東西融合への確かな歩み

〈連載「訳読‐2」解説〉 グローバル・フィクション(その80)

前回で私は、著者のブラッド・オルセンに面会したことがあると書きましたが、本章を読んで、彼の人となりに、いっそう深く親しめる思いを抱いています。

彼は、かつて、英語教師として日本にいたことがあるのですが、その時の体験をこの章に次のように表現しています。

私は、京都に住む機会があった1991年、素晴らしい人生の教訓に出会った。日本の人たちがどんな種類の教師にも抱く深い敬意に、私は本当に驚かされた。私は、大学を卒業したばかりの青二才にすぎなかったが、日本人が医師やパイロットに向ける目と同じような、深い敬意の〔対象となる〕地位に着いている〔ことを覚った〕。それは私がとても背が高かったから〔背丈2.06m〕でも、私の見解からでもなく、私が英語の教師の仕事をしているからであり、教職に就いていることが、知識を与えて人に貢献するという、良い天職とみなされていたからだった。東アジアの人々にとって、教師であることは大きな栄誉であり、同時に大きな責任を負っているがゆえの、敬服と敬意の対象なのであった。

このように言われてしまうと、日本人として、ことに近年では、面はゆい気持ちにもなってしまいますが、そこに、いかにも彼の誠実な人柄を見ることができます。

そうした認識に立って、あらためて、こうして訳読をすすめてきた彼の議論を思い浮かべれと、その述べていることの真意とただならなさを、いまいち度、確かめることができるのではないでしょうか。

さらに、本章の大半が、彼の仕事のひとつであるサンフランシスコの「何と変わったストリート祭り」に関しており、それになぜ彼が熱心に取り組むようになったのか、その自然な発展の道筋を、そこにうかがうことができます。

それは、今回の冒頭にある、以下の表現に要約されています。

もし世界の平和を促進する仕事をすることが可能で、そしてそれは、広く尊敬される世界的宗教指導者も望む使命だとするなら、あなたはそれをしないでおくだろうか。そして、それが本当に面白い仕事でもあったらどうなのだろうか。そしてさらに、それが二万人の人たちにとっても楽しめるものであったなら。

私が思うに、歴史が浅く、移民者の国でもあるアメリカであるがゆえに、「ストリート祭り」が定着するには,その「新世界」の人びとの「パーティー好き」という“近代的”特性が動機となって、一役も二役も果たす必要がありました。

それが日本では、そうした「お祭り」は、古くからの伝統的行事として、津々浦々に根付いています。むしろ、そうした“古臭い”ものが、近年、新たな眼をもって再認識されてきている動向があるように見受けられます。

ということは、アメリカでもそして日本でも、エソテリック、つまり奥義に帰りそれを再認識するという動きが、東西を分け隔てることなく、人々の心をとらえ始めていると言えるのではないか。

そういう意味では、本エソテリック・シリーズの邦訳タイトルである「東西融合<涅槃>思想」という着想ついて、その《融合》が現実面でも確認できるものとなっていると言えましょう。

 

なお、前回(その1)で、本エソテリック・シリーズの三番目の本(『Beyond Esoteric:Truth and Reconciliation』)が2018年に発刊されるとの記述がありました。この予定記述について著者に問い合わせたところ、まだ未刊で、2020年以降になるとの返答でした。

 

それでは、本章の(その2)にご案内いたします。

 

 

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