「人間事」ならではの「必然」

北米大陸-初-旅行レポート(その4)

旅の醍醐味は、何といっても訪問地自体のもつ地理的魅力ですが、それに劣らずに興味深いことは、その訪問先で一見“偶然”のように生じる未知の人との出会いです。ところが、その「偶然」というのは、実はそうではなく、世界のあまたの地からそこが選ばれ、そこを訪れた人々が共通して持つ選択や好みがその背後にあり、いわば「類が類を呼ぶ」収れんがそこに生じているのです。その結果、その出会いとは、そうした「類」同士における初接触であるのです。そういう意味で、その偶然は、あってしかるべき必然の産物なのです。そして、そうした出会いを体験したその新鮮な驚きは、旅の持つ地理的魅力に負けぬ旅の深みをもたらしてくれます。あたかも、旅という「ふるい分け」がもたらす絶妙の「縁結び」であるかのように。

 

そうした「旅」は、それが日帰りでない限り、旅先では「宿」が欠かせません。そして「宿」とは、その目的地を訪れるという主要活動の後の、ふっとくつろいで息をぬく場でもあります。

そうした「ひと仕事」をすませた後の宿においては、昼間の疲れやリラックス感から、殻を脱いだ自分や心の本音が表れやすいものです。

旅先のもたらす「縁結び」効果に加え、宿のもつそうした「本音」効果も働いて、そこに接し合った人たちの間に、ふだんの生活上の関係ではまずありえない、じつに寄寓な発見も生まれます。

 

私のオージーの友人は、根っからの旅行好きで、毎年数度は世界のどこかにでかけます。私と彼との付き合いはもう二十年以上にもなりますが、彼はそうした旅先で知り合った世界中の友人らと、気長な関係をまめに持続していて(普通、そうした関係は一時的で終わりがちなのですが)、自分の暮らしや仕事の上にも、その多様な「お土産」人間関係を生かしています。しかもそれは、決して、意図してこしらえているといった様子ではなく、まったく自然な発展のようにも、私には見受けられます。

私は外交的な性格ではなく、まして外国語も不得手で、そうした旅先でのコミュニケーション力に欠けています。そうしたことから、彼に同行し、その旅先での上手な関係づくりを傍観していて、最初は、「人それぞれだな」との程度ほどにしか感じていませんでした。しかしそれが、十年、二十年と齢を重ねるにしたがって、あたかも「石」が「玉」に変じるような、そうした「熟成」が生まれてくる経緯を、いく度も見せてもらうこととなりました。

つまり、彼にとって「旅」とは、地理的な見聞を広げるばかりでなく、人間関係的な新地平を開く非日常的突破口でもあったのです。

彼は実に博識な人物ですが、それが文献的な博識にとどまらず、生きた実地体験に基づく、「現代のマルコポーロ」的、世界見聞録の持ち主なのです。

 

私は、時にそういう「今マルコ」たる彼や、先に書いたような「倹約旅行のプロ」たるTとの旅に同伴させてもらいつつ、自分の「不精な旅」の欠陥を補わせてもらっています。

そうした私が、今回の北米旅行の際、Tに案内されて利用したロスアンゼルスの“宿泊施設”「バージル荘」〔その詳細はこちらへがあります。

そこは、ひとまず「宿泊施設」とは表現できても、それは、いわゆるホテルでも、モーテルでも、バックパッカー宿でも、ホステルでも、アパートでも、古びた安宿でも、そのいずれでもなく、かつ、そのどれかでもあるような、なんとも通常の分類にはなじまない「宿泊施設」です。

もちろん、どんなネット上の宿案内サイトにも掲載されておらず、その利用者はおそらく、口コミ情報によって、その存在を知った人たちばかりのはずです。

この「バージル荘」の主は、私よりやや若い世代の沖縄出身の兄妹のお二人で、十代の末ころに故郷を後にし、一家で南米に移民してそれぞれに伴侶をえたものの、事情あってその地も去り、今はLAのその地に落ち着いているという、いわば、已むに已まれぬ類の「旅」の体験者です。

そうしたバックグラウンドがあるだけに、この「宿」には、旅人の種類を選ばぬ、その必要を満たしてくれる何とも言えぬ包容感があります。むろん口コミ中心の評判ということから、日本人向けとの実態はありますが、必ずしもそう限られているわけではありません。

私の見るところ、この「バージル荘」は、悪く言えば、行方を失った旅人の「吹き溜まり」であり、良く言えば、ぎりぎりの旅をつづける人たちの「宿り木」です。

ことに、その古びたアパートが備える共用の浴室、ランドリー、諸備品そろったキッチンと食堂といった諸設備は、その料金の安さと合わせて、質素でも長期を旨とする旅人には、格好な条件を提供しています。

 

私は、そうしたこの「バージル荘」に、合わせて10日ほど滞在し、実に興味深い発見を得ることとなりました。

というのは、そうした長期滞在者の大半が、皆、私ほどの世代の男性たち――不思議なことに女性は(Tを除いて)一人もおいでではない――で、その誰もが、なんとも曰くありげな人たちであることです。

