新しい思想潮流か

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その3)

訳読中のブラッド・オルセン著の本書『「東西融合〈涅槃〉思想」の将来性』に展開されている話は、私のような「逆算のカウントダウン世代」にしてみれば、余りに遠大な理想論です。そしてそれだけに、その内容にも激しい賛否両論のやりとりが予想されます。むろん、著者もその辺は百も承知で、前回の「本書へのイントロ」のように、その黒白の判断は最終的には読者自身で考えてほしいと、ボールを投げ返してきています

ことに、今回の訳読に取り上げた「フリー・エネルギー」の章は、その論点が《誰でもタダで入手できる無尽蔵なエネルギーが実在している》というのですから、それは”超”革命的です。さらに、そうであるだけに、強力な政治力も握る既存エネルギー陣営からの反論も、並大抵のものではすまないでしょう。

そういう次第で、この「遠大な理想論」は、その未来性という観点では、私のような秒読み世代の”冥土への土産”的な関心とされるより、文字通り、将来のある世代のその未来を託した関心とされるべき議論でありましょう。

そういう絡みで言えば、本書ががっぷりと取り組んでいる構想は、私たちの世代が若かったころ、よほどの頓珍漢でないかぎり、多少はそれにかぶれることとなった、社会主義あるいは共産主義思想に匹敵するような、新たな歴史的な思想潮流を形つくってゆくものとなるのではないか、そう予感させられるものがあります。

それに、かつてのそうした”左まき”思想潮流が、そうとうに観念的な理論をこねくり回していたのと比べ、この新たなトレンドは、その発想の出発点が科学的かつ技術的分野に置かれており、そいう脈絡では、かっての潮流が、どちらかと言えば、文科系人種にアピールしていたのに対し、この思想潮流は、理工系人種の発想を拠り所としている感があります。そして、その最先端の議論とも言えるものが、今回の「フリー・エネルギー」論争です。

また視点を変えれば、現在の世界は、上記のような理工系向け発想がアプローチせざるをえない、今日の「科学」的思考の限界、あるいは、その内でももっとも物質界に食い込んでいるはずの物理学が、物質の根源とか宇宙の起源とかを探索するなかで、物の世界が、敢えてこう言いますが、《心や霊魂の世界》と、まさに交錯し始めようとしている事情があります。そういう意味で、20世紀までの科学や技術のパラダイムは、確かにかつ劇的に、変貌しつつあります。

そうした世界の歴史的境界に差し掛かっている現実を目の当りにする時、その現実から永遠の旅に出ようとしている私たちの世代にとっては、それはそれでパラダイムを越えてゆく「越界の問題」です、つまり、そうした新たな思想潮流の到来感覚は、アプローチの上での違いはあれ、老若両世代に共通する、同時代的テーマであるのでしょう。

まあ、たとえば私が、そうして渡った三途の川の向こう岸から、パラダイム変化の疑問を解くヒントの一つでも返送してくることができれば実に面白いのですが、SF風ジョークはさておき――でもけっこうマジです(少なくとも理論的には、電磁波化された情報は普遍的で、もはや全宇宙はおろか、異次元へすら到達可能です)――、いまこうして第二の訳読に取組みながら、そうした大きな同時代性を見出しているところがあるのは確かです。

 

二世紀前、日本という閉鎖政策をとっていた東アジアの島国が、異国からの働きかけで開国を強いられたように、銀河系のかたすみに位置する太陽系のそのまた一部である地球は、今や、それを閉鎖圏としておく限り、自らの、社会的のみならず、エコロジカルな閉塞死もしかねない、惑星的限界状況へと差し掛かっています。

今回のエネルギー問題につづき、次回の訳読の章は、私たちの生命の起源すら地球起源ではないという、宇宙的な「開国」を立証する議論を採り上げてゆく予定です。

今回のエネルギー問題の議論を通じ、地球起源でいることのいかにも近視眼的な――そればかりか、もはや犯罪的な――視野である実態を検証してゆきましょう。

ではその手掛かりのひとつ、「フリー・エネルギー」の章へお進みください。

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