日本の「ダークさ」に抗した孤高

「昭和」とは何だったのか

連載《豪州「昭和人」群像》 第6回(最終回)

この記事は3月26日に繰上げ掲載した記事の再掲です】      

本《豪州「昭和人」群像》は、この第6回を持って最終回とします。その結論回というべき今回は、「豪州昭和人」としては、一見、極めて稀有な事例を取り上げます。ただし、それは一見上ではそうですが、実はその根底で、もっとも昭和の昭和たるところを体現していると考えられるケースです。というのは、これまでのストーリーは、むろんそれなりに固有ではありましたが、一程の同類の中から、特色あるケースをそれぞれ取り出したといった多様性にフォーカスしたそれぞれでした。ところが今回のケースは、間違いなく異色で独特なのですが、しかしそれは、誰にも、どこにでもある、広く共通した身の回りの要素が、ある特異な条件に置かれれば、そのようにきわめて濃縮されて結晶するかも知れないといった、通底する普遍性を示唆しているケースです。

ただその物語の冒頭でお断りしておきたいことは、本稿は、これまでの取材をベースにした実話物語というより、「語り部」がそうした作業を下地に組み立てた“フィクション風”作品であることです。

 

イントロ

私「語り部」がそのXさんに出会ったのは、彼が、以前私が働いていたレストランの常連さんだったからでした。毎週、きまった日のおそい時間帯にやってきて、いつも、店の営業が終わるまで、一人、黙々と飲んでいました。そして、閉店後の片付けが完了するまでの間、体の空いた店長としばし話し込み、店が完全に閉じ終わった後は、場所を移し、二人して飲み直しに行っていました。

私は帰宅に時間がかかることもあって、そうした二人の飲み話にはめったに加われませんでした。そうなのですが、彼が金融投資で財産を成し、早々とリタイア―した人物で、シドニーにはもう二十年以上、一人住まいしているということは聞いていました。

そういうXさんは、一見ではやや若くも見えるのですが、すでに60の大台は越えているということでした。つまり、私とは10歳少々の違いです。

ということは、いわゆる「団塊」後の世代で、その人口上の大津波が、その規模にものを言わせ、何かと戦後の目立ったエポックを作り出したその後の世代です。したがってこの世代は、団塊世代と、その後の1960年代生まれのいわゆる「新人類」との間の谷間にあって、世代的には地味な、「しらけ世代」とも呼ばれた人たちです。

この世代が社会に出た1970年代中頃は、日本経済の高度成長が終わり、1973年の「トイレットペーパーの買占め」や「狂乱物価」で知られる第一次オイルショックをきっかけに、1974年には戦後初めてマイナス成長を経験し、高度成長から低成長へとの移行期に入っていました。言うなれば、「宴の後」のくだり坂の時代です。

 

「女」の怨念

そうした一風変わった暮らしぶりながら、そういうXさんがご自分でもらした「マザコン」という“自称”に、私は最初、「おやっ」と思わされました。もっと若い世代ならともかく、その年齢層の人たちにしては、仮にそうだとしても決して口にはしないだろう、けっこうめずらしいタイプじゃないかと印象付けられたわけです。

そして、これもそれとはなしに語った、日本のトップ大学の出身で、一時は、官僚の道に進みながらもそれを逸脱し、米国の金融機関に移って、1980年代の、日本のバブル化とそのはじけという日本の「金融敗戦」を、言うなれば、外側からそれを観察、体験し、おそらく、それを手助けする立場にさえいた人らしいという話です。

また、そのトップ大学への合格も、自分で「マザコン」と表現されるように、それはどうやら彼の母親の、いわゆる「教育ママ」ぶりのその徹底した“作戦”の戦果であるらしいのです。

そういう母親による子供の“私物化”を話すには、私なら、そんな支配介入には反発気味なふりを伴うだろうと思うのですが、Xさんの場合、なぜかそれに同調しているふしも感じられるのです。

