ブッダ(仏陀)=その1=

〈訳読‐2b〉現代の「東西融合〈涅槃〉思想」(その47)

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「心身双方の健康の秘訣は、過去を嘆いたり、未来を心配したり、病苦に備えたりすることにあるのではなく、現在を賢く誠実に生きることにある。」――ブッダ(仏陀)

2千5百年前、ヒマラヤの山麓で新たな宗教が生まれていた。それは、ひとりの男ブッダ――神秘的なインドの賢人で、有名なようにイチジク〔ママ、菩提樹の誤りか〕の大樹の元に座して悟りを得た――の考えから生まれたものである。この人は単独で、記録の残る歴史の中で、他の人の精神を解き放つ上で最も重要な進歩を起こしたと言われている。この人はまれではない英雄でもあった。彼はゴータマ・シッダールタとの名で特権階級の王子として生まれ、遂には物的富を放棄した行者僧になった。最終的に彼は「中道」を説き、「悟った者」、より正確には「ブッダ」と呼ばれるようになった。およそ二千五百年前にブッダが教えた原初の言説や手法は、彼の悟り以来、長い年月のなかで変遷していったが、その根本的な教えは現在にも受け継がれている。他の宗教とよく似ているが、彼の哲学の実践手法は、誤った信者によって機械的教条儀式に、また、一部の僧侶によって支配の自己流道具に変容させられていった。これは奇妙な話で、そもそも、悟りのみがブッダにその名前を持つことを許したはずなのだ。「ブッダ」という言葉は単に「完全に目覚めた人」を意味する。

 

一人の門徒がブッダに尋ねた。「あなたは救世主ですか」。

「いいえ」とブッダは答えた。

「それでは、あなたは人の心を癒すのですか」。

「いいえ」とブッダは答えた。

「ならば、あなたは先生ですか」とその弟子はさらに問うた。

「いいえ、私は先生でありません」。

「それならば、あなたは何者なのですか」とその弟子は憤慨した。

「私は、目覚めた者です」とブッダは答えた。

 

ブッダが「目覚めた」と言う意味は、よくあるニューエイジ風の考え――彼がこの世の物質的存在は夢であると気付き、いまやそれを声高く表明できる――ではない。すなわち、彼はその夢の中でまどろんでいたが、その夢、つまりその幻像を自分の現実として同一視する催眠状態から、目を覚ましたのである。

仏教は、その核心において、哲学であって宗教ではない。宗教として何百万人もの信徒をかかえているが、より正しくは、仏教は、目覚めに向けた諸段階として、それに従って生きるべき賢明な諸推奨――自らや他の誰もの恩恵のために――としての特徴をもつ。ブッダの生き方はその典型で、私たち誰もが自身の内に深く知る何ものかに触れることである。その本当の革新性――その教えの意義深い中核――は、どのようにして普通の人がブッダのような尊師となれるかにある。悟りとは、単に新しい人生の新しい視界である。老僧の説教のように、人は水を汲んだり薪を集める前に悟り、水を汲んだり薪を集めた後に悟れである。ブッダは、神であるとか、この世への使者であると宣言したことは一度もない。彼はただ、自分は人間であり、避けられない苦痛と受難の世界で、一種の静寂さ――その実践で他の誰もが得ることのできる――を発見したと語る。私たち誰もの内のそうした典型的な旅は、私たち自己実現に向けて努めることである。

ブッダは自らの教えを、時代に左右されないように、簡略化し要点化した。世界は苦痛と悲しみに満ちており、それは現在もなお主たる警告として残っており、幸福と美しさはそれを見る者の目に発見されるものである、と彼は知った。彼自身の個人的な苦難にもかかわらず、彼は静寂さを見つけ、そして彼の教えの根本は、「私はそれを発見した。だから、あなたもできる」となった。ブッダは、人生が楽しいと発見するやいなや、どこにでも喜びはあると発見した。彼はすべてが視野の問題であることを知った。幸せな人は幸せであり続け、他方、怒っている人は怒り続けているのである。

