って行かざるを得ない。それもこれも、その存在が「秘密性」の背後に逃げ込んでいるがゆえにである。言うなれば、彼らはこの地球上のことごとくの競技で、もっともアンフェアな選手らである。

そこで私たちは、私たちの常識に、そうしたアンフェアな者たちの存在という知識を共有し、忘れないでおくしかない。そういう見えない存在の実在を、祖父から孫へ、親から子へ、友から友へ、人から人へと、信頼をベースとした方法をもって伝えていくしかない。そしてもし、もしもその存在が、言われるような秘密でも強欲でもない公正なものとするなら、そのベールを捨てて、それこそ正々堂々と、民主主義のルールに従った、フェアな顔を現すべきだ。

 

最後に、今回はコロナ・パンデミックについて、主にその背景を探ることで、コロナウイルスに釘付けになる盲点を回避してきた。だが、いまだに、その感染の主体である新型コロナウイルス自体については、未解明な謎が多い。ことに、上述のような背景に関しての「推論」は、確かにそう成り立つのではあるが、そのウイルスが、たとえば、どのようにしてそのように「賢い」行動がとれるのか、そのウイルスの感染の挙動自体に関し、言わば、その背後の意志とウイルスの間の伝達メカニズムについては、いまだ何ら説明されていない。

そこで私は、この新型コロナウイルスの問題は、たしかに、いわゆる「人為説」では説明されないのだが、だからと言って、現行の「ウイルス釘付け」論にも納得できないものを見出す。

そこで、通説である「自然説」ではない自然説、すなわち、それを「自然の摂理」と呼ぶ、現在の科学や医学段階では未解明な領域にもさらに一歩立ち入ってゆく視点を設定したい。その場を、私は「理論人間生命学」と名付けて、その組み立てを準備中である。

ともあれ、次回は、その準備の準備として、そのさわりに臨んでみたい。

 

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