見染められた昭和の「お嬢さん」

日豪に架ける家庭を築く

連載《豪州「昭和人」群像》 第5回

連載《豪州「昭和人」群像》も5回目となる今回は、世代としては私「語り部」に近いながら、なかなか世間離れした“お嬢さん”に登場していただきます。といっても、お高くとまったという意味ではなく、九州の地元の有力な家柄にあって無垢奔放に育ちながら、一種庶民的雰囲気をお持ちで、それでいて普通にはちょっとできない人生体験を過ごしてこられています。むろん本記事が取り上げるように今は「豪州昭和人」のひとりなのですが、他のケースとは一味ちがう、両国関係のちょっと上層社会同士での奇遇な出会いの末に実った、日豪の国を分かたぬ新たなきずなのストーリーです。

 

奇遇の始まり

さてこの「庶民風お嬢さん」Mさんは、すでに七十歳をこえられた、昭和20年代半ば生まれの、とても小柄な、四人兄弟の末っ子です。

ご祖父は、明治時代の帝国議会議員でもあった方ですが、むしろ地元から推されてなったというのが実情のようで、議員は一期のみで終えます。そしてむしろ実業家として、地元産業や地方団体の育成に尽力されました。

そうした祖父ゆずりの地盤ある境遇に生まれ育ったMさんの父親は、いろいろな事業を手掛けて成功し、また、そうした育ちがゆえの、洋風好みの、趣味の広い方であったようです。

そうした趣味のひとつがオートバイで、これが思い掛けず、オーストラリアとの関係を築く糸口を作ってゆきます。

というのは、その騒音けばけばしい乗り物を、さすがに町なかを避け、高台に切り開かれた広い空き地で乗り回します。しかしそこは、開設も間もないミッション系女学校の運動場で、お父さんはそれを忘れていました。そして、その音を聞いて駆け付けた女校長から叱責されます。ところがお父さんは、その彼女の老齢ながらに堂々毅然とした態度に感心して、自分の娘たちをこの中高一貫する女学校に入れようと思い立ちます。

この女学校は、オーストラリアの修道会により、戦後、日本人への布教と教育のためにと開設されたもので、キリスト教にはゆかりの深い長崎に近いということで、その場が選ばれたといいます。

また同校は、日本がまだ戦後復興を遂げているその時代に(あるいはそうであったからなおさらだったのかも知れません)、洋式の特異な制服を用いていたといいます。それはたとえば、夏服は、看護婦と間違うような真っ白な服に、外出の際はパラソルを携えていたという変わり様です。そんなこの学校に、6歳上のお姉さんにつづいて、Mさんも入学したのでした。

こうして、言わば、お父さんの道楽とこのオーストラリアの修道会の構想との鉢合わせがきっかけとなって、今日のMさんへと連なってゆく、その初めの一歩が進められることとなりました。

 

’60年代に高校生で留学

この女学校は、その教育方針に相互の交換留学制度をひとつの柱としていました。

Mさんは、高校1年の時、その交換留学生の募集に手を挙げます。物怖じをしない性格はあるものの、どうやら大学受験勉強をしたくないというのがその応募の本音であったようです。

とはいえ、オーストラリア滞在中の費用は一切学校持ちでなのですが、当時の渡航費は相当なもので、そうやすやすと応じられるものではありません。しかしそこはお父さんの力で、それがなんとか可能となったということです。

こうして日本を後にした1966年(昭和41年)、海外旅行はまだ解禁されておらず、海外留学、ことに高校生では、きわめて特別のケースでした。

そうして、シドニーにある有名私立女学校の生徒となり、そこでの寮生生活が始まりました。

ちなみに、ここでもその制服は独特で、夏はリボンを飾ったストローハット、冬はベレー帽とブレザーの制服に、ことに外出時にはネクタイと手袋が欠かせなかったということです。

その寮の他の寄宿生の多くは、オーストラリアの地方の裕福な農場の子女たちでした。オーストラリアはその産業中、農業生産の割合が大きく、その子女を過疎な農業地帯から都会に送り出して教育する、そんな特徴的な学校生活を共にすることとなったのでした。

「ホームシックで、すぐ戻ってくるだろう」との父親の予想をよそに、2年間の留学生活を完了させます。本人の言では、英語がろくにできないでは帰れないとの頑張りだったようです。そうして晴れて帰国し、元の女学校の二年後期に編入、そして卒業します。