そこのところは、加えて耳にしたところの、父親の女癖の悪さへの母親の憤りが、一人息子をもってして、自分の生きがいの身代わり品にでも仕上げるように、いわば手塩をかけて自分の配下の“戦士”にと育て上げる強い動機となったようでもあります。

両親ともに教育水準は高く、父親にしても母親にしても、自分自身の人生におけるうっ憤のたまり様は、人並み以上であったでしょう。それを父親は、時代の雰囲気の片棒を担いでしまい、そのやり場を「女」に向けてしまいました。

おそらくXさんは、そういう昭和男の身勝手を激しく詰問する母親の語り様は耳にタコのできるほど聞いたことでしょう。どうやら、そんな結果の、いわば女の怨念へのシンパシー、あるいは男を抑制する心理機制が、彼の独身主義の生き方につながっているのではないかと、勝手な解釈をつけるわけです。

母親としても、トップ大学合格までは、未成年の彼に、大いに知恵やテコ入れする余地があったでしょうし、その成果としてのその合格です。

しかし、母親にしても、息子をそのように凱旋させてからは、燃え尽き症候群ならぬ、これでもうやり終わったとの自己充足状態に達していたかも知れません。いうなれば、身勝手夫への息子を使った「リベンジ劇」の終演です。

かくしてXさんは、そうした母親の戦士役から解放され、晴れて自由の身とはなります。ですが、そこはそこで、どっぷり型につかり切ったトップ大学内の環境であるし、卒業すればしたで、官僚世界の毒々しく白々しいエゴ蔓延世界への仲間入りです。

いずれにしても、辟易させられるに十分な日常体験で、そこに自分の若き人生を託すには、あまりに耐えがたいものを見出していたのではないかと想像させられます。

 

海外逃亡

そこで、若手官僚に与えられる海外留学の制度を利用してアメリカに渡り、今度は世界のトップクラスの環境に接します。そのようにして、日本の官僚世界の狭隘さは言うまでもなく、その旧態依然さ、さらに、そうして見出せる日本社会にはらむ決定的な弱点にも気付くようになります。

そしてそれを見計らったように、今度は米国の金融機関からの声がかかり、いわば、引き抜きの誘いがかかってきます。

もしそうした際に、もはや日本には故郷としてのよしみも湧かず、仕事としての官僚も生きがいを託すにはほど遠く、親離れもして独身でもあり、また、そうして世界の金融の仕組みを知れば知るほど、ひとつ、自分でイチかバチかの手にでて、それなりの機会を試してみようとの気分になったとしても不思議ではありません。あるいは、ならない方が不思議でしょう。

むろん、そうした投機のこころみに浮沈はあったでしょうが、運も勘も作用して、やがてはそれなりの成果を得るようになったでしょう。また、そうして成果を得れば得るほど、その成功の実りは、なまじっかな勤労の成果とは、それこそ桁違いのものとなってリターンしてきます。

そうした緊張とスリルに満ちた生活を続けて数年もすれば、もう、あくせくと働く必要もない、けっこうな資産が出来ている段階へと達したでしょう。

そのようにして、やがて早めのリタイアを決意し、その先の居を構える移住の地として、現実的な最適地をオーストラリアに定め、そこに落ち着くことに至ります。

 

煎じ詰まった昭和日本

私はこうしたXさんの選択や生き方を、むろんケースとしては異端ながら、だからこそ、昭和日本の現実へのそれほどに煎じ詰まった止む無い反応が、いかにもに濃厚に凝縮されている事例と観察します。

そのいまだに根強い男尊女卑社会における女性抹殺、男にしてもいったん選んだ職業に心身を尽くす神話の今更ながらの残存、萎縮し切った経済や政治のもたらす先のなさ、それに「出る釘」を面白半分に打ちのめすノー天気なメディア。どう考えてみても、そんな世界をあえて選び続ける選択なぞは、出てくるはずもないのです。

