「氷河期世代」という“非運”昭和人

実りつかんだ豪州苦肉体験

連載《豪州「昭和人」群像》 第3回

今回取り上げる《豪州「昭和人」群像》の3人目は、実はもう、豪州にはいません。すでに日本に戻って6年、「はつらつ」とした日々を送っています。ただし、その「はつらつさ」には、あたかも日本と豪州のアマルガムとも言うべき、そうとうな複雑さがこもっています。というのは、オーストラリアで得た広がった体験をもってしても、自らを「無知層民」だったと覚ることとなった自分の生まれ育った境遇がゆえに、戻った日本社会で暮らす困難さを噛み締めながらのそういう前向きさであるからです。今回は、そうしたもはや日本発のストーリーですが、豪州滞在経験が決定的な転機となった「昭和人」という意味で、このシリーズに取り上げるものです。

 

寿司修行中での出会い

この「語り部」たる私が彼―まさと―に出会ったのは、私が還暦をむかえ、「60の手習い」とでも呼ぶべき「寿司シェフ修行」をしている時でした。

シドニー市街の外縁にある日本食レストランで「修行」を始めてしばらくたったある日、彼は、「今日からの新人だよ」と紹介されて店のキッチンに入ってきました。痩身、色白で、その額は剃りを入れたかのようにきりっと広がっており、その年齢にはめずらしく髪はきちっと整えられていました。そしてその風貌には、日本社会でよく見かけた一見右翼青年風の、刃物のような危ない気配を漂わせていました。これは後で聞いたことですが、彼は、オーストラリアに出発するに先立って、靖国神社に参拝してきたといいます。

そうした初対面でとっさに私の内に昇ってきた思いは、片やで、面倒を避けたいかの傍観を決め込みたい気分と、他方で、一種の使命感にも似た、自分でも意外な、「この若者を、これ以上右翼化させてはいかん」といった、二つの相反する反応でした。

かくしてその出会いは、後にしてきたはずの日本社会が、逃がさないぞとあたかも私を追ってくるかのように、海外に“輸出”し始めていた新たな“Made in Japan”への、私のそうした二反応をもたらしたのでした。

60にして首をつっこみ、2年ほど経過していたその修行は、当初の毎日の皿洗いをへて、シェフ助手の役から、シェフ長が休む際には、臨時の代行もし始めていた時期でした。そして普段は、キッチンの揚げ物部と、しゃり切りや寿司ネタの下ごしらえなどの寿司部門との、両部門をなんとかこなしていました。

その店には、ホールとキッチンの各々に、バングラデシュ、ネパール、韓国、香港、そして日本と、アジア各国からの若者たちが数人ずつ、計10人ほどが入り混じって働いていました。

その一員に加わった彼は、他の同僚とは働くスピードが違うと言ったような、実に意欲的な働きぶりを見せていて、それに終わらず、時には、したい仕事を自分から頼み込んで行くほどでした。まるで、日本人の彼の方が、他のアジアの若者たちを上回る“ハングリー精神”をもっているようでした。

そうした彼は、内心、寿司部門をやりたいようで、手が空いた時は、寿司カウンターの中にまで入り込んでいって、さまざまな雑用を引き受けていました。

そんな時、私は、店の主人より、それまでの下積み“修業”が認められ、寿司握りの指導を受け始めていました。そして、先輩寿司職人が休んだり、日本へ帰っていったりすると、次第に私が、寿司カウンターに立つことが多くなっていました。

どの職人の世界もそうだと思いますが、新米が腕を上げてゆくのは一種の同僚間の競争で、また、新たな仕事を任されるのも、そこにうまく空きが出た時です。そういう、張り合いと運の同居したそれこそ人間臭い世界で、そこにまた人情味もにじんできます。

ともあれ、私のその「60の手習い」の試みは、店が出した通常ならば若い世代向けの求人への異例な応募で始まりました。しかし、それが寿司シェフという特殊職がゆえの人材難のお陰で、私という変わり種が、一応日本人であることも役立って、そうした職場に迷い込む事態となっていました。

そうしたある日、私は、彼から、寿司をやりたいとの気持ちを聞かされ、本来なら、彼ら若い人がそれをすべきであるのに、止むないめぐり合わせとは言え、そうした雇用機会を、事実上、私が奪っている関係にあることを知ったわけでした。

