「ガンにも認知症にもならない」というダブル・ギフト

今回、前立腺ガンからのひとまずの回復を背負いながら日本に滞在していて、たどり着いたある思いがあります。

それは、人が誰かと伴侶関係をつくってゆくとき、その人へのプレゼントとして何があるだろうと考えると、ことに次世代生産期を終えた「人生二周目」にあっては、それは、地味ではあってもなかなか至難な、健康を維持し続けること、あるいは、その人の“荷物”とならないようにつとめることという、しごく当たり前な思いでありました。

つまりは、「ガンにも認知症にもならない」二周目期を、どうにかしてでも送ってゆけないか、という希望でありました。

そしてそれは、巡りめぐって究極は、自分にとっても、なににも代えられぬギフトになってくれることでもあります。

 

先にも書いたように、私は、ガンも認知症も「生活習慣病」に含ませるべきではないかと考えています。つまり、生活習慣の改善によって、ガンも認知症も、百パーセントとは言わずとも、かなりの程度で、予防や回復が可能であるということです。

むろん、今日の医学や生活の常識として、「ガンにも認知症にもならない」ことの現実的な困難さは承知しています。

しかし、だからと言って、そうなってしまった場合の計り知れない重荷を、社会や制度が肩替わりしてくれることに期待するのはさらに非現実的であり、結局は、その多くを家族の肩に負わせることに至りつくのは、悲しいながらも今日の現実です。

したがって、現実的選択として、社会や制度の貧弱な肩代わりで目をつぶるか、それとも、家族の努力に期待するかのいずれかとなります。もちろん、こうしたどのみちもの悲惨は二者択一どころの問題ではないでしょう。ゆえに、そんな社会や制度の肩代わりを不十分ながら活用しつつも、個人にできることとして、そうした困難の事態をなんとか回避する努力をめざすということとなります。それはそして、伴侶や家族に対して自ら果たすべき責任や愛情として、きわめて現実的で自然な選択ではないかと思われます。

また反転していえば、自分が伴侶や家族から愛情をもってむかえられたいとするなら、それこそがひとつの大切な要素となるのではないかとも思えます。

だからこそ、ジョークのにおいも含ませながらも、「ぴんぴんころり」が一番いいと言われるのでありましょう。

蛇足ながら、若い世代の婚活や将来計画にあっても、自分のパートナーが、今後にどのような生き方をしてくれるのか、その判断に、相手の容姿や経済的能力に勝るとも劣らずに、そうした健康への努力や“能力”を加味することは、充分に考慮されるべき事柄ではないかとも思われます。

 

今回、これまでのほぼ半年ほどにわたるガンとの遭遇とひとまずの克服体験をつうじて、今後、「出口」へと向かう着陸態勢に入りながら、この「ガンにも認知症にもならない」という困難な着地をどのように実現させてゆくのか、いま、そうした未知の課題への「出発点」に立っている思いをひしひしと噛みしめています。

この号より、これまでの『私共和国』の「私の健康エコロジー実践法 =実遭遇編= 」を改め、「= 長期戦編=」としたのも、そうした思いがゆえにです。

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