科学を脱皮しつつある科学

翻訳資料

2015年末、オランダのデルフト工科大学の科学者らによって行われた実験は、ひとつの対象が他の離れた対象によって、いかなる物質的媒介もへずに作用を受けることを実現して見せた。この発見はある突飛な考え――一世紀前、アルバート・アインシュタインはそれを「馬鹿げた遠隔作用」と見下して拒絶した――を立証することとなった。量子理論では、この現象は「エンタングルメント」として知られ、今や多くの物理学者によって、量子理論が描くミクロ物理学の世界での最も深遠で重要な特徴と考えられている。量子エンタングルメントは、いかにも常識的直感に反する考え方で、物理現象のもっとも根幹となる人間の実体験に逆らうかのようである。毎日の(古典的)物理学の世界では、物体は何らかの物的接触を通じて互いに作用を及ぼし合う。つまり、テニスボールはラケットによって打ち出されて飛んでゆき、窓ガラスにぶつかってそれを壊すのである。

確かに、「目に見えない力」――例えば、磁気や電気的引力や斥力――が宇宙中で働いている。しかし、量子理論では、こうした相互作用は二つの相互に関係しあう物体の間で、粒子――光の光子(フォトン)――の移動から起こされる。一方、アインシュタインは、太陽の重力は空間を歪め、それは地球という隔たった対象にもおよぶことを示した。重力の量子理論(まだ存在していない)においては、こうした状態は太陽と地球の間の「重力子」〔訳注〕あるいはグラビトンの交換に等しいことが証明されるだろうと広く考えられている。

〔訳注〕「重力子」とは重力波を伝播させる素粒子で2017年現在では未発見。一方、重力波は米カリフォルニア工科大と米マサチューセッツ工科大などの研究チームが、2015年9月14日に米国にある巨大観測装置LIGOで検出、2017年のノーベル物理学賞の受賞が決まっている。

しかし、量子エンタングルメントは、アインシュタインを悩ませた。というのは、ひとつの粒子が他の粒子に、たとえ両者間に考えうる物的相互作用がなくとも起こりうることを示唆しているからである。つまり、量子理論によると、そうした粒子はたとえ数光年離れていようと距離とは無関係に、測定された一つの粒子の性質が瞬時に他の粒子の性質に影響をおよぼす。どのようにして、それは起こるのだろうか。

エンタングルメントは、このように量子の世界の奇妙な特徴の一つであるだけでなく、それと並んで量子の粒子は波でもあり、さらにそれらは同時に二つの場所に存在しうる等々との考えでもある。そこで、エンタングルメントはむしろ、量子理論の根幹的な不可解さであるとの議論さえ呼んでいる。ことごとさようで、この理論が見せる奇妙さはエンタングルメントに込められており、今や、私たちが物理学の世界で理解できる能力に極めて限界があることを見せつける考えとなっている。

しかも、それは単に、難解な新理論であるだけではない。実験にたずさわる物理学者や技術者たちはさらに、エンタングルメントのいっそう複雑な事例に関心を広げている。2016年6月、河北の中国理工大学の物理学者は、エンタングルメント状態にある10個の光子を作り出したと公表した。そうした状態の産出と処理は、量子情報技術の出現を推進するもので、量子コンピューティングはその最も魅力的な分野となる。実際、エンタングルメントは、古典的物理学によっていては達成できない――例えば、データを高速かついっそう安全に暗号化して計算――技法や情報をもたらすことができる一種の資源となりつつある。

エンタングルメントは、私たちが馴染んできたものとは異質な類の論理を具現している。すなわち、量子論理は従来の時間と空間の考えをくつがえしている。あるいは、量子エンタングルメントを、計算の手段とデータ処理に全面的に利用することは、現在では考えられないことを可能にする巨大な技術的跳躍となりうる。

その名はむしろ相対性理論とセットにされがちなのだが、アインシュタインは量子理論を打ち出した本人でもある。1905年、エネルギーを飛びとびの単位、すなわち「量子」――ドイツの理論物理学者マックス・プランクが原子の熱振動を描写する数学的便宜としてその5年前に提唱したもの――へと分割しうることは実在現象であると論じた。