 

「氷河期世代」

そういう彼は、昭和53年(1978年)生まれで、私より32歳年下です。言うなれば私の息子と言ってもいい世代で、店に入ってきたのは、彼が29歳の時でした。こんな両者の年関係から、月日の経過とともに、私と彼は互いに「にせ息子」「にせ親父」と呼び合うようになってゆきました。

日本では、1991年頃~2005年頃に社会人になった人たちのことを「氷河期世代」と呼んでいます。日本経済のバブルがはじけ、それまでの好況から一転して不況に陥り、その風波をもろにかぶって就職難にさらされ続けてきている世代です。彼が高校を終え社会に出たのは1996年で、そこはその「氷河期」のど真ん中でした。

そこで彼が最初についた仕事は俗に言う「フリーター」で、以来、丸々10年間、ただ、その不安定職の繰り返し以外の機会を与えられずに生きてきていました。そこには、賃上げもなければ、将来への見通しもありません。むろん、地位の上昇もなければ、技能の熟達も望めません。

そうした“ないないずくし”の底辺労働の中でも彼は、いい仕事をしようと向上心を燃やし、仲間と話し合って工夫を重ねました。しかし、それをどんなに重ねようと何の実りも見返りも生まれず、やがてそうした10年もの努力が、すべて徒労であったことを覚ります。そもそも彼やその同僚たちは、自分が社会のどんな仕組みの中のどこに置かれているのか、そんなことも何にも知らなかったと彼は言います。

したがって、そうした10年を通して学んだことは、自分がいかに無知であるかを知ったことだと彼はふり返ります。そうして、仕事も、雇い主も、まして社会も、どれもが自分のことなぞ“知ったことではないのだ”と悟ったのでした。

これは彼とのやり取りから得た私の解釈ですが、彼がそのどん詰まりで抱いた心境は、社会から見捨てられたも同然なそんな自分であっても、日本に生まれ育ちそこを郷里にしていることは間違いないんだという、藁をもつかみたい帰属意識でした。だからこそ、オーストラリアの「オポチュニティーの国」(前回既述)の匂いを嗅ぎ取り、もしかの機会を求めて日本を旅立とうとする際、靖国神社に象徴される日本の精神に、自分の決意を告げに参拝したのでした。

 

ナイーブさと人間味の同居

いくらかでも教育ある人には、そういう彼の帰属意識や靖国参拝は、あまりにナイーブで青臭い思い込みと解釈されがちでしょう。しかし、それは本当にそうだったのでしょうか。

つまりそうした教育とは、それを持てた人にはそれが当たり前のことで、だからこそ、それから得たそういう常識がその人の規範となります。しかし、彼の場合、自分以上に無知であった親のもとに育ち、受けた学校教育も貧しさを越えず、だからゆえ、それ以上の教育すら持てなく至っていたわけです。

ところがです。私が彼に接していて確信することは、以下に述べるように、彼の行動や他人への配慮には、実に人間味深いものがあることです。たとえ「にせ親父」でしかなかったとしても、私はその彼の人となりに、彼らしさの発見に加えて親愛ささえ抱ける、まるで身内への誇りと同じものを感じています。

それはすなわち、そうした彼の深い人間性が別面に現れたものがその「ナイーブで青臭い」行いであり、しかもそういう彼らしさは、彼が、なまじっかな教育を受けないできたからのお陰であるとさえ教えられるものがあるからです

つまり、初対面の際の彼の「刃物のような」気配とは、そいういう彼の恵まれぬ境遇にあって自らを守る、自然な武装がゆえのものであったのでしょう。何せ彼には、頼りがいある親もいっぱしの教育も何にもない、素手同然だったのですから。

 

予定外の成果

オーストラリアには、彼はワーキングホリデー(WH)ビザで入国し、私と肩を並べて働き、2年間のWHの期限がくれば、地方での果物もぎの労働を果たして同ビザの延長条件を満たしていました。そのようにして、なけなしの労働報酬から授業料を払って語学学校に通い、高い居住費を払えば生活費は最低以下になろうとも、言葉の習得をもってせめて正規の雇用を得、少なくとも労働ビザくらいは取りたいと望んでいました。