 

大使館に就職

卒業後、相変わらず大学受験はいやで、英語秘書を養成する横浜のビジネスアカデミーに進み、ここでも寮生活を始めます。

そしてそのまだ一年生の夏、東京のオーストラリア大使館の領事から、大使館の見学の誘いをもらいます。そしてちょうどその際、大使館の職員に欠員が出ることとなって、ことにオージー英会話ができる電話交換手が必要となったことと出会います。

こうして、運よくその空席が降ってわき、秘書学校も半年も済ませていないのに、その大使館職員としての就職が決まってしまったのでした。1969年(昭和44年)、ちょうど20歳の時でした。

当時、オーストラリアは、その貿易関係を、それまでの英国中心のものから、アジアを主とするものに移行中でした。そこに日本は経済成長の真っ只中で、日本が必要とする地下資源や農産物はオーストラリアの主要産物であるという互いに経済構造が補完関係にあって、交易関係が急拡大している最中でした。

 

政府要職者の家族との出会い

こうしてオーストラリア大使館で働いている間、またも予期せぬことが起こります。

というのは、日本に任官してきていた初代の在日「理化学参事官」のご子息が、いまはMさんのご主人なのですが、その馴れそめがそこで生じたのでした。

そのお父さんは、それまではオーストラリア連邦科学産業研究機構の要職に就いておられ、日本との科学技術交換のために日本に赴任してきていました。

そしてMさんは、そうした父親の滞在中を機会に日本を旅行で訪ねてきていたその息子さんと出会ったのでした。ただしMさん本人は、その東京での自立した生活が楽しくてしょうがなく、実家からのお見合いの話も断っているほどで、その出会い自体はさほどロマンチックなものではなかったようです。

ところがその息子さんが帰国してまもなく、どうやらそれがプロポーズらしき連絡が入ります。このようにしてMさんは、その「理化学参事官」のご子息に見染められて、結婚にいたることとなったのでした。

こうして1973年、Mさんは再びその地を踏むこととなり、以来今日まで、オーストラリアでの家庭生活を築いてきておいでです。

そのご主人の家系は、そうした父親に加え、母親も教育を積んで医療検査技師をしてきており、さらにご祖父は、労働者家族の出ながら独学立身の人であったというように、代々、学研的な気風の流れる家柄であったようです。

これはこの語り部の見解ですが、そうした家庭環境に生まれたその彼は、そうした理知的な家風の中で育ってきており、「無垢奔放」なMさんとは逆に、それができない窮屈さを背負ってきたようです。言わば、そうした家系のプレッシャーが、彼の自信形成に負の働きをしていたように思われます。そしてそれが彼の転職癖ともなり、家庭生活にも影を落とすこととなったようです。

ただ、こうした有力家族のお陰で、オーストラリアに嫁いできたMさんは、今度は夫側の両親より、社会生活や身の回りの行き届いたお膳立てを得ることとなります。そうして、シドニーの北隣の海沿い新興タウンに新居を得、今日までの家庭生活の拠点としてゆきます。

 

しっかりお母さん

やがて、1976年に長女を、1978年に長男を生み、いわば型通りなオーストラリア家族の母親となります。そして子供たちは地元の学校に通い、小学校を終え、中学に入ったころですが、Mさんは、あることに気付きます。

それはある意味ではいかにも日本的なのですが、Mさんの目には、公立学校の生活は、宿題もなく、学校が終われば、そのままビーチに行って遊んでくるといった、伸び伸びはしているのですが、あまりにのんびりと時を送り過ぎる生活と見えました。

そこで子供たちには、人をつてに、姉にはピアノ、弟にはバイオリン、また、体の鍛錬として、空手や柔道を習わせたと言います。そしてそうした心身ともの習練が生きて、二人とも頭と体のバランスがとれた健全な育ち方をしていったと見受けられます。

また、家庭の収入面で、転職がちのご主人は時にあてにならないこともあり、パート仕事に出た時もあったようです。そして後に、子供たちに手がかからなくなってからは、前回のR.O.さんのケースように、日本人旅行者のガイド職を得て、通勤の不便も物ともせずに頑張って働きます。

いかにも家庭を気丈夫に守る、小柄もなんのその、「しっかりお母さん」となっていったのでした。

 

