初夏、日本のローカルを旅する

(その2)「伊勢詣古道」をたどるペダルの旅

日本という自分の生国を、「一時帰国」として旅する体験は、年々、新味を帯びつつある。

それはどうも、その生国がスローペースながらも変わりつつあることと関連し、また当の本人も加齢につれ、その地の古えのものにかえって新鮮なものを見い出すようになってきていることも手伝っている。それに、意図して外国暮らしを続け、あえて身にまとってきている「無・帰属志向」があるのだが、それの一方で期せずに芽生えてきた、国や社会には限られない普遍土壌を掘り起こしたいとの気持ちも、別の角度からの照明を与えている。そういう地球的、ひいては宇宙的広がりも、その新味さにまつわるバックグラウンドとなっている。

そういう次第で、すでに観光気分での訪問には到底なれず、かと言って、旧知を温めたいとするのも時にお仕着せがましく、ましてや、今さら古き良き郷里心なぞにひたれるはずもなく、何やら“半外人”風のひとり旅が落ち付く格好となっている。

そこで今回は、愛車「バーディ(折り畳み自転車のブランド名)」をオーストラリアより持ち込み、渥美半島から志摩へと、初夏の日本の“地ずら”をペダル旅してみることにした。

 

「伊勢詣古道」をたどる、愛車「バーディ」での三泊四日

名古屋で知人との面会を済ませた翌朝、東海道本線で少々もどり、浜名湖畔、舞阪の駅に降り立つ。

天気は薄曇り、風も弱く、絶好のペダル旅日和。「さあ出発だ」と奮い立って愛車の入ったバッグを開けた時のことである。なんと、前輪がパンクしている。これでは走れない。何も寄りにもよって、初っ端からの大ピンチである。

今回、シドニーで乗機の際、その愛車を手荷物として預けて運んだ。それが、手荒な扱いで痛めつけられていなかったか心配で、数日前、新宿のビジネスホテルに滞在中、新宿界隈を試乗していた。その際、何か尖ったものを踏んでいたに違いない。

むろん、もしものためと替えチューブは持参してきていたが、その試乗は事なく済んでおり、まさかの踏み抜きには気付いていなかった。ゆえに、空気入れはホテルから後日の到着先へと別送したバック内に入れてしまっていた。

やむなく、どこかで借りられないかと駅前をうろついていると、空気入れを備えたロードバイクに乗った同年配氏が通りかかる。その旨を話すと、親切にもチューブの交換を手際よく手伝ってくれる。彼も根っからの自転車愛好家だった。こうして出だしのピンチは何とか切り抜け、およそ1時間遅れで、駅前を出発した。

上の写真に見れるように、舞阪駅の海抜は2.2メートル。津波が襲ったらひと溜まりもないだろう。この先の渥美半島も、地図で見る限り山らしいものはなく、登り下りにさほど苦労することはなかろうと高をくくる。

 

引き潮で急流をなす浜名湖口に架かる橋を渡り(写真左)、太平洋岸の街道に入る。かつての東海道を彷彿させる松林を抜けた先は、人影も乏しい延々たる海岸線だった(写真下)

延々と西へ伸びる浜辺。右手の高架道路は国道1号線の新道。

基本は平坦な海岸線をたどる道なのだが、午後になる頃から吹き始めた西風が真正面からの向かい風となる。これでは事実上、終わりのない登り坂に等しい。だが、これも自転車ツアーの味わいのひとつと、“輪っぱ回し”に精を出す。

 

 

 

 

やがて道端に見つけた看板にはウミガメの来る海岸との注意書き。ウミガメなぞ、遠い人里離れた海岸に限ると思い込んでいたが、そうでもないらしい。ひとつの発見だ。

 

 

 

 

 

 

やがて道路は自転車専用道路となり、加えて、通行者は他に誰もなく、自分専用道路の気分。

標識には「波に注意」とある。さすが海岸沿い道の醍醐味だ。だが幸いに、波は穏やかで、その注意も無用。

 

 

午後4時ごろ、初日の宿であるAirbnbの民泊のあるはずの半島なかばの村落に到着。だが、その村落には、何の変哲もない民家が並ぶだけで、それらしき表示もなく、見つけるのにひと苦労させられた。

その民泊宿は、入ってみれば、日本人の夫とアメリカ人の妻の若い夫婦で営なまれていて、言わば、日本社会の新しい窓口だった。聞けば、豊橋市の外れのそのあたりは、トヨタ企業町地帯の一つの片すみでもあって、多数のブラジル人移民労働者らも居住する、国際化の波打ち際だという。同市内育ちの彼は、その村落に移住してきた外部者だが、そうした近辺の土地柄、その村でも、外国からの外来者にも寛容さが生まれているらしい。

