宇宙版「尊王攘夷」たる今日

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その26)

日本は19世紀半ば、泰平の眠りを破られる思わぬ外来者を迎え、夜も眠れぬ事態におちいった時期がありました。

そうした来訪がどれほどに予期しえ、それへの備えがいかに可能かはどうかは、主に、地理的条件に左右される外客や外敵との遭遇度や、むろんそれを迎える側の知恵の深さの度によりましょう。

そして日本のように島国であった場合、大陸の一端に位置する地続きの国々と比べ、その孤立の度はいっそう大きく(逆に、外敵来襲の危険からはそれだけ守られ)、実際の外来者を経験した際のインパクトの度は、その孤立度に比例して激しいものであったことでしょう。

そして日本の場合、それは三世紀半ほどの鎖国の時代――建前として、外の世界の存在を秘匿していた時代――の末でしたが、ついに開国の決断を強いられる現実との遭遇に至ったわけです。

そこでなのですが、この地球を、宇宙という大海原に浮かぶ、やはり一つの孤島として考えてみたらどうなのでしょうか。つまり、かっての日本と外国という関係は、同じような危険と摂取の問題を含んで、人類とETという関係に置き換えることができましょう。

さて、そういう設定が作りえたとしても、今日段階での世界の常識は、ETとはまだ現実の話ではなく、せいぜい、SF映画上の架空のストーリーか、一部のマニアックな人たちの論議でしかありません。そしてそうした現在の地球上の状況は、日本のかつての泰平な時代の大らかさに似ています。そういう意味では、上の置き換えは、現在の人類が、日本の《鎖国時代にあるに等しい》状態を示唆しているとも言うことができましょう。

さらに、上のような置き換えの脈略でいうならば、地球上最大の覇権国であるアメリカにおいて、いみじくも傑出した先導者らしく「開国論者」であったケネディー大統領は、それがゆえに、旧弊に拘泥する「尊王攘夷論者」である軍産複合体勢力によって、乱暴にも抹殺されたという図柄が描けます。

かつての日本は、むろん、もろな植民地化は回避できたものの、避けられなかった開国が、西洋の先端資本・軍事支配勢力による事実上の《日本乗っ取り》――少なくとも傀儡あるいは属国化ではあったと私は見ます――をまねいたことを考えれば、この宇宙時代においても、そうした「乗っ取られ」の事態は考えられ、それへの警戒は必要です。(歴史は、一見頑強な尊王攘夷論者が、甘い汁を吸わされてたやすく、愛国者のふりをした開国論者や売国奴に寝返る事例を、度々見せてくれています。もちろん現在でも。)

それにしても、ケネディーの暗殺が、そうした対宇宙的警戒にもとづく正解であったとはとても考えられず、そうして封じ込められた“開国”のもたらす可能性と危険性は、いまだに暗躍する一味の手中で、私的に牛耳られているままです。

 

そこにおいてですが、日本の開国時の内外ギャップとは、片やブルジョア階級の支配や産業革命を体験した《地球の丸さ》を駆使する文明と、他方、ブルジョア階級の台頭はありながら、手工業制に至ったばかりで、しかも、対外政策として世界への航海を自制していた自閉的文明という、そうした両者間のギャップの遭遇がおこっていたことです。

それを、今日の宇宙時代の内外ギャップで考えてみると、片やは、反動式ロケット推進による宇宙旅行は体験しはじめているものの、他方は、反重力推進や《宇宙空間の“丸さ”》を利用したタイム旅行も熟知しているという、そういうギャップと両者の遭遇です。

地球的であれ宇宙的であれ、そうしたギャップと遭遇が避けられないことがリアルワールドであるならば、地球は、“全球”に開放され、“全球”をあげたそのショックの克服の努力を採用するのか、それとも、かってのギャップが(事実上の)乗っ取りに利用された図式が再現され、おそらくは、一握りの地球人による、宇宙の腹黒勢力と結託した、専制ワンワールド体制による地球植民地化がめざされるのか、そうした分岐が始まろうとしているのが今であるのかも知れません。「世界新秩序」といったスローガンが、「全地球植民地化政策」の代名詞でないことを願いたいものです。

そうした「可能性と危険性」の開かれた共有を探って、今回の訳読「逆工学」へとご案内いたします。

 

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