寸足らずの言葉

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その10)

私はこのごろ、自分の用いている言葉が、どうも寸足らずで不自由な気がしてなりません。それはことに、「越界-両生学」に取り組み始めてから、その異次元の世界を表そうとすることに、この現世に適して発達した言葉では、いかにも事足りないのです。いや、より正確に言えば、その表現以前に、その世界を想像すること自体が、今の自分に与えられている言葉を用いていたのでは、なかなか足手まといであるようにさえ思えるのです。

たとえば、エスキモーの人たちは、氷を表現するためのいくつもの異なった用語をもっているといいます。私たちにとって、氷とはこのひとつの名詞で十分のようなのですが、彼らの極北の世界には、違った様々の氷があるのでしょう。そこはまさしく氷の世界です。そうした別々の氷を別々に認識し、異なって表現しないでは、毎日の生活などとても成り立たってゆかないのでしょう。

今回の訳読は、「意識の科学」と題し、誤解も覚悟の上であえて言えば、「主観の科学」の領域に入ってゆきます。

私にとっては、それを自分で《霊性》と名づけている分野に取り組むにあたっても、この「意識の科学」が切り開いてくれるであろう分野は、おおいに期待される分野、あるいは、思考の道具であります。

今回の掲載分では、ことに、「同時」あるいは「偶然の一致」とは何かについて、その導入が試みられています。確かに、私たちは、距離については行ったり来たりという、あるいは容量については膨らましたり縮めたりという、いずれも二方向の移動が可能ですが、時間については、ただ一方通行に、現在から先へさきへと進むのみです。

つまり、ひとつのことに関し、同じ時に違ったことが起こった場合、それは「偶然の一致」として片付けられてしまうのがつねです。しかし、それは「偶然」といった説明しているようで何も説明していない事柄ではなく、そうした違ったことが同時に関わる別次元の何かがあることの証明ではないか、とも考えられます。

少なくとも、「偶然の一致」という言葉は、私たちの目を閉じさせる役目を働いている言葉として受け止められます。

話は飛躍しますが、私はこのところ、音とか光とかは、地球次元を超えた《異次元の言葉》ではないかと思えてきています。

そしてもし、私が霊性となって、現世と越界したコミュニケーションをとることになった場合、おそらく私は、地球時代に用いた言語にもはや興味はなく--つまりそれを通じてコミュニケーションできることがあまりにまずしく--音とか光、つまり、音楽とか光景をもちいてそれを試みるのではないか、そんな予感がしています。

逆に言えば、私たちが美しい音色や光景に感動するのは、そうした他の霊性とのコミュニケーションが、すでにそうして生じていることではないか、とも思えます。そしてさらにひるがえって言えば、自然が私たちに与える感動とは、そうした次元と意味を伝えてきていることではないのか、とさえ思えます。

こう言ってしまえばうがちすぎに聞こえるのでしょうが、私は今、バエさんの形見のステレオ装置から流れてくる音楽が、どうもこれまで聞いた音楽と、どこかが微妙に違って心に響いてくる気がしています。

そのステレオ装置は、銘柄をあげれば、パナソニックのSC-PM17というセットです。クラシック音楽にうるさいバエさんのことですから、きっとけっこう上等な製品であったのではないかと推測しています。それだけに、私がそれまでに使用してきた安物の装置とは、おそらく、音質もレベルが違っているのは確かでしょう。

まあ、物理的な性能の話として、これはそういう違いだけのことかも知れません。

しかし、それを聞く側の耳の方は、これまでとは決して同じではないはずです。願わくば、以前に聞こえていなかった音が、聞こえるようになっているのではないかとも思いたく、あるいは、彼からの越界したメッセージが、その音に託されてそう届いているのではないか、そんな風にすら思えてくる体験です。

 

それでは、今回の訳読、「意識の科学」の章にご案内いたします。

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