私の知る限り、欧米白人妻と日本人夫の結婚は、長持ちしないケースが多い。だが、すでに男女二児の子持ちの彼らはそうでもなさそうである。夫がオーストラリアでの「ワーホリ」の経験を通し、外人体験を持っている。また、古い農家を改造したその大きな古民家は、ゆとりのあるスペースといい、夫の仕事であるリホームの手腕を生かしたモダン化した家屋といい、都会居住では決して手に入らない、ゆとりと安らぎと新しさも備えている。奥さんの話でも、ビーチにも近く、自然に恵まれたその地で、二人の子供を育てることに不安はないどころか、適地との気分さえあるようだ。

また彼も、卒業後にいったんトヨタ関連企業に就職したのだが、その“引力圏”を振り切って外国旅行し、視野を広げて今の生き方をしたたかに選んでいるようだ。

ともあれ、新しく始まっている日本の変化の一シーンを目の当たりにした感があった。

 

上空は、東西を結ぶ日本の主要航空路となっており、飛行機雲が交錯している

二日目、再び海岸線をたどって、ひたすら西に向かう。上の写真にある右手遠方の三つの山の左端が、目指す伊良湖岬である(拡大すると頂上に大きなホテルの建物が見える)。また、写真中央奥の島影は、三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台となった神島である。

本州のど真ん中というべき当地に、シーズンオフ中とはいえ、これほどに人影の見られない海岸がまだ存在していたとは、嬉しい驚きでもある。

 

伊良湖岬までは、あと、ただ坂を下るのみ。伊良湖の町は、鞍部の向こう右手側にある。

渥美半島縦断ツアーは、平坦な道を予想していたのだが、向かい風に迎えられたことに加え、海岸沿いの自転車専用路は部分的で、半島内部の国道に戻ったり離れたりを繰り返す。その度ごとに、丘陵の登り下りがあり、それがなかなかの仕事となる。楽を決め込んだツアーだったが、予想に反して、けっこうな運動を強いられるものとなった。

これが、渥美半島先端の伊良湖岬灯台

到着したから宿から見る伊良湖港。沖合には伊勢湾に出入りする大型船が頻繁に行き交う。

ツアー三日目は悪天候との予報で迎えられた。そこで、予定では岬めぐりを計画していたがそれを変更、午前の早めのフェリー便に乗り、鳥羽へと向かう。

出航を待つ我が愛車。すでにぽつぽつと雨が降り始めている

一時間ほどの航海で鳥羽に入港すると、すでに強い風雨となっている。鳥羽での見物予定もすべて断念し、港から直行して宿へと向かう。大した距離ではないのだが、それでもずぶ濡れとなる。チェックインまでにはまだ数時間あったが、宿のはからいで部屋に通してもらえることとなった。準備が整うまで、創業4代目というその老舗旅館の主と話をする。彼も、昔、オーストラリアに旅行したことがあると懐かしがる。

古いながらゆったりとした部屋に通され、濡れた服を着替えて一休みしていると、津に住む妹夫妻が到着して合流。今年初め大腸癌を手術し、まだ回復まもない義弟を励ましがてら、豊富な海の幸をさかなに盃を交わし、積もった話に花を咲かせる。

 

ツアー四日目は、夜来の雨もすっかり上がって、青空に迎えられる。

宿の前で妹夫妻と分かれた後、鳥羽から志摩へと自転車ツアーを続ける。ルートは海沿いの道だが、小さい峠をひとつ越えねばならない。それでも二時間余りで、目的地、志摩市磯部町の友人宅に到着。

そこにはやがて、大阪や東京から、別の友人たちが集合してきて大賑わいとなり、それぞれの話題が活発に交わされる。

地元の鮮魚店で買い出しした刺し身類は、新鮮さといいバラエティーといい、しかも格別の安さに驚かされる。これぞ日本に戻ってきたお陰の一級の味わいと満悦。

 

こうして、四日間のツアーの合計走行距離は100キロほどだった。一日平均25キロならさほどハードなものではないが、年齢相応なところだろう。

ともあれ、無事、全行程を終了できた以上に、自らのアイデアと自らの足で、今日の日本の「地ずらの旅」を完遂しえたことは、それならではの満足感があった。それに、地元味たっぷりな知識や発見が得られたのは更なる収穫だった。

 

今回、その道をたどってみて分かったことだが、この街道はかつて、江戸から伊勢詣する最短ルートだったこと。名古屋の熱田から桑名を経てゆけば、伊勢湾を大きく迂回して、三角形の二辺をたどることとなる。

また、三島由紀夫が自分の小説の舞台に神島を選んだのは、万葉集に、伊勢への道中に伊良湖岬があげられていたこともヒントになったらしい。その万葉集には、「潮騒」という言葉(万葉仮名では「潮左為」)も使われており、それを題名ともしたようだ。

 

【この後,紀伊の山ふところをたずねた。そのレポートは前回に掲載

 

《完》

 

 

 

 

 

 

 

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