アインシュタインはその量子の考えを光に適用し、フォトン〔光子〕と呼びうる粒子に分割されると公表した。そして1920年代には、光の「量子化」として、原子や素粒子が量子理論で明瞭に数式化しうるとの考えを発展させた。そうして量子力学では、古典力学とは異なって、その実験では測定しうる何かが特定されるのではなく、ただありうる違った結果の確率が示されるのみとされた。

1920年代のコペンハーゲンで、ニールス・ボーア、ワーナー・ハインズバーグおよび他の物理学者たちによって、以下のような見解が提起された。すなわち、実験結果に確率しか期待できないのは、前進が期待されるもっと詳しい情報が得られていないからではなく、その結果自体が得られる全貌であるからである。測定は特定の値――例えばある粒子の位置――を示しうるとされが、その測定に当たって、その粒子が「どこに」あるかを知ることを期待するのは無意味である。言い換えれば、測定は〔あらかじめ定まっている〕その粒子の位置を判明させるのではなく、その測定自体によりその〔もともと位置というもが判明しない〕位置が決められてしまうことである。 

以上が、量子力学についてコペンハーゲン解釈として知られるようになった考えの核心である。ボーアが言うには、この理論の要点は、世界が何であるかを示すのではなく、測定できることが何かをあらかじめ示すことである。それゆえに、五分五分の確率といった具合に、ただ統計的に示されるだけである。この見解において、量子粒子は同時に二つの場所に実在することができるというよくある考えは、この要点から外れている。つまり、測定以前にその粒子がこことあそこの両方に存在すると考えられてはならない。むしろ、私たちはこう言わなければならない。測定以前に粒子の正確な位置とか、そもそも位置を持っているという考え自体が、まったく無意味なのである。

 

より深奥の現実性を探究

以上はすべからく、どういう見方であろうと、対象が性質とか位置とかをもっていると仮定してきた過去からの衝撃的な決別である。アインシュタインはこうしたコペンハーゲン解釈に反対した。というのは、それが客観的事実という考えを否定するからである。量子粒子にも観測者から独立した性質があるというのは、量子エンタングルメントの考えが出された際でも、アインシュタインがどうしても捨てられない見解であった。

彼は、量子理論の背後には深い事実があり、たとえそれが直接の測定からは「隠されて」いたとしても、あらゆる対象がその特定の変数によって描写されうることに確信をもっていた。したがって、アインシュタインにとって、量子理論はこの意味で不完全であり、確率の使用といったことはそれ自体が不完全な知識であることの証明であった。1935年にアインシュタインとナザム・ローゼンとボリス・ポドルスキーの二人の若い同僚は、量子理論自体も、そうした隠れ変数によって支えられているがゆえに、それが示されることが必要とされていると考えた。

量子理論によると、二つの粒子がひとつの状態を占めることはありうることで、それは「波動」と呼ばれる一つの数式により描写された。この量子波動関数は、粒子のいくつかの性質のうちの二つの値がどのように関係しているかを、それらの挙動を特定することなく数式化した。

そしてその意味が何かを知るために、スピンと呼ばれる量子の性質が考えられた。この従来の類推にはない風変わりなものについて、誰もが知っておくべきことは、量子スピンが粒子を微小な棒磁石――諸方向の中から北極と南極のみを指す――のようにさせていることである。古典的世界では、磁石はどんな方向にも向くことができるが、量子の世界では、スピンはただ二つの方向のみに制約されている。そしてそれらは、「上」と「下」を指すと定義された。

そこで、二つの粒子がそのスピンが互いに逆の方向を指すように用意された場合、一方が上なら、他方は下である。だがそのどちらかがどれであるかは特定できないものの、それらが確かに相互関係を持っている。そこで、一つの粒子のスピンを測定してそれが上であると判ると、他は下でなければならないことが判る。ここで、アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンが試みたように、ある装置が、そうした粒子にどちら向きかを表させるよう想定してみる。そして、それらの粒子が適当な距離に隔てられた後、一方の粒子のスピンを測定し、それが上であったとする。すると今や、他方は下であることは確かである。

これはことさらに驚くほどの立証ではなく思われる。一組の手袋の片方づつを郵便で違った二人に送ったとしよう。もし一人が右手を受け取ったなら、その人はただちに、何も確認する必要もなく、他方は左手であると判る。しかし、手袋の右左と違って、コペンハーゲン解釈においては、粒子のスピンは、その一つを測定するまで、それがどちらかは判らない。したがって、片方の粒子の測定は、そのスピンを決めるだけでなく、他方のスピンもどちらになるのかを決めることで、その二つの隔たりが、一キロどころか一光年にもなるとしたら、その測定の決定は果たしてどのようにして伝わるのか。

