「ほんとうにラッキー」

日豪ともの良さに生きれて

連載《豪州「昭和人」群像》 第4回

連載《豪州「昭和人」群像》4回目の今回は、これまでの三者の、それ相応に異端な事例とは趣を異にして、年齢的にも状況的にもそのあい間で体験された、良き日本と良き豪州の〈ダブル良いとこ取り〉が成し遂げられたケースを取り上げます。つまり、本連載第1回の末尾に述べた「二つの繁栄を享受」できたとみられる事例です。そこでご本人も、「ほんとうにラッキーだった」と語っておいでです。しかも、ほとんど普通な生活の中でのストーリーであり、ことさらに変わった生き方を選んだ結果とはとても言えません。失礼な言い方になるかも知れませんが、ごく平均的な生き方をされてきた、その結果の実りです。そこでもし、こうした普通で当たり前な発展が、特異なケースに見られるとするなら、それは、その当人側の問題と言うより、それほどまでの、まわりの環境の違い(あるいは一種の歪曲視)の問題です。確かに「ラッキー」なストーリーには違いありませんが、不相応な幸運を射止めたような話などでは決してないでしょう。

 

来年で還暦を迎える一男二女の母、R.O.さんは、どこか下町風のきどらない温かみ味を感じさせる、いかにも良き昭和的人柄をお持ちです。たとえば、本稿のための取材をしていて感じたのですが、私の予断――そうした「ダブル取り」との“成功”を得られるほどの裕福家族の出だろう――を裏切る、大工さんという、現代化しているとはいえ、日本の伝統職人階層家族の出身でありました。その家族は、三人娘をもつ5人家族で、彼女はその長女です。

 

順調な子供時代

昭和38年(1963年)の生まれという彼女が成長したのは港町神戸の下町地域で、当時、日本社会は、高度成長から安定成長に移っていった時代です。お父さんは個人経営の工務店ビジネスを営み、ことに、土地を買い、それを宅地に造成、そこに家を建て販売する開発建売事業に成功し、家の「金回りもよかった」と思い出を語るR.O.さんです。

たとえば、小中は地元の公立校に通いましたが、高校からは大学も併設する有名私立学校に入ります。そして、高校から短大に進む際、いわゆる入試はないものの、志望する英文科は人気があって、選別試験にパスする必要がありました。その勉強の際には家庭教師もつけてもらえ、結果、無事入れて、そのご褒美に、約束のアメリカ西岸旅行を両親よりプレゼントされたということです。

昭和59年(1984年)、短大英文科を卒業、就職したのは大手海運会社で、配属された輸出部のOL〔オフィスレディの略で当時の和製英語〕として、おもに書類作りに従事します。そして、会社が社員の英語力強化のために設けた英会話クラスに参加し、そこで偶然、その教師を務める短大時代の米国人教師に再会、その薦めもあって外国留学を考えはじめます。そして、日々の仕事に頭打ちが見え始めた3年で退職、自分の貯金を頼りに、オーストラリアへの語学留学を実行に移します。

 

家族ぐるみの日豪接触

留学先をオーストラリアとした理由に、時代を感じさせる面白いエピソードがあります。それは、当時、彼女の妹さんが、オーストラリアの生徒と文通――当時「ペンパル」と呼ばれた文通交流が、通常、最初の海外体験でした――をしており、その相手が家出する事件が発生、オーストラリアの親から心当たりを尋ねる手紙を受け取ります。家出事件は無事解決し、そのやり取りを契機に、互いに訪問しあう関係へと発展、それが土台となって、両親も安心して、娘さんを送り出せる環境が作られていったということです。

こうして、昭和も残すところあと2年となった同62年(1987年)、バブル経済の真っ只中、R.O.さんはオーストラリアへの語学留学へと旅立ちます。

入学したのは、メルボルン郊外のラトローブ大に付属する語学学校で、その学生寮での学生生活が始まりました。授業料は年4000ドル、自炊の寮費も週40ドルと、用意した貯金でなんとか賄えたと言います。それに、友人の紹介で、現地のツアーガイドのアルバイトを始め、これがきっかけで、現在までも続く、旅行業界でのキャリアを重ねてゆくこととなります。

本連載第1回で述べたように、1985年以降の顕著な円高とバブル経済は、日本人の海外進出に拍車をかけ、海外旅行者もうなぎ上りとなります。その波に乗って、オーストラリアでも、現地の日本人相手の旅行関係の仕事は、大忙しとなっていました。

 

共通の土壌

R.O.さんは、語学留学は一年で修了させ、上達した会話力を生かして、いよいよ目的とするオーストラリア生活への本腰を入れてゆきます。

そして、ビザをワーキングホリデーに切り替え、働く場も、メルボルンから旅行者のより多いシドニーへと移して、ツアーガイドとしての経験を積んでゆきます。しかもその後の同業界は、バブルがはじけるまでの数年間、まさにブーム状態となり、ガイドの仕事は文字通りフル動員状態で、彼女も若さにものを言わせて思う存分に仕事をし、その分、蓄えもできてゆきます。

そうした折、シェアーで住んでいたアパートからの引っ越しの必要が生まれ、部屋探しを始めるのですが、それに専念できないこともあってなかなか見つかりません。そこで、ガイドの仕事で日々接してきていた一人の親切なオージー、バスドライバーに相談を持ち掛けます。しかし、それでも部屋探しはうまくゆかず、それを見かねた彼から、彼の両親の家の部屋が空いているから、それを使ったらどうかとの提案をもらいます。日本で言えば下宿で、しかも食事付きです。

