せっかくの自分の筋肉

COP26の“ブラブラブラ”問答に接して

私には子供がいません。なので、いわゆる「問題の子孫送り」の是非議論に加わらなければならない現実の事情を抱えているわけではありません。しかし、だからと言ってそういう議論に、「我存ぜぬ」とそっぽを向いているわけでもありません。

そうした議論に、たとえば、今月13日に閉幕した国連の気候変動会議(COP26)のテーマ――CO2の削減問題――があります。そのような地球の将来、つまり誰もの子孫にかかわる自然環境の問題に関しての私の立場は、自分の末裔に降りかかる災厄がゆえのものではなく、むしろ、純粋に思念的かつ個的動機に発するものと言えます。そして、私がもっとも強く関心を抱くのは、人間の「生命」とか「健康」といった分野を介しての結果的な地球環境とのつながりです。

 

自分の健康についてまじめに問うてゆけば――以前それを内外のエコロジー問題として考えた――、それは地球環境の“健康”問題に行き着かざるをえません。それくらい、両者は地続きの問題です。

また、自分の若かりし頃を思い出せば、何も実の子や孫の話を聞かずとも、かつて自ら抱いた「急進的」な発想や行動を再確認するなどして、危機感の追体験や共有すらも不可能ではありません。

むろん、こうした私の観点が、今の地球温暖化の対策論議にそく噛み合うのかと問われれば、その答えは「ノー」です。

というより、問題の立て方に違いがあります。つまり、これまでに人類が続けてきた生存方式、ことにその物的あるいは金銭的蓄積の拡大一辺倒の在り方に疑問をおくもので、それに何らかの変化のきっかけを与えるものとなる可能性はあります。

そういう意味では「イエス」と言えるかも知れませんが、プロセスとしては、もっと回り道を経る必要のあるものかも知れません。

そして、さらに進めた想定を置けば、人間を含む自然環境全体のエコロジーの健康を、「GNP」に代わる尺度、つまり、豊かさを計る度合いとすることを日常としてゆく社会への変化です。

少なくとも、それくらいの価値観の転換を行わなければ、刻々と進行中の地球温暖化の危機に決定的には迫れないだろうと思います。

ともあれ、今度のCOP26の結果を見て、「段階的廃止」であろうと「段階的削減」であろうと、「大山鳴動して鼠一匹」ではないですが、CO2をやり玉にあげた「鼠捕り」合意の限りでは、案の定のシーンを想像させられてしまいます。

それは、最新のEVに乗ってジムに駆けつけ、機械相手の運動に汗を流しているシーンです。

 

そこで、CO2削減問題はEV利用の拡大に期待するとして、健康維持のための機械依存について思うのですが、どうせ自分の余剰カロリーを自分の運動によって燃焼するのなら、その機械相手の消費のための消費は、なにやらシンプル過ぎるところがあります。

というのは、そこには、①その消費のための運動の必要、②その運動のもたらす向精神効果の利用、そして③そこで生じる運動量、との三要素があります。これらをそれぞれ単発的に扱うのではなく、相互に組み合わせた健康と実用のサイクルを作ってみたらどうでしょう。

たとえば、フィットネスバイクなり他の機械を使った運動の場合、その運動で発電、蓄電し、節電する仕組みです。うまく噛み合えばまさしく「一石三鳥」の効果です。

 

ついでですが、合わせて浮かんだ余談です。たとえば、戦車とか軍艦そしてミサイルなどの兵器、あるいは、宇宙ロケットの推力エンジン等には、「CO2ゼロ」は適用されないのでしょうね。そもそも、兵器なんて人殺しの道具に、「環境に優しい」もへったくれもないのでしょうから。

 

【注】副タイトルの「ブラブラブラ」は、COP26会議に関してのグレタ・トゥーンベリの発言「blah, blah, blah」を借りたものです。その意味は「たわごと」と当てこするため、「など、など、など」と言っています。

 

 

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