また、このアインシュタインと同僚の指摘によると、隔たった二者間には瞬時の(アインシュタインが言うような「馬鹿げた」)作用すらが起こっているのだと量子力学は主張する。だがそれはあり得ないとアインシュタインらは言う。なぜなら アインシュタインの特殊相対性理論は、光速以上の速さで運ばれる信号はないと結論しているからである。ゆえに、量子理論は何かを欠いている。アインシュタインにとって、その欠いたものとは彼の言う隠れ変数であり、それがともあれ、各スピンのすべてについて、特定の値を規定しているのである。

 

「あり得ない結論」の解決

アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンがこのように思考実験を提示した時、量子波動関数を考案したオーストリアの物理学者アーウィン・シュレディンガーは、量子理論の決定的重要性をただちに認識した(また彼が「エンタングルメント」との用語を考案した)。量子理論は一見完璧に働いているようではあるが、その思考実験は明らかに〔量子理論の〕一般にはあり得ない結論を指摘していた。だが誰もその解決法を知らず、何十年もの間、それは未解決のままとなってきた。

1964年、そのすべてが変わった。CERN――ジュネーブにある高エネルギー物理学センター――のアイルランド人粒子物理学者ジョン・ベルは、アインシュタインの思考実験が実際にはどう実施されるかを示唆してそれを再構築したのだった。ベルはエンタングルした粒子間の相互関係の測定を繰り返せば、アインシュタインが指摘したような量子力学を支持する隠れ変数が実際に存在するのかどうかを明らかにしうることを示した。

最初にベルの実験を試みたのは、カリフォルニア大学バークレー校のジョン・クラウザーとスチュワート・フリードマンで、彼らの1972年の研究は、カルシウムの原子から同時に発せられた一対のエンタングルしたフォトンが表した挙動が、アインシュタインの隠れ変数より、量子力学の考え方を支持したのであった。ただ、そうした結果は決定的に明瞭ではなかった。そして、エンタングルした粒子の振舞いに関し量子力学が述べていることを最初に決定的に提示したのは、オルセイのパリ大学のアライン・アスペクトとその同僚が1982年に行った実験で、レーザーと光学繊維技術をもちいて、エンタングルした光子を発生させ操作した。

もし、量子力学の描像が正しく、二個のエンタングルした粒子の性質がそのうちの一個が測定されるまで決定されないなら、まさにそれはあたかも両者間に瞬間的な交信がなされているかのごとくである。つまり、測定されていない側の粒子が、他の側でどちら向きのスピンが発生したのかの測定値を、ただちに「知りうる」かのごとくである。しかし、アインシュタインが考えたこととは違って、それは相対性理論には反していない。たとえ相互関係が瞬時に出現するとしても、二つの粒子の位置の間に従来のような何らかの信号の交信を抜きにしてはそれがなされているのであるから、エンタングルメントが光速以上の速さで交信していることにはならない。そしてそれはすべて、特殊相対性理論が禁じていることである。

いずれであっても、両者間のどんな相互作用も抜きにして、どのようにして一個の粒子は他の粒子に影響を与えることが可能なのであろうか。長年にわたり、誰もアインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンの推論に誤りを見つけることができなかった。それは難攻不落な仮説と見られてきた。だが量子理論においては、常識のように見えることが結局、誤りに終わりうる。すなわち、アインシュタインやその同僚は、局所性(locality)の仮説を頑強に作りあげたのであった。つまり、粒子の性質はその粒子独自のもので、そこで生じたことは介する空間をへた何らかの作用の伝播抜きには、他では起こりえない、としたのであった。

しかし、量子レベルにおいては、自然はそのように単純には働いていない。すなわち、アインシュタインの思考実験においては二個の粒子が別々のものとされたが、そうとは見なされない。たとえ空間的に離れていても、それらは一物質の二つの側面なのである。別の言い方をすれば、クリケットボールの赤い色がそのクリケットボールに位置しているようには、粒子AのスピンがAに位置しているのではない。量子力学においては、性質は「非局所的(nonlocal)」なのである。従って、もしアインシュタインの局所性の仮定を受け入れることがあるとすれば、それは、粒子Aが粒子Bのスピンに「作用をおよぼす」ことの測定に関し、その挙動を述べることが必要な場合に限られる。だが、エンタングルメントの実験が明らかにしてきている量子の非局所性は、そうした〔アインシュタインの局所性の〕見方に置き代わるものなのである。

