「そもそも論」であり「訓詁学」であり

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その6)

今回の訳読は、「現代の『東西融合〈涅槃〉思想』」の冒頭に置かれた著者の巻頭言で、本書執筆にあたっての彼の基本姿勢を述べたものです。

そういう意味では、やや形式的役割をおびた部分であり、具体的議論にはいたらないものです。しかし、前回と前々回で述べた「DNAミステリー」を読まれた読者は、それがいったい、どのような立場から書かれているのかと気になられたのではないかと推察いたします。つまり、そういった「立脚点」を確かめたい向きには、当たっておきたいくだりではないかと思います。

先でも触れましたが、原題にある Esoteric という用語は、この訳読では「東西融合〈涅槃〉思想」と訳してありますが、まず、ふさわしい訳語の見当たらない概念です。

揚げ足取り風にいえば、著者の世界に名称をつける“総包括概念”、といった働きの託された用語なのですが、語義的には、“訓詁学”とも訳せなくはない、「そもそも論」にかかわる言葉です。そういう、振り出しに戻った立場から物事を考え直そうとする姿勢の託されたものです。

著者が強調するように、私たちは、歴史全般にわたって、だまされ続けてきている、というのが著者の基本的認識です。だとすると、他のいかなる学問も、そのだましのさまざまな道具であったということとなります。ゆえに、それが「訓詁学」と呼ばれようと、「そもそも論」と呼ばれようと、あらゆる雑音を振り払って突破してゆく「乗り物」が必要なわけです。

それが Esoteric だ、と、私は解釈しています。

いまの世界は、そういう立脚点を必要としているほどに、何も信頼に値しない、ということであります。

 

それでは、その「私の使命観」にご案内いたします。

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