彼らは、多言な人から寡黙な人まで、そのキャラクターはまちまちですが、おしなべて、自らの過去やプライバシーについては、口数の少ない人たちです。

私などは、尋ねもしないのに「私は医者だ」とか「どこどこ社の○△長だ」とかと名乗られる御仁たちより、そうした寡黙でシャイな人たちを好むところがあります。そして、そういう彼らがほとんど一人残らず私の世代であるというところに、何か、このLAの一角で、日本社会にまつわる一種の“煮汁”がコトコトと煮詰まっているような、ひとつの「終幕」を賞味する思いがあるのです。

もちろん、そうした長期滞在者の中には、30歳代の人(これも男のみ)も数少なくいます。あるいは顕著に、20歳代の男女はいずれも短期か観光本位的でなんとも若者らしきアンビションに欠け、これも、私などには意外な傾向と映ります。ちなみに、世界各地のいわゆるバックパッカー宿などに宿泊すれば、そこは世界からの若者世代でムンムンしていて、見かける限りでは、それなりの熱気の発露が感じられます。

そうした特異さをもつここ「バージル荘」の長期滞在者たちは、ひとことで言って、日本社会からの「脱走組」に違いなく、やや情緒的に言えば、日本に「帰れない」か「帰らない」人たちであるようです。

むろん、世界のどこにも「世捨て人」はいるでしょうが、仮に「バージル荘」の彼らが日本のその例に属すとしても、私には、その同世代性と結構な人数に、もうすこし社会的あるいは時代的特色が反映されている気がするのです。

 

彼らは、この「バージル荘」には誰も独り身で滞在しています。ただし、どこかに家族がいるのかどうか、交わした会話の限りでは定かではありません。でも、海外駐在員であったとか、何らかの青い志をもっていたとかと、若いころの外国暮らしを始めた動機はそれぞれにあるようです。そして、そんないかにも人間臭い古アパートの屋根の下で共棲していることから見ても、その年齢になるまで天涯孤独で過ごしてきた孤高人とも見受けられません。ともあれ、現在、彼らがこのLAの片隅で、口数少なく単身で長期を過ごしていることは、その道中の経緯はさまざであれ、流れあるいは行き着いた先が共にその同一箇所であったとの「収れん」現象を呈しているのです。

 

私は、そうした彼らの中で、一番の年配格の、私より7歳年長のSさんと、やや長々と話し込むこととなりました。

彼も沖縄の、しかも「先島」の出身で、耳学問風のけっこう物知りな人物です。物腰はいかにも穏やかで、話の口調にも内容にもトゲや押しつけがましい嫌味がありません。そのとつとつと語られる経験談は、ただの思い出話として聞き置く水準を超えています。

私はそういう彼に、自分で最近関心を引かされているある議論について質問を投げかけてみました。それは、沖縄の「独立論」です。

すると、彼から、すかさずに返ってきた回答は、「独立はしない方がよい」というものでした。

彼の話によると、今に始まらず明治維新の頃より、沖縄には「独立論」があったものの、そうした運動をしている人たちは、島内ではやや「浮いていた」人たちであったといいます。そして、「廃藩置県」論争をへて「沖縄県」が設置されたあと、そうした人たちは中国に渡って行方が知れなくなったという。

そして、そういう彼から、今度は逆に私に質問がありました。それは「敗戦後、沖縄をアメリカに渡すことに合意したのは誰だか知っている?」という問いでした。

私の思いついた答えは「吉田茂」でしたが、彼の返答は「昭和天皇」というものでした。それを聞いて私がとっさに思いうかべたことは、私の訳読『天皇の陰謀』にその背景が述べられ、ブログでも読んだ「原爆の広島への投下を了承したのも彼らしいとのことですよ」との話でした。

彼は、日本の蹂躙に柔軟な、いわゆる「保守」沖縄人ではありません。しかし、それに説を建てて憤懣する知的古老でもありません。そうした第三者が当てはめようとする分類のいずれをもしりぞける、孤塁をあたためてきた人物であるかのようです。

 

こうして、Sさんとは、多彩な話題に花を咲かせたのでしたが、ある午後、その日の遣り取りをひとまず終えたあと、立ち上がりながら彼がつぶやいたのは、独白なのか、「話が合う」とのひとことでした。

もし、彼と私が、長年にわたる交友が可能な条件にあったなら、それは、私とバエさんとの関係のような、傍で見る肉親も不思議がる、親密な関係が芽生えることもあり得たかと思われます。

私が、日本を飛び出すことをせず、おそらく東京に長居して特定のキャリアを勤め上げるような人生を送っていたならば、こうしたSさんと出会い、ましてや親しく胸襟を開いて会話を交わすようなことは、まず起こらなかったでしょう。

また万に一度、今日の東京のどこかで、彼と隣合わせる機会があったとしても、単なる隣人に終わってしまっていたでしょう。

この地球上には、まだ未訪問の感動的な地が、数多く存在しているはずです。

ただ、最近の私には、そうした地を訪れ地理的感動にひたることに、どことなく淡泊になっているところがあります。

むしろ、それがどこであれ、期せずして生じる寄寓な出会いの方に、互いの生きたベクトルが一致し合う、人間事ならではの味を感じてしまっています。

 

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