そうであるがゆえに、アインシュタインの言う「馬鹿げた遠隔作用」と、エンタングルメントが言う「介在空間をへた作用が何もない」とは、厳密に違うことなのである。量子物理学者には、アインシュタインのその言い古された言葉が今なおメディアによって喧伝されていることに立腹する者も多い。その一方には、それにうんざりさせられながらも、エンタングルメントが何かについて広く認知されるための必要コストとして受け入れる者もいる。すなわち、「量子非局所生」の話については、もっぱら貧弱な直感的鵜呑み話が語られるのみである。まだまだ私たちは、それが実際に何を意味しているのかを表す、普通の言葉や譬えを欠いている。

これはゆゆしいことだ、なぜならエンタングルメントの非局所性は、量子力学の世界をあたかも定義さえしているからだ。それは量子重ね合わせの原則の延長と見なすことができ、手短に言えば、粒子は、測定がある「選択」を強いるまで、同時に二か所(あるいはそれ以上)に存在しているように見えうるのである。エンタングルメントは、二つあるいはもっと多くの粒子に適用される考えである。粒子は別々でありながら、一個の状態にあると考えられなければならない。エンタングルメントは、量子の世界では、空間的な分離は必ずしも独立していることを保証せず、加えて、二個の粒子の間に測定可能な相互作用さえ存在していないことを表している。それはまるで、空間をあざ笑い、それでも足らずに、エンタングルメントについての諸実験は、まるで時間を無視さえするかのごとくである。つまり、それはあたかも、ある時の測定がそれ以前の時の量子系の状態に影響するかのようでもある。

 

骨折りな実験

〔冒頭で触れた〕2015年にオランダで実施された実験は、量子の非局所性の改めての確認となった。アスペクトの実験から30年以上が経過した時に、なぜそれが必要だったのか。その理由は、アスペクトは完全にはその欠陥を塗りつぶしてはいなかったからである。つまり、いくつかの抜け道が残されており、それが「局所隠れ変数説」を生き永らえさせていた。

例えば、一つの粒子の測定の影響が他に即座に伝わるとする何らかの隠れた作用があったとしたらどうか、との説である。だが、この「伝達上の抜け道」は、1998年に除去された。あるいは、スピンは測定されているのだが、エンタングルした粒子のどこかで何らかの過程がおこり、その結果、何かが測定過程に影響してそれを隠しているとしたならどうなのか、との説である。だがこの抜け道も、2010年の注目された実験――粒子源と検出装置をカナリア諸島の離れた島に設置――によってふさがれた。

こうした抜け道など些細なことと思われそうなのだが、量子力学においては、それらは実に骨折りな実験を要求する。上のオランダの実験のもたらした大きな反響も、それが、アインシュタインの隠れ変数の考えを、いっそう確実に閉め出したことによる。

物理学者ロナルド・ハンセン率いるオランダのデルフト工科大チームは、純真な手腕を発揮し、エンタングルした電子――光子よりもっと確実に検出可能なため、そうした抜け道を除去し、エンタングルした粒子の非典型的産物をもっと確実に捕らえられた――を測定した。そして、「伝達上の抜け道」を排除するため、電子のエンタングルメントを光子のそれとの間で結び、光ケーブルをもちいて長距離――この場合1.3キロメートル――を伝播された。

エンタングルメントと量子の非局所性のこうした現実の現象は、劇的な意味をもたらす可能性を秘めている。ひとつの推論によると、エンタングルメントは永年の難問――量子力学とアインシュタインの一般相対性理論(重力を説く)とがいかに和解されうるか――への鍵となるかも知れない。この点においては、エンタングルメントはおそらく、まさに時空の布地を、縫い合わせることになろうとしている。

 

【本稿は、以下、量子コンピューテイングに言及しているが、今やこの分野はすでに広く述べられてきているので、この翻訳では割愛する。】

 

本稿は、英国の『Prospect』誌2016年8月号掲載の記事「The science of the inconceivable」(Philip Ball著)の本サイトによる翻訳。原文は転載されたAustralian Financial Review紙 2016年9月20日の記事より入手。

 

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