教育の進路

ところで、オーストラリアの公立高校には、「セレクティブ」と呼ばれる選抜校制があって、成績優秀な生徒が選別されてそこに入学します。この「セレクティブ」には、学術だけでなくスポーツや芸術部門の選抜校もあり、それぞれに有能な生徒への特別な進路を提供しています。

Mさんの子供たちは二人とも、その「セレクティブ」校への入学可能圏の成績をおさめ、お姉さんはその通りに入りますが、弟さんは、むしろ普通を選んであえて通常校に入ります。

Mさんよれば、こうして、姉と弟が別種の学校に通い、両者が互いに自分の学校の長所と短所を身近に交換できたことは、ふたり共に「セレクティブ」校に通うより、かえって良かったと話します。

こうして共によい成績を達成して卒業し、大学は、姉はシドニー工科大学、弟はシドニー大学の共に工学部に入学します。こうした二人の進路は、どうやら、祖父母譲りの理工系の血筋の現れのようです。

ただここでも弟さんは、エンジニアになるより自分の手を使う仕事がしたいと、「親も知らぬうち」に退学し、大工の仕事につきます。

一方、お姉さんはそのままエンジニアリング学部を卒業し、技術者として就職します。やがて北欧へと異動し、現在ではスイス企業の上級エンジニアとしてヨーロッパで生活しています。

また弟さんは、大工修行をつんだ後に自立、現在では建築業を自営し、シドニー地域を基盤に住宅開発業を営んでいます。

以上のように、お子さんたちの現在の仕事ぶりを見る限り、Mさんの子育ては、その頑張りの甲斐もあって“成功”であったばかりでなく、お子さんたちはそれぞれに、そのプロフェッショナルの分野をリードするまでの力を発揮しているように見受けられます。

そういう意味では、両親や祖父からのDNAを継いだかの活躍をしており、さらに言えば、こうして日豪の両上層社会の伝統や知見を生かした、Mさんご夫婦の世代、そして次の世代が誕生し、社会の重要な部門を担っているということです。

くわえて、Mさんご夫婦には、娘と息子にそれぞれ二人づつ計四人のお孫さんがおいでで、将来、こうした血筋や家族環境を生かしたさらなる発展が期待されるところです。

 

国際的家族

以上のように、このMさんのケースは、日本とオーストラリアの二国間の経済的にも社会的にも好ましい関係が、一人の「昭和人」の人生形成への大きな恵みとなって働いたケースと言えます。

ご本人が「自分は何の決断も努力もしていないのにラッキーに進んでいった」と語れるのも、そういう背景あってがゆえの感慨でしょう。

そこでその「ラッキー」についてですが、これまでに本連載に取り上げたケースが、どちらかと言えば個人生活レベルのそれであったものが、このMさんのケースでは、もっと広い、国同士や地政学的なレベルでの良好関係が、その「ラッキー」をもたらす大きな環境となっていたように考えられます。

言うなれば、ちょっとアドバンスな日豪交流が花咲いた一例と言えるでしょう。

そして、本連載テーマの「はつらつさ」という面でも、本人のみならず、家族や子孫ぐるみに広がったそういう実りが明らかにあって、将来への礎を感じさせられるところとなっています。

 

以上のように、そして既述のケースもそうであったように、国境を越えた人と人との結びつきがあることで、国同士も自然にかつ奥深く結びついてゆく基礎となることが確かめられます。

そこでなのですが、現在のウクライナでの戦禍に視界を移せば、これらのケースと同じように築かれたはずの国際的家族関係が、無惨にもそして横暴をきわめて引き裂かれ、苦難の奈落へと突き落とされているニュースを耳にします。

日豪関係も、昭和十年代には、敵、味方の無惨さの下にありました。

それもこれも、二度と逆戻りさせてはならない、人間の歴史の禍根です。

 

まとめ読み  

第1回 豪州「昭和人」群像 その《はつらつさ》の由来を探る】

第2回 いちばん若い「昭和人」“昭和後日本”の困難に磨かれて

第3回 「氷河期世代」という“非運”昭和人 実りつかんだ豪州

苦肉体験

第4回 「ほんとうにラッキー」日豪ともの良さに生きれて

第6回(最終回) 日本の「ダークさ」に抗した孤高 「昭和」とは何だったのか】 

 

 

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