聖人ダライ・ラマ――チベット仏教徒の指導者――は、「誰もが幸せを望んでおり、私たちの人生の目的は幸福です」と述べている。ダライ・ラマは非宗教的な仕方で「あなたの主人はあなたである」と宣言し、私たち一人ひとりが最高の目的のために努力するよう奨励している。往々にして、倫理的な助言の最も根幹は、その人物やその背景とは無関係に、最も理にかなったものとなっている。ダライ・ラマの言葉である「親切さは私の宗教」は車に張るステッカーともなっている。そして彼はさらにこう述べる。「人間の本性は基本的に、優しさと善行だと確信しています。もし私たちの行動が私たちの親切で愛情のある性質に従えば、自分自身だけでなく、私たちが属する社会にも大きな恩恵がもたらされます。私が通常、普遍的宗教と言うとき、この種の愛と優しさのことを指しています。誰もが、信者だろうと信者でなかろうと、それを必要としています。この姿勢が道徳の根底です」。つまりダライ・ラマもまた、2500年前のブッダの教えを的確に、今日に引き継いでいる。

 

ブッダの伝記

紀元前642年5月、ゴータマ・シッダールタという名の赤子が王族に生まれた。ブッダの生涯は、ルンビニ――現在はネパール南部の小都市――の宮殿の壁の中で始った。ブッダが生まれた時、ルンビニはヒンズー教の信仰篤い町であった。今日、このブッダの出生地は、あらゆる仏教徒のメッカとなっており、仏教の4つの神聖な目的地の一つである。仏教徒の巡礼先のその4つの聖地とは、彼の出生、悟り、最初の談話、そして死の場所である。これらの事はすべて、戸外の自然の樹木の下で起こった。それ自体を特に重要とするわけではないが、仏教徒は常に、環境と自然法を尊重してきた理由を説明できる。

ブッダの教えは、インドの聖都ヴァーラーナシー近くのボドガヤと呼ばれる所において、彼が到達した「比類のない至高の悟り」の瞬間の直接的産物である。彼の多くの深い認識の中で、新たな到達者ブッダは、人間の基本的な誤解を解く道を発見した。彼は、自分や誰かが自身の真の性質を追究したとき、それは自分や他者への同情心に至りつくことを知った。そして、人の真の性質が不滅の霊性であることを理解し、物的世界の不永遠性を受け入れることがそれに続き、それには執着をもたないようにした。私たちの真の性質に思いをはせることの必然的結果は、私たちがすべてつながっているという認識である。この認識に達することはまた、私たちが他者を値踏みするのではなく、他者の内の本質を見ることを志すことを意味する。ブッダは、ほとんどの人に苦しみをもたらしている3つの害毒が、貪欲、怒り、無知であることを認識した。そしてそれに気付くことで、貪欲が回り巡って寛大さに、怒りが変じて優しさに、そして無知が知恵となる世界に会う可能性を引きだすと見た。

ボードガヤで悟りに到達した後、自分が認識したものを人々に披露するために、ブッダはサールナートに行った。そのサールナートの鹿公園が、最初の談話を説いたところで、「ダルマ〔法〕の車輪」が回り始めた瞬間である。この聖なる場所で、まずブッダの最初の教えが広まり始めた。ダルマは彼の教えの法典だが、彼はまた、群衆からの質問に答え、対話した。ブッダは口頭の訓話を与えた後、自分が言ったことを誰もが良く判ったかどうかと尋ねた。ある男が「私は幸せがほしい」と言った時、まずブッダは、その「私」を除きなさいと言った。なぜなら、それが「エゴ」であるからだ。続いて、「ほしい」を除きなさいと言った。なぜなら、それは欲望であるからだ。そうすればほら、いま、あなたには「幸せ」だけが残っている。

ブッダは80歳の時でも、教えを説いて歩いていた。ネパール国境近くのヒラニャヴァティ川岸のクシナラ村に到着した際、彼は傷んだ豚肉を食べて病気になり、自分の終わりが近づいていることを覚った。彼は弟子に自分の寝床の用意を頼み、二本の木の間で、北に頭を向けた。ブッダは自分の死を完全に見通していた。「変化しない何ものもなく、生あるものはみな衰退がさけられない」。このことから、物質世界とて永続せず、それが私たちの拠り所ではないことがわかる。本当の幸福とは、朽ち果てない内なる自己との絆である。この自己への絆を維持することは霊性的な行為である。したがって、人が変われば、文明もすぐにそれに続く。ブッダは、すべての人間が、大きかろうと小さかろうと、幸せになることを望んだ。「あらゆる造られたものは滅び去る。飽かず、弛まず、努力せよ」。これは、 彼が世を去る時の最後の言葉である。

 