そうして、ほぼ2カ月間、彼と、彼の両親と、文字通り家族の一員のようにいっしょに暮したことが、彼女のその後の人生を方向付けます。現在の彼女の旦那さんは、この彼です。

その彼の家族は、お姉さんと両親の四人暮らしで、彼はいわば末っ子一人息子。きっと大事に育てられたのでしょう。加えて家族は、舞い込んだアジア人の彼女を、何の偏見も持たず、差別のかけらも見せずに、温かく迎え入れてくれたと言います。彼女も、そうした彼の家族に心を開き、そこに自然に溶け込んでゆけたと語ります。

その両親は、英国からの移民の二世代目で、お父さんはパン職人をしており、お陰で毎日、おいしいパンが食べられたといいます。

おそらく、彼女と彼の両方の家族が共有するそうした伝統職人としての基盤が、生活スタイルの深いところで相通じる、共通の土壌となったのかも知れません。

これは私「語り部」が、労使関係の国際的研究から発見していた事実ですが、人がなにを生業として暮らしているのか、その日々刻々の積み重ねが、その人の広い意味での人柄の形成に決定的に影響します。そして、たとえ国は違い、言葉は不自由であろうとも、通じ合える何かをもたらすのです。

 

二人でした子育て

こうして、家族の一員となった彼女は、デファクトビザを申請して認められ、日本の両親も訪ねてきて、娘が選んだオーストラリアとその家族をたいへん気に入ります。そうして、親戚関係となったオージーファミリーと打ち解けた家族ぐるみの関係が築かれていったのでした。

やがて、三人の子供が、ほぼ2年おきに誕生するのですが、三人の子供を、共働きを続けながら育てるのは大変なことです。

そうした子育てについて、R.O.さんは、たとえば子供の夜泣きの際も夫が起きてあやしてくれ、「二人で共に子育てすることができ、苦労はなかった」と話します。

私は、こうした話を聞いて、日本人同士の夫婦で、しかも現在60歳近い世代の人たちであるなら、その息子や娘の世代ならともかく、三人の子育て体験をそのように語れるケースはまずないだろうと、えらく感心させられました。

彼女は言います。「悪いオージーじゃなくてよかった」(「悪くない」どころか「最高」じゃないですか。)

さらに、こうして出来ていった、何事も彼女が率先して決めて行く“母権”ぶりは、日本でなら、彼の男としての“こけん”を、時には揺るがすことにもなったことでしょう。

しかし、そこはオージー社会。それに彼のおっとりとした人柄や、「ひとそれぞれ」の無干渉主義の社会風潮もあって、それらはそれこそ、「はつらつさ」の源泉となったとうかがえます。

そうした三人の子供たちも、今では、長女は28歳で既婚、次女は25歳独身、一人息子は23歳の学生と、もう成人となっています。

こうしていわゆる「エンプティ―・ネスト〔「空の巣」との意で「親二人だけ」を指す〕」となりつつあるお二人は、これからどう生きて行かれるのでしょう。

「人生100年時代」にあっては、先はまだ40年もあります。

お二人にはまだ、お孫さんはおらず、「生まれたら、おばあちゃんですね」と尋ねると、「おばあちゃんにはなりません」とのきっぱりとした返事。

ガイドの仕事はできる限り続けたいし、収入は得ていたいとおっしゃいます。

確かに、年金年齢に達するだけでも、まだ、数年の働きが必要です。

 

自然で健やかな発展

こうして、R.O.さんのケースを取材してきて、ことにその家族形成の面について、私は、国境がなければとまでは言わないとしても、その越境がきわめて容易であるなら、人や家族同士の関係や結びつきはきっとこうなるに違いないといった、きわめて自然で健やかな発展を見させてもらった印象を深めています。

その一方、今日の世界に目を移せば、そのあちこちで、国境をめぐる不毛な紛争や、まして実際の戦争までもが勃発している状況は、明らかに、人びとの願いを踏みにじるものです。世界のどこに、夫や息子の出兵を強いる社会や国を望む母親がいるでしょうか。

むろん、本ケースの順調な推移の背景には、日豪両国における政治、経済的に良好な状態が、うまく組み合わさったという条件があったことは確かです。

だからこそ、そうした組み合わせが、誰にも平均的に行き渡ることを、ただただ望むものです。

 

今回の《豪州「昭和人」群像》のケースでは、そうした円滑な日豪関係の上に生まれた、私的にも社会的にも、いい意味での「ふつう」であることの豊かさを確かとすることができました。

きっと、長いスパンで、両社会の良き関係形成の礎となってゆくことでしょう。

 

まとめ読み 

第1回 豪州「昭和人」群像 その《はつらつさ》の由来を探る】

第2回 いちばん若い「昭和人」“昭和後日本”の困難に磨かれて

第3回 「氷河期世代」という“非運”昭和人 実りつかんだ豪州

苦肉体験

第5回 見染められた昭和の「お嬢さん」 日豪に架ける家庭を築く】

第6回(最終回) 日本の「ダークさ」に抗した孤高 「昭和」とは何だったのか】 

 

 

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