東西ギャップ

〈連載「訳読‐2」解説〉グローバル・フィクション(その46)

この訳読もいよいよクライマックスに差し掛かり、残すところ、本章と最終章のみとなりました。そして、この「究極の生き方=愛」と題した本章は、それを読み終えた時、何とも心を癒される気持ちにさせられるものとなっています。今日の、何かと心をささくれさせられるような諸現実の横行する毎日にあって、私たちが立ち返るべき原点を再確認させられる議論が述べられています。

ことに、世界の軍備の方向を転換し、災害復旧や地球の自然保全のための部隊としてゆくとの構想は、これまでの日本の自衛隊の在り方とも重なり、日本の行方にも有効な議論であるかと読み取れます。

一方、タイトルにもある「愛」といった用語は、特にこうした文脈においてはバター臭い印象の漂うものです。ことに、本章の訳読の半ば辺りの、キリストの教えの根源に立ち帰る説明がされている箇所などに接すると、私のような東洋の伝統のもとに生きてきた者にとっては、正直に言って“説教”臭く、強い「西洋性」を意識しないではいられなくさせられます。そしてそれだからこそ、こうしたギャップの存在は、歴史が形作ってきた洋の東西を分けた壁の痕跡であり、今後の地球が克服してゆくべき、ひとつの重要課題と思われます。

そうした関連で、本書の訳読者として私は、原書タイトル中の「Esoteric」の語を「東西融合〈涅槃〉思想」と訳し、題名としては、一見、何とも難儀な印象を与えています。つまり、米国という西洋世界を背景とする本書を日本語に訳す作業の意義は、上記のような西洋と東洋の間のギャップを確認しそれを何とか克服してゆくことにあると信じるがゆえのその訳語であるわけです。

むろん、すでに本書の各章でも明白のように、原著者による東洋思想への言及は広範囲にわたっており、彼の側からの東洋へのアプローチの努力には、深く感心させられているものでもあります。

本書や本章を訳読するに当たり、そうした両側世界からの互いの接近に心し、その融合化の方向に向かおうとすることこそ、今後の世界の課題であり、本書の存在の真義に迫ってゆくことだと信じるところでもあります。

 

ところで、以下、訳語上の詳細について、主に二点について触れておきたいと思います。

まず、本章のタイトルの「究極の生き方=愛」のうちの「究極の生き方」という訳語ですが、これは原語の「Endgame」をそう訳したものです。

そこでなのですが、この「game」について、この語自体はすでに日本語にも定着はしていますが、日本語上はそれこそ「ゲーム」で、極めて限られた意味にとどまっています。

つぎに、本章を含め、本書には「ホログラフィック」という表現が頻繁に登場します。

この語義は空間中に描かれる三次元の立体画像を意味するテクノロジー上の用語ですが、本書ではそれが、かなり逸脱した象徴的な意味で用いられています。

つまり、たとえば私たちという人間の存在が、身体を基にした物質起源の存在というより、むしろ、身体を構成する分子や原子やDNAに関わるあらゆる情報によって形作られる三次元像としての人間である、との考え方です。

別の角度から言えば、高度な技術の発展の結果、ホロスコープという瞬時の物体移送装置が開発された時、その背景には、人間という物体を素粒子レベルの情報に分解し、その情報を瞬時に送信し、他方でその情報に基づき、その人間が再構成されるとの認識が生まれます。

それが「ホログラフィック」的との意味ですが、すでにETたちはその技術を持っており、自分たちの移送をそれを用いて行っているとの想定もあるわけです。

むろん、いわゆるタイムマシーンはこのホロスコープの一種であり、そうした技術が実現された世界は、もはや時間の概念は無意味であり、その意味で、その「透視技術」を用いれば、あらゆる「包み隠し」のできない「透明な世界」が実現していることになるわけです。

それでは、「究極の生き方=愛の章へご案内いたします。

 

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