そうした中、そんな問題のいくつかが良きにも悪しきにも混合され“化学反応”した場合、稀有なストーリが生じても何ら不可解ではありません。

言うなれば、昭和日本という現実に対応する意志の厳密解です。

しかしながら、大半の人びとは脱出の元手もチャンスも手にできず、その意志は一時しのぎ解に甘んじるしかなく、誰もがそうした大勢に従っているということです。

私は、こうして描いてきたこのXさんのまれな物語に、時代に「反逆」する孤高な闘いの経緯が秘められていると見ます。

決して、首尾よく財産をつくり、一人のほほんと、悠々自適に、隠遁して過ごしているストーリーではないし、そう憶測されるべきでもありません。

連載最後のこのケースは、特異ながら、日本社会において実に根幹的で、示唆に富んだ意味をもつストーリーです。

 

オーストラリアに映じた「鏡像」昭和

この6回にわたる連載で、私は、オーストラリアを鏡に、そこに自らを映した昭和日本人の生き方を、いくつか描いてきました。

そうすることで、いま、「昭和」がどうして、それほどに人々の関心を捉えているのかの問いに答えを探してきました。

そこに見出されることは、65年にもおよんだ昭和時代が、まずは、戦争と平和の時代に二分できることで、そういう、この世の地獄が現実そのものとなった歴史的禍根をへての、その後の平和な昭和への再出発でありました。

つまり、記憶に残る昭和には、どこか、その戦禍の残酷さやそれのもたらした貧困、そして、その暗さからはい出てまともな生活へと向かう、ある意味での健全さが反映した実に前向きな一致がありました。それが、この連載の一つのテーマである「はつらつさ」の根源であったと思われます。

それが、「平成」なり「令和」なりへと移って行く時、時代は、あえて右に左にとうやむやに撹拌され、もはや右も左も、上も下も、その方向感覚が働かないほどに、混沌さを極めた時代へと至ってきています。

 

「昭和」という深い痛みと「ウクライナ戦争」

その大混沌の極みに、いまや、世界を巻き込み、狂気と言うしかない殺戮の論理が大手をふるい始めているウクライナの戦争状況があります。

「昭和」を二分したかつての戦争は、核爆発がヒロシマとナガサキの普通の人びとの頭上で作動され、瞬時にその二都市の日常生活が焦熱地獄へと陥らされました。その結果、その殺戮地獄の規模が故にと、それほどの〈次元違いの断罪〉が双方の戦争当事者にまかり通されて、その戦争状態がようやく終結にいたりました。

いまのウクライナ戦争は、果たしてなにをもって終結となるのでしょうか。

核兵器の使用の恐れとの報道も流れてきています。まさかそれが、またしてもの〈次元違いの断罪〉行使の準備宣伝戦でもあろうなぞとは、考えるだけでも禍々しい。国際情勢の事態は、そこまでも「手を欠いている」のでしょうか。

たとえどのような終結となろうと、その後には、ウクライナかロシアで、あるいはその両方で、異なったバージョンの「戦後昭和」が、あたかも自分たちがこの世の振り出しにもどったかのように、始められてゆくのでしょう。

本連載に登場した昭和の「はつらつさ」の背後に、そのような深い痛みが潜んでいるのであるとするならば、それぞれの事例は、日本がかつて体験した戦禍の記憶が、それを意識できるかできないかに拘わらず、人びとの心の深層レベルに存在し続けており、それが働き返してきていることの具体的な証しなのかも知れません。

それを「伝統」と呼ぶとするならば、日本のその深い痛みの「伝統」を、いまこそ世界に伝える時であり、それこそが、その「欠いた手」のひとつとして、役立つものなのではないでしょうか。

 

まとめ読み 

第1回 豪州「昭和人」群像 その《はつらつさ》の由来を探る】

第2回 いちばん若い「昭和人」“昭和後日本”の困難に磨かれて

第3回 「氷河期世代」という“非運”昭和人 実りつかんだ豪州

苦肉体験

第4回 「ほんとうにラッキー」日豪ともの良さに生きれて

第5回 見染められた昭和の「お嬢さん」 日豪に架ける家庭を築く】

 

 

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