中道

ブッダの教えの最も不朽な特徴は、彼がこのような深い知恵を、今日もなお有効な真に根源的な言葉で表現しえていることである。「4つの貴い真実」と「仏教の8つの道」は、いかに建設的な人生をおくり肯定的な因果応報を蓄積するかの方法について、明快な要所を示している。仏教に関しヒューストン・スミスが『世界の宗教』の中で論じているように、ブッダは人々の関心を引き付けるため、この世での暮らしを追求した。人生は苦諦、即ち「この世は狂っている」がゆえに、苦悩が絶えない問題である。これは根源的な貴い真実である。欲望は苦しみを引き起こし、欲望の消滅は人を苦しみから解放する。こうした問題への対処法を、彼は「八重の道」とよんだ。すなわち、正しい見方、正しい意図、正しい発言、正しい行為、正しい生計、正しい努力、そして正しい意識である。これらの正しい実践と考え方は、実際に、そう決断する誰もに、欲望から解放され、個人的な悟りを達成する方法をもたらす。これらの教えは簡明なもので、いかにして名誉ある人となり、人を後戻りさせる恐れのあるいかなる人生の落とし穴からも逃れる道を示している。

仏教の教えの真髄は、卑小なエゴたる自己とは幻像で、それを自分とすることは不幸の元となると説いている。霊性の実践を通じて、悟りへと真剣に努力するなかで、人のエゴはしだいに解体でき、その影響はしだいに減少する。さらに、人は、いずれへの両極端にも走らず、中道をたどることができる。中道とは、心の変化であり、エゴが自己意識から取り除かれるなかで受け入れる変化で、すべての当事者にとって最良の結果をもたらす。

中道は極端の間でのバランスを取る。それは、弦をもった楽器にたとえられる。もしその弦があまりに強く張られると、その楽器は壊れてしまう。もしその弦があまりにゆるいと、その楽器は音を出せない。しかし、弦がちょうど良く、その中間で調整されているとき、その楽器は美しい音をかなでる。

私たち自身の世界観に知恵をもたらすためには、他の教訓、たとえ輪廻転生さえ、信じる必要はない。このことは、すべての宗教についても同じであり、それはたとえ無神論であってもそうである。もし良し悪しを選り分ける手間をいとわないのなら、中道の観点において見れば、すべての宗教は深い知恵を含んでいる。だが、いつであろうと宗教や神学をあまりに深刻に受けとると、必然的に論争が生じ、紛争に巻き込まれる。『A Course in Miracles〔奇跡のコース〕』〔アメリカ人心理学者ヘレン・シャックマンがキリストの声を聞いて書いたとされる本、1976年出版〕では、「普遍的な神学は不可能だが、普遍的な経験は不可能でないばかりか、必要でもある」と述べている。私たちの誰もが人造宗教の欠点を完全に理解するまで、私たちは終わらない失望にさらされる運命にある。しかし、仏教は真理をめざす一つの教えにすぎないのだが、どこにも当てはまる教えと誤解されやすい。仏教の最も純正な形では、ただブッダの直接の教えを使用しているのみだが、それを実践すればより大きな覚醒と心の平和の体験につながる哲学である。仏教は、多くの形而上学的または宗教的体系と同様に、主に2つの教派――小乗仏教と大乗仏教――に分かれている。小乗仏教は、瞑想を通じた人間の努力にいっそう焦点を当てる。大乗仏教も人間の努力を強調するが、それは神の恩恵によって支えられるもので、形而上学と儀式を精緻化し、重要な到達は同情心を持つことであるとする。長い年月を経て、教義の差異はあまり顕著ではなくなっている。おそらく人々は、個人的な変容のための異なった処方が、同じ目標――有名な「月を指す指」――を持つ異なる形式であることを認識しているのであろう。禅師は、卓越した平和と喜びの経験――言葉での論理と説明を超えた体験――だけが説得力をもつと説いている。

心はあたかも猿のように落ち着いていない。それは止めどもなく流れる川ようであり、時から時へと変化している。至上の喜びは瞑想と覚醒を通じ、すなわち、その「猿の心」を観察し静める教えによって、瞬間に達成することができる。私たちは卑小な自己に自分をゆだねるしかないが、至上の喜びははかなく発散しやすい。節度は、生活習慣として、私たちが遭遇する多くの荒々しい諸事を通じて、私たちに手助けを与える。私たちは登山の際、頂上に到する前にベースキャンプを通過する必要がある。仏教の実践にとって最も重要なことは、人間の苦難に対する解決策である。受難は、私たちの持つ卑小な心が宿す苦しみから生まれる。より高い精神の助けを借りて苦悩を追い払うことは、心の安らぎの障害を取り去ることとなる。ブッダは私たちに尊い「八重の道」つまり、自分自らの道を切り開く秘訣を与えた。現実を理解することは、人を尊くさせる。それは、身分や性別や人種を作らない。悟りは、心の制御であり、自由の究極の形である。