そうした彼の身を削るような豪州生活をつづった手記「再会苦慮」が、本サイトへの投稿として残っています。

その手記は、そんなギリギリの生活を送っていた彼が、シドニーの街路の暗がりに、自滅寸前にまで追い詰められ、浮浪者のようにうずくまっているかってのWH仲間を発見し、さらに身を削るようにして、彼に援助の手を差し伸べる話です。

私は、彼のその希望が成就できないものかと出来るだけの手助けはしましたが、国の制度の定める条件を満たすまでには至らず、やがて彼は、一つの予定外の実りを携えて、日本に帰国してゆきました。その実りとは、WHビザ延長のための労働先の農場で出会った台湾女性との間に愛が芽生えて結婚し、それからの人生の伴侶を獲得できたことでした。

ここで付け加えておくと、どの国もそうでしょうが、その移民政策の根幹は、不足労働力確保のための政策であることです。つまり、国が営む人的資源輸入ビジネスです。オーストラリアも例外ではなく、そのWH制度も、旅行者誘致と人手不足の低賃金職種を満たすための一石二鳥をねらって、その特別の限定入国枠を設けているものです。そうして一時的に取り込んだ労働力は、基本的に、その目的を果たした後は、もう不要とされ、追い返されます。

 

低迷日本での「はつらつさ」

彼はそうして2014年、私の目には“失意”のうちに、いまだ続く「氷河期」が待ちちうけている日本へ、それを承知で帰っていきました。

6年間のオーストラリア滞在によって習得した英語力は、再就職のひとつの武器にはなるとはいえ、今やそれひとつで、熾烈な生存競争戦の勝利者になれる時代ではありません。しかも、外国人の妻を持っての生活において、いくら靖国参拝の精神の持ち主であっても、その神社が彼の正規雇用や外国人伴侶の安住の面倒を見てくれるわけではありません。

まして、靖国参拝を正当と胸張る政治家たちは、国会に戻れば「自己責任」論をふりかざし、政治の責任を果たさないばかりか、雇用の規制条件を無きも同然にまで緩和し、靖国の同胞であるはずの彼やその仲間を、いっそう社会の底へと追いやっています。

帰国後2年目に迎えた年末、彼とメール便を交換した記録( 「ブラック年」の往復年賀メール)が、これも当サイト内に残されています。

彼からのメールは、以下のように書き出されています。

2016年もあと数日でもう終わりですが、2016年はほんとに苦しい年でした。

〔中略〕

8月に転職にトライしたのですが、ブラック企業にはまってしまい、半年間まともな職に就くことが出来ませんでした。

改めて、自分の年齢、実力、日本の思考原理、構造など痛感することになりました。

【注記】この引用文中にリンクしたサイトが上げられていますが、現在その内容は消去されています。その内容の一部であるイラスト2点は、このリンクで見れます。

彼は今では、中古車輸出会社のニュージーランド部のマネージャーとなって、部下を率いています。彼の言では、このビジネスは「だれをも幸せにするものではない」低レベルの仕事で、自分がしたいのは、人に感謝される仕事だと語っています。

それでも、私は今の彼を、冒頭に書いたように、複雑さを込めた「はつらつさ」と形容します。というのは、こうして成熟した彼の人柄が、その深い人間味をもって、とかく不安に陥りがちな若い部下を適切に率い、勇気づけて、例えば、その担当部の売り上げを、このコロナ禍にある一年で40パーセントも拡大する実績を達成しえているという、すぐれたリーダーシップを発揮しているからです。

 

上に述べたのはそのほんの要所ですが、そのような視点をもって、私は彼を、同じ「昭和」でも、古き良き「昭和」からはもっとも遠い「昭和」を生きている、見落とされてはならない、《豪州「昭和人」群像》の一人として採り上げるものです。

 

まとめ読み  

第1回 豪州「昭和人」群像 その《はつらつさ》の由来を探る】

第2回 いちばん若い「昭和人」“昭和後日本”の困難に磨かれて

第4回 「ほんとうにラッキー」日豪ともの良さに生きれて

第5回 見染められた昭和の「お嬢さん」 日豪に架ける家庭を築く】

第6回(最終回) 日本の「ダークさ」に抗した孤高 「昭和」とは何だったのか】 

 

 

 

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