 

悟り

瞑想とヨガは、ブッダの誕生した頃にインドで確立された実践法である。一人の成人として、ブッダはこれらの実践法を最大限に取り入れたが、一時的な回避とはなったものの、受難の問題自体を解決することにはならなかった。苦行主義は、彼の身体を極度の厳しさと苦痛にさらした。彼は自分の現世的必要のすべてを断ったと感じていたものの、彼は痩せ、ひどく衰弱した。彼は、人生は往々にして苦痛であり、あらゆるものが結びついている、と理解した。その時、彼は、自分を前進させるために自身を飢えさせる必要はないと気づいた。彼は、飲み食いする普通の人間であれ、という結論に達した。これが、中道の最初の表明であった。

ボードガヤはインド北東部の小さな町である。巡礼者は過去1,600年以上にわたり、ここを訪れ、釈迦が悟りをえた場所を体験しに来ている。世界中の3億5千万人の仏教徒にとって、ブッダが菩提樹の下で瞑想中に輝いたというこの場以上に聖なる場所はない。ボードガヤでは、その木の子孫がまだ生きている。この菩提樹の木は、いまだに世界中の仏教徒に、悟りの場を提供している。

涅槃つまり悟りに達することは目標である。涅槃の文字通りの意味は「消し去る」ことである。これは、何も無くなるという怖い意味での消滅を意味するのではなく、むしろ、常に存在する真の自己を残して、虚偽または限られた自己が徐々に切り離されることである。ブッダは悟りに達した後、誇示したり、吹聴したりせず、あるいは、他の仏教徒も自分が悟りに達した時、そうはしなかった。その代わりに、悟りの前もその後も、水を汲んだり薪を集めたりと、自分の生活に精を出し続けた。仏教徒は理に立って研鑽を続けることを奨励され、もし正しいと感じない場合は主題や感情を拒否することができる。悟りを得ることは、再生の束縛を断ち切る唯一の方法である。というのは、人の教訓は学んで得るもので、物的世界に立ちかえる必要はないからである。

伝承によると、ブッダは倫理と正しい理解を重んじた。彼は、一般的な人々の抱く神と救済の概念に疑問を呈した。彼は、たとえ神であろうと、因果応報の条件に左右されると説いた。ブッダは、志ある人々――菩提〔ボダイ〕とよばれる霊性の目覚めと本来の真実と現実を知る涅槃の道を求める人々――のためのひとりの案内人であり先達にすぎない。洞察についての仏教の体系は、神によって明らかにされると信じられている行いではなく、心の真の状態の理解――そうした教えに導かれた霊性の道を行く個人によって見出されなければならない――によるものである。ブッダは、「教えを見ている人は私を見、私を見ている人は教えを見る」と述べて注目している。

ブッダは、サールナートの近くでの最初の説教において、「私たちは既に悟りに達しており、それは私たちの中にある」と説き、彼が「ダルマの車輪」と呼ぶ行動にとりかかった。サールナートは、世界でもっとも崇められているガンジス川岸にある聖都ヴァーラーナシーの近くに位置している。私たちの毎日とは、まるで奇跡のようだとブッダは指摘した。すべてに原因と結果がある。暴力は常に暴力を生む。 私たちは人間であり、私たちは間違いを犯すが、重要なことは、間違いを訂正し、心を前向きに保つことである。もちろん、私たちは死や戦争のニュースを聞くと悲しい気持ちになる。だが、人間はとてつもない破壊を引き起こしうる存在で、こうした行為が、恐怖、必死、エゴや卑小な自己に基づくならば、それは論理的なことですらある。同様に、前述の『A Course in Miracles』によれば、エゴは「疑心暗鬼から悪意まで」広範囲に広がっている。

以下の諸点は、ブッダに寄与した悟りへ至る基本的な数ステップである。最初は、4つの貴い真実で、その要所は、苦難は存在の本然的な部分であり、その苦難の起源は無知であり、その無知は執着と渇望となって現れる。だがその執着と渇望はなくすことができる。そして、貴重な八重の道をたどることで、執着と渇望の終止がもたらされ、ひいては苦しみの終結へとつながる。八重の道とは、正しい理解、正しい考え、正しい発言、正しい行動、正しい生計、正しい努力、正しい思いやり、そして正しい関心である。

こうした方法は、ひとつの概念――私たち個々は魂を持ち、そして各々の魂はその生涯にわたって達成が求められる霊性的な課題を担っている――に基づくと宣せられている。もし私たちがそれを生涯で正しく得られなければ、私たちは元に戻ることとなり、決定的な教訓が学ばれるまで、いく度もいく度もやり直しを繰り返す。最終的にその準備が整った時、そう欲さない限り、もう輪廻を繰り返す必要はない。菩薩〔ボディサトバ〕は、人類の進歩を助けるために望んで戻ってきた先に悟った魂である。物的な心の偏見はエゴとつながり、他方、魂の心はより高い目標をめざす。魂の中には心があり、悟りに到達するために、最終的には人の人格に統合し、変化する。「依存的な出発点」は、どんな現象も他の現象――過去、現在、未来にわたる原因と効果の複雑な関係にある――の「存在」がゆえに「存在する」と述べる。心の平和は、言われるほど簡単ではない。 1970年代、ヨガ師匠ラーム・ダースはユーモラスにこう延べている。「あなたが悟りに達したと思ったら、あなたの家族に会ってみるとよい」。

悟りについて考える際のもう一つの方法は、「ブッダの目」――あらゆる方向を一度に見ることのできる「知恵の目」とも呼ばれる――という概念である。「新しい目をもって見る」とは、いかにも仏教的な隠喩である。物事を妨害なくありのままに見ることは、悟りのもう一つの表現である。この目標へ向かう途上では、「第三の目」といった開眼が起こり、超然的能力がエネルギーへ変じると言われている。遠隔視や、他の次元との接触も可能となる。そうした次元では、覚醒した人は宇宙と等身大となる。特定の次元では、人は、私たちの次元では見えないものの、額の上に鏡を持っている。誰もがこの鏡を持っているが、ほとんどの人にとって、私たちの脳の松果腺が機能していないために、実践を積んでいない者の鏡は内側を向いている。実践をつむと、この鏡はゆっくりと向きを変える。それは実践者が見たいものを映すことができる。しかし、その画像ははかなく、絶え間なく前に後ろに反転しており、毎秒24コマの典型的な映画よりもずっと早く動き、画像を連続的かつ明瞭に見せている。悟りをえたとする個人は、この現象を経験したと述べている。

ボドナス・ストゥーパはネパールで最大の仏塔で、中国が占領したチベットの外でのもっとも神聖なチベット仏教寺院である。それはカトマンズのチベット文化の中心であり、ブッダの目をはじめ、仏教の象徴に富んでいる。この仏塔はカトマンズの東部郊外、ボウダの町にある。(with permission, (c) Brad Olsen, 2018)

 

「私はすべての人々のために、自身の悟りを追求している」とは、『菩薩の誓い』である。この誓いは、他の人に奉仕することで、〔それにより〕自身の周りにエネルギー場を放射することができ、他の人が接触してきた時、実際にその人がどのように考え、感じるかを変えることができる。マハリシ効果が実行されているときも同じことが言える。これは、瞑想に集中している人々の集団が、世界のマクロな変化に影響を与えることにもなる。

師匠によると、悟りの瞬間は、私たちの内なる存在が「特異〔ローカル〕な自己」の意識と関心を完全に放棄し、より大きな普遍的な意識と完全に合体する時に起こる。この統合は、通常の思考過程を放棄し、一般的には至福として知られている存在の忘我的な覚醒に入ることによってのみ達成することができる。東洋の実践では、これはクンダリーニ・エネルギーの放出――システムを通って上向きに移動し、身体の受容性を最大限に開放し、頭頂のシャクチの力をえて最大化する――によって達成される。そして、それのみによって、人は自分の本質と本源に気付くようになる。この本源は、神的で、夢中にさせる普遍的なエネルギーである。その瞬間、それ以外のものは無用となる。この瞬間、すべての極分化が超越される。人は、一体性、統合、自己、意識、至福、超越、無限との結合、および「ハスの開花」といった用語の意味を完全に体験する。それらはまさにこの経験によって感じるものである。開かれた頭頂へと立ち上ったエネルギーは、脳のうちに脈うち、まるで多くの花が無限の至福の中で開花したかのごとくである。これらすべては、神的な本源から、自身の頭への恍惚なエネルギーとして流れ、衰えを知らぬ表現をこえた圧倒的な愛を放出する。そうして人は悟りに達する。

 

 

つづく

 

 

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Modern Esoteric: Beyond Our Senses, by Brad Olsen

http://cccpublishing.com/ModernEsoteric  www.bradolsen.com

with permission, (c) Brad